第三部
1
アメが目を覚ますと、トリコットの二階の部屋だった。
窓に風と雨が打ちつけて、がたがたと激しく揺れている。外は相変わらずの嵐だった。
学校の制服を着て下に降りると、澤井がカウンターで仕事をしていた。
いつも通り挨拶を交わし、カウンターのスツールに腰かけてコーヒーを頼む。
「かしこまりました」
オーダーを受け、澤井は豆をミルに投入してガリガリとまわし、ドリッパーで抽出する。普段から見慣れた作業風景だがつい見入った。いつもより動きが洗練されているような気がしたからだ。
澤井はわざわざカウンターを出て運んでくれた。はじめた会ったときのように。
「お待たせしました」
ことり、と目の前にソーサーが置かれる。カップから淡い湯気が立ち昇り、香りが鼻孔を通り抜けた。今や世界で一番好きだといっても過言じゃない香りだ。
一口啜る。ソムリエのように慎重に舌にのせて転がす。飲み慣れた、もっとも好きな味だ。ただの一滴も逃すまいと、酸味も苦みも甘みもすべてからだに浸透させた。
そうして、一度大きくため息を吐いてからその言葉を口にする。
「うまい」
紛うことなき本物の味だった。
満足そうに微笑む澤井に、アメはずっと聞きたかったことを訊いた。
「マスターはどうして喫茶店をやろうと思ったんですか?」
「大学を卒業して、実はサラリーマンをやっていたこともあるんだ。でも、組織というか社会の気風というか、そういうものに私は馴染めなかったんだな。昔から薄々わかってはいたんだけど、やっぱりというか……」
――そんな中、オアシスともいえる空間があった。職場の近くにあった喫茶店だ。
ひとりで切り盛りしている手狭な店だった。コーヒーがおいしかったというのもあるが、なにより、おしゃべり好きのその個性的な店主の人柄に魅了された客でいつも繁盛していた。そういうと常連ばかりになりそうだが、その店主は決して一見客なども蔑ろにすることはなかった。むしろ、混みあっているときなどは、常連がさっさと帰らされたりしていたほどだ。単なる集客のためじゃない。老いも若きも性別も仕事も関係なく、どんな人でもくつろげて、ときに価値観を共有できるような、そんな空間を提供したい。店主はそう語ってくれたことがあった。
「私と同じ気質だったというのもあるんだろうね。……でも残念ながら、私はその人のように強く自分を持ち続けられなかった。逃げてばかりの人生さ」
ふっ、と澤井は自嘲気味に笑った。
その様子に、アメはふいに胸騒ぎがして、
「マスター、まさかまた別のとこに行っちゃったりしないですよね?」
思わずそう問いかけていた。
「実はちょっと考えてたんだ。あの街に」
えっ、と驚いて澤井の視線を追うと、壁にかかった一枚の絵にたどり着いた。レンガや、石灰が塗られた外壁の建築が目立つ異国の街だ。
「コーヒーより紅茶が好まれるお国柄だから、まだ行ったことなくてね」
「そんな……」
「でも今はもう考えてないから安心してよ」
よかった。澤井には是が非でも浪越にいてほしい。そうじゃないと困る。
「いつまでも逃げ続けているわけにはいかない――」
窓の外に顔を向けて、澤井は
それから、しばし雑談している内に寿命のように味わっていたコーヒーも尽きた。潮時だった。
「じゃあマスター、俺そろそろ行くよ」
「もう行ってしまうのかい? もっとゆっくりしていけばいいのに。なんだったら、もう一杯くらいご馳走するよ」
「ありがとうございます。でも、すいません、お気持ちだけ受け取っておきます」
逢わなければいけない人がまだいるのだ。
外に出る前に、アメはふり返って店内を今一度見渡した。
澤井と目が合う。その口が「ありがとうございました」と動いた。深々と頭を下げてからもう一度カウンターを見ると、もう澤井の姿はなかった。ただ朗らかに見送ってくれる笑顔だけが残っていた。
「ごちそうさまでした」
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