3
風雨が歩みを阻むようにまとわりついてくる。しかし不快ではなかった。むしろ、覚悟を決めたあとでは不思議な気力と高揚感さえ与えてくれる。
迷いや葛藤がないといえば嘘だ。それでも、すべてが露と消えてしまう前にやらなければならない。この思いを伝えに行かなければならない。
降りしきる雨が万雷の拍手のように背中を押してくれる。大自然が奏でる音に心が安らぐ。なぜ今まで気付けなかったのだろう。記憶がなかった間、ずっと雨が降っていなかったということに。
浪越高校の校門をくぐると、凍てついた時間の中で、校舎がやけに存在感を放っていた。東棟から中に入る。見慣れた教室、歩き慣れた廊下。人の姿はないのに、生徒たちの喧騒が耳朶を打つ。
渡り廊下を通って西棟へ向かう。そこへ近づくとピアノの音が聴こえてきた。頭の中に音楽が復活して胸が震えた。はじめ軽やかだったメロディは、やがてどこか不穏な気配を帯びてくる。それでも耳を澄まさずにはいられない。渇望していたように、その情緒に浸る。
今ならわかる。この曲はショパンの『雨だれ』だ。
そのドアの前に到着した。もっとも青春に刻まれた、イエティ倶楽部の部室だ。
ドアを開けるとあの三人がいた。彼女がピアノを弾き、二人がじっくり聴き入っていて――一瞬、そんな幻影が見えた。
アップライトピアノは、まるで奏者を待ちわびているようにりんとたたずんでいた。流麗に紡がれる旋律は、ときに声より感情を顕わし、ときに言葉より情景を描写するのだと知った。
目頭が熱くなりそうになるのをこらえ、室内に顔を向けると山河の姿があった。彼女はアメの席だった場所に座っていた。優雅に足を組んでいる。
「やあ、おはよう。……いや、今はこんばんはかな? それともこんにちは?」
どうでもいいことで場をなごませてくれる。なんでも打ち明けたくなる雰囲気を形成してくれる。いつも通りの山河の様子に安心した。
できれば積もる話でもしたかったが、時間はもうあまり残されていない気がしてアメは端的に伝える。
「お礼を言いに来ました」
「お礼? はて、なんのことだろうね。むしろ、礼をするならこちらの方だと思うが」
「いえ、なんだかんだ俺の方が世話になってたんで」
結果的には、山河には助けられてばかりだった気がする。間接的にカウンセリングを受けていたといっても過言じゃない。
「きみがそう言うのなら、ありがたく受け取るよ。なら、これで貸し借りなしとしようじゃないか」
「ありがとうございます」
山河のやさしさに痛み入りながら、アメはぺこりと頭を下げた。
「にしても、浪越高校はいいね、開放的で。私はここの出身じゃないが昔を思い出す」
「学生時代ですか?」
「それもあるが、それより養護教諭だった頃の思い出の方が多いかな」
「養護教諭って保健の先生ですか。へえ、そうだったんですね」
それは初耳だった。
「どうしてそこからカウンセラーに?」
そう訊くと山河は窓の外に視線を逸らした。
「子どもだってひとりの人間なんだよ。色々な性格の子がいて、様々な苦悩を抱えている。だが多くの大人は過少に評価しがちだ。所詮子どもの悩みなど矮小なものに過ぎないと低く見ている。成長すればそれもいい経験だったとね。しかし、実際はそう甘くない。子どもの頃に受けた傷というのは、生涯に渡って影響を及ぼしうる。だから、しっかりと向き合わなければいけないんだ。一人ひとりとしっかり向き合って、最も適した処方箋を出さなくてはいけない」
影の差したその表情から、山河自身もどれほど思い悩み、子どものことを考えてきたのか、ほんのわずかながら窺い知る。
「学校という場ではいろいろな制約もあってね。私が非力だったというのもあるが、なかなかそれが難しかった」
すべはそんな想いからはじまったのだ。そんな人と出会えた幸運に胸が震えた。
「続けてくださいね、カウンセラー」
ふっ、と息を吐き、「もちろん」と山河はアメの目を見据えて力強く言った。
「じゃあ、俺はこのへんで」
「そうかい……今度、うまい日本酒でも持っていくよ」
一緒に呑もう、と山河はお猪口を傾ける仕草をした。それは楽しみだ。変に絡んでこないことを祈りたいが。
「ぜひお高いのを期待してます。でも、くれぐれも飲みすぎないように」
「余計なお世話だ」
口角を上げながら、山河はしっしっと手を払った。
去り際、ドアの前でアメはふり返る。
「お世話になりました」
丁寧に腰を曲げる。顔を上げたときには、もう山河の姿はなかった。
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