18

 夕刻――ついこの間まではこの時間、まだ真昼のように明るかった空も、盆を越えて足が速くなっていた。薄っすらと夜気をはらんだ風が腕やふくらはぎに当たる。

 はじめて甚平というものを購入して袖を通してみたが、なるほどなかなか着心地がいい。一朗が毎年夏になると愛用している理由がわかった。


 アメは浪越神社の鳥居の前に、一番のりで着いていた。目の前を浮足立った大勢の人々が通り過ぎていく。その雰囲気に呑まれて挙動不審にならないよう自らに言い聞かせていたが、緊張からくるしかめっ面だけは隠せていなかった。次に幸が到着するまで、アメは周囲に睨みをきかせていた。

「おまたせー、アメくん久しぶり……お、甚平にしたんだ。けっこう似合ってんじゃん」

 いい具合に焼けた肌も甚平に合っていると珍しく褒めるので、アメも素直に「そっちこそ」と言うと、

「見惚れるでしょ?」

 幸はその場で一回転してみせた。

 黄色の下地に木槿や芙蓉の花が描かれた非常に明るい色調の浴衣だ。自分のらしさをよく理解しているようだった。赤い花の髪飾りもまた、茶色い髪でも十分似合っている。

「美空ちゃんの浴衣もすごいかわいいの選んだから、楽しみにしてなよ」

 ハンディファンを口元にあてがって、幸は思わせぶりな笑みを浮かべた。


 そこへ今度は、漣がぱたぱたと団扇で顔を扇ぎながら合流した。

「やあ、お疲れさま。二人ともいい恰好だね。いかにも夏祭りって感じだ」

 漣は対照的に、半袖シャツにデニムパンツといういたって普通の装いだった。ただ胸元の彼のシンボルがこの日はなかった。

「今日はカメラ持ってきてないんだな?」

「ああ、せっかくのお祭にファインダーばかりのぞいているのもどうかと思ってね」

 その代わり、着ているシャツにカメラの画像がプリントされていた。筋金入りだ。

 残るは美空だけとなった。打ち合わせていた時刻まではまだある。その内やってくるだろう。


そう思い三人で適当に雑談していたが、時間を過ぎても連絡もなく、彼女は現れなかった。

「美空ちゃんが遅れるなんて珍しいね」

 時計を確認して幸が不安を吐露する。たしかに珍しい。アメもまたその性格をよく知っているので気が気じゃなかった。

「俺、ちょっとトリコットの方向、探しにいってみる。もしかしたら何かあったのかもしれないし」

「いや、入れ違いになるかもしれないし、もう少し待ってみてもいいんじゃない?」

「うん、浴衣着るのはじめてだって言ってたし、女の子は他にもいろいろ準備たいへんなんだから」

 二人が留めるが「だとしてもどっか途中で鉢合わせるだろ」とアメは聞く耳をもたなかった。そうして駆け出そうとした矢先だった。雑踏に交じって、カコカコという靴音が近づいてきた。そちらに目を向けると、人を避けながら走り寄ってくる美空が見えた。

「みんなごめんなさい、待たせちゃって――」

 到着した美空は、膝に手をつくと息を切らしたまま謝罪した。思った以上に浴衣の着つけに手間取ったのと、慣れない下駄サンダルで遅れてしまったという。

「全然大丈夫だよ。急がなくてもよかったのに」

 女の子がそんな汗を掻くものじゃないと、幸がハンカチで額を拭いてやる。

「ノープロブレム」と漣、アメも「慌てなくても祭は逃げてかねーさ」と安堵して腕を組んだ。それを見た幸がおかしそうにツッコむ。

「いや、アメくんもけっこう慌ててたよね?」

「べ、別にそこまで心配してねーよ……んなことより、いい浴衣だな」

 美空の浴衣は、白地にアジサイが描かれたものだった。濃淡の違う多彩なアジサイは、大人しく聡明な彼女にぴったりだ。さらに髪飾りもアジサイで統一していた。

「そうでしょうとも。ほら、もっとちゃんと褒めてあげて!」

 なぜか幸の方が誇らしげだった。

「に、似合ってるんじゃねーの?」

「ちょ、ちょっと幸ちゃん!」

さらに幸が美空の肩を押してアメに見せつけようとする。だが二人は赤面して顔を背けるばかりだった。



 四人は出店通りに入る前に、先に浪越神社へ参拝していくことにした。

 境内では、すでに出店通りを抜けてきたのだと思われる人々がそこかしこで休んでいて、場末のようなゆるい空気が下りていた。周囲には、提灯や電飾をはじめとした様々な装飾がなされている。もっと暗くなれば、社殿はさぞ神々しく映えることだろう。その光景に酔いしれるのもまた、このお祭の一つの楽しみ方かもしれないとアメは思った。


「やっぱりそうだ」

「やっぱり?」美空が小さく呟いたのをアメは聞き逃さなかった。

「わたし、昔このお祭に来たことある」

 浪越大祭は参加したことがないと思っていたが、この雰囲気に触れて記憶が像を結んだらしい。


 幼い頃、母親と祭に訪れた美空は、人ごみの中ではぐれてしまったそうだ。心細くて泣きながらさまよっていると、いつのまにかこの境内にいた。そのとき脳裏に、神様にお願いすれば助けてくれるのではないか、と閃いた。おそらく、その前にもお参りしていて、そういうことを知っていたのだろうということだ。美空が必死で「お母さんに逢えますように」と祈ると、本当にその直後、母親が見つけてくれて駆け寄ってきたのだという。そのことを母親に伝えると、「なら今度は神様にお礼をしなくちゃ」と言われ、ともに感謝を奉げたのだということだった。


 美空の母親はすでに亡くなっているので複雑ではあるが、あたたかいエピソードだ。

「でも神様って今は神輿に載ってるんだろ? 願いって通じるもんなのか?」

 些末な疑問だと思いつつも、アメはつい口にした。

「子どもだったし、そこまで考えてなかったけど……」

「あまり気にしなくてもいいんじゃないかな。ほら見て――」

 漣が上に向かって指を差した。その先に、夜空より一足早く月が昇っていた。

「浪越神社でお祀りしているのは〝妙見〟という神様なんだけど、妙見様は元来〝北極星〟の神様なんだ。北極星は不動の星――つまり天の中心だから、月や太陽も含めたすべての星を統べると考えられてる。だから――いつでもどこにいても、きっと見てくれてるんじゃないかな」

 境内を出る前に拝殿に手を合わせる。日々の感謝と今日という日を最大限楽しむことを誓う。それは、鈍く光る御神体の鏡にぼんやり映った、自分への暗示のようでもあった。



 出店通りはやはり人でごった返していた。浪越も他の地方都市同様、過疎化が進んでいると聞いているが、このときばかりはそんなこと信じられないほどの人出だ。

そんな状況なので、あらかじめ食べたいものやどんな遊びをやるか検討しておくことにした。四人で話し合っていると、唐突に幸が慌てた様子で輪を抜けていった。何事かと目で追っていると、手近にあった玩具の出店の主人に話しかけていた。

「ごめんごめん」と謝りながら戻ってきた幸は、なぜか稲荷のようなキツネの面を着けていた。訊くと、あまり顔を合わせたくない人がいたらしい。当然ながら、浪越高校の生徒もちょくちょく見かけていた。

 すると漣も、それが気遣いなのか本当にそう思ったのかはわからないが、「いいな」と一言放って幸にならった。戻ってきた彼は側頭にひょっとこの面をかけていた。稲荷とひょっとこが揃うと、少し古い気もするが祭らしさは全開だ。


 そうして、いざ人の波に乗る。途中、並ぶ列を間違えたりしながらも、食料を買い求めていく。アメはこのためにバイトを頑張ってきたので財布の紐が緩かった。イカ焼きや焼き鳥といったものを歩きながら頬張りつつ、射的や型抜きといった定番の娯楽も楽しんだ。

 ほどよい疲れに身をやつしながら出店通りの出口を目指す。暗くなるにつれて人はいっそう増え、歩みももどかしい。


〝タンタンポンポン タンポンポン〟


 ふと、隣からそんな声が聴こえた。心ここにあらずといった様子で、美空が祭り囃子に合わせるように口ずさんでいた。

「美空、大丈夫か?」

 照明の加減かもしれないが、熱気に包まれて顔が火照っているように見えた。「大丈夫」と彼女は返答したが、気丈なふるまいにも感じられた。しかし、それよりも気になったのが――

「今、なんの唄歌ってたんだ?」

「あ、聞こえちゃってた?」

 無意識だったようで、美空は恥ずかしそうにうつむいた。

「太鼓の音とか聴いてると、タンポポを思い出して――」

 タンポポは和楽器の〝鼓〟に似ていることから〝鼓草〟という別名があるらしい。タンポポと呼ばれるようになったのも、その鼓の音が元なのだそうだ。

「へえ、ピアノとかだけじゃなくて、そういうのも好きなんだな」

「まあね。お神楽とか見てみると、和楽器の音がすごい神々しくてつい見入っちゃうし」

 アメも試しに「タンタンポンポン――」と心の中で歌ってみた。なるほど、自由に野に咲くタンポポのイメージも湧いて、不思議と気分が軽くなる。祭り囃子に耳を傾けさせ、喧騒を中和してくれる。一種のおまじないのようだった。



 ほどなくして、ようやく休憩所となっている波止場に抜けた。

「あー、息苦しかった」

 幸はお面を外すと、浴衣の襟元から空気を送った。顔には疲れも滲んでいるが、充足した表情を浮かべている。

「そうだね。まあ、僕は年に一回で十分だけど……それじゃあ、あとはどこかに陣取って、食べ物を消費して、灯篭流しと花火を見て帰るってことでいいかな?」

 部長らしく漣がまとめて、「異議なし」と幸が同意した。

「美空、もしかしてまだ何かやりたいことあるんじゃないか?」

 美空も頷いていたが、アメはその表情にどこか物足りないという色がある気がした。

「せっかく来たんだから、やりたいことが残ってるなら全部やってこうぜ」

 逡巡する彼女に、気兼ねなく言えばいいと幸と漣も後押しする。

 するとは美空は「りんご飴と綿飴が食べたい」とぽつりと言った。

「なんだ、そんなことか」

 どっと場がなごむ。定番だが、そういえばデザート系は買っていなかった。「可愛いなあ、美空ちゃんは」と、愛おしそうに幸が抱きついた。


 幸い、その二つは休憩所のすぐ近くで売られていた。綿飴はあとでシェアすることにして、りんご飴を美空は嬉しそうにちろちろと舐めていた。

「しっかし……やっぱ、座れるとこなさそうだな」

 休憩所の席に空きがないか探してみたが、どこも人で埋め尽くされていた。レジャーシートを敷いている一団もあるほどなので、望みは薄いと早々に断念する。

「忘れてたよ。本来、早い時間に先に場所取りをしなきゃいけないんだ」

 それが暗黙の了解なのだと漣が思い出したように言った。だがまあ、場所取りをするとなると誰かが残らなくてはならなかったわけで、土台無理な話だった。

 仕方なく、路傍の縁石にビニール袋を敷いて女性陣だけ座り、男性陣は立つことにした。

「たこ焼きうっま! 美空も食べろよ」

「わたしはいいよ。もうお腹いっぱい……」

 りんご飴を食べてから、美空はラムネを飲むだけで他に何も口にしていなかった。

「そういえば今、お神輿がこっちの方に向かって練り歩いているはずだけど、それは見に行かなくていいかい? そっちも人はすごいだろうけど」

「どうする?」

「今年は遠慮しようかな……」

 美空はそういうのも興味あるかと思ったが、存外のり気じゃなかった。それどころか、消え入りそうな声に力なく顔を伏せている。

「なんか具合悪そうだな?」

「この人の多さだし、やっぱり疲れたよね。ゆっくり休んでた方がいいよ」

 幸も心配そうに美空の顔をのぞきこむ。


「やあ、みなさん、こんばんは!」

 美空を気遣っていると、不意に溌剌とした声が飛んできた。一斉にふり向くと、澤井が立っていた。

「よかった見つけられて。会えないかと思っていたよ」

 昨日、祭で会えたらと話していたのを忘れていたわけじゃないが、この人の多さに諦めていたのだ。偶然、この近くに座っていて気付いてくれたらしい。澤井はビールの入ったコップを手にしていたので、軽く乾杯した。

「美空は待ち合わせに間に合ったのかな? ちゃんと合流できたようでよかった」

「お、やってるね。楽しんでるかい?」

 少し遅れて、同じくビールを持った山河もやってきた。澤井たちと一緒に呑んでいたようだ。二人とも顔を赤らめ、祭の雰囲気と一体となった陽気なオーラを放っていた。

 ちょうどいい。山河がいるなら不安を解消しておこう。

「楽しんでますけど、ちょっと美空がさっきから具合悪そうなんですよね」

「ほう? まさかお酒を呑ませたわけじゃないだろうね?」

「呑ませるわけないじゃないですか。そんな冗談言ってる場合じゃなくて」

 そう反論すると、山河はにわかに顔つきを変えた。

「どういうふうに具合が悪いんだい?」

「ちょっと怠くて頭が痛いです。でもほんとにちょっとだけで……」

 山河が相手だからか、美空は素直に答えた。さらに、来る前は平気だったのかと問われてこくりと首肯する。

「なるほど……じゃあ、単純に人ごみに酔ったんじゃないかな。こういう場は久しぶりだろうし」

「ちょっと約束の時間に遅れてたんで、走ってきたから、それもあるんじゃないかな?」

 漣が補足すると、澤井が申し訳なさそうに口を挟んだ。

「ああ、やっぱりそうだったのか。すまない、それは私のせいでもあるんだ。お客さんがまだいたから、店じまいが遅くなってしまってね」

 にも関わらず、美空はぎりぎりまで手伝ってくれていたのだそうだ。

「ううん、伯父さんは早く行くよう言ってくれたけど、わたしが勝手にやってただけだから」

 そういう事情があったなら、一言でも連絡をくれればいくらでも待っていたのに。

「できれば、もっと人の少ない場所で安静にしていた方がいいとは思うが……」

「ここで休んでれば大丈夫です。明日も休みですし」

 あくまで帰るという選択肢はないらしい。それはそうだ。ここまできて、宴もたけなわというときにひとり寂しく家に帰るなんてあまりに寂しい。

 だが一方で以前、無理をさせて体調を崩させてしまったこともアメは鮮明に憶えていた。祭を楽しんでも、そのあとで臥せてしまえば思い出に泥を塗ることになるのではないか――そう考えると悩ましかった。

「それなら、浪越神社で休めばいいんじゃない? あそこなら人もそんないなさそうだし」

 幸が妙案とばかりに進言したが、美空の表情はなお翳る。

「でも、あそこまで行ったらまた戻ってこれるかな……」

 最短ルートである出店通りを行くわけにはいかないので迂回する必要がある。灯篭流しまではまだ余裕があるが、不安を口にするということは、現時点ですでに往復する気力に自信がないのだ。

 と、アメの脳裏におそらく誰もいないであろう、とっておきのスポットが浮かんだ。

「なら、もっといい場所があるぞ」



 会場からほど近い道路に、祭からの帰宅客を狙ったタクシーが複数台停まっていた。美空を連れたアメは、その先頭の一台に乗りこんで目的地を告げた。

「ごめんなさい、我が儘ばっかり言って……」

 シートにしっかり体重を預けた美空は、アメにだけ聞こえる声で言った。

「美空はそれくらいでいいと思うぞ。こっちもその方が気楽だし、謝る必要なんてない」

 接するうちに、アメでもなんとなくわかった。彼女はきっと、今まで様々な我慢をしてきたのだろうということだ。その生い立ちゆえに。そのやさしさゆえに。その内側にはきっと苦しみも哀しみもあるだろうに、自分の殻に閉じこもるのに慣れすぎている。ならば、ちょっとやそっとの我が儘くらい、いくらでも許していい。

「お客さん、肝試しでもするのかい?」

 運転手がミラー越しに話しかけてきた。まあ、そう思われても仕方のない場所だ。

「幽霊よりもっといいもん見に行くんです!」


 二人は竜宮寺の入口の前で降ろしてもらった。

「ここなら静かだし、灯篭も花火も見えるだろ」

「そうだけど……まさかお墓で見るなんてね」

 車内で多少休めたおかげが、美空の顔色は幾分よくなっていた。

「おわっ!」

 二人が墓場の門にたどり着くと、着物を着た人影があった。場所が場所なので心臓がすくみ上がり、アメは思わず声を上げた。

「おや、どなたですかな?」

 ふり返ったのは住職だった。何度か墓参りの際、目にしたことがあった。なんてことはない、法衣が着物のように見えただけだった。

 手間が省けた。非礼をわび、事情を話すとあっさり快諾してくれた。住職もまた、祭を見物するために立っていたのだった。


 そうして無事、亀岩へとたどり着くことができた。浴衣の美空は上がりにくいだろうと思い、アメが先に座ってその手を引いてやった。

「あ、意外に座り心地悪くないね」

「だな。怖くないか?」

「うん、平気」

 よかった。美空は怖がりなので、ここへ連れてくるのはある種賭けでもあった。もっとも、昨日墓参りに訪れておいて怖がるというのも失礼な話ではあるが。

 それきり二人は口を閉ざす。いつしか肩が触れ合うのにも慣れていた。

 その内、湾の中に点のような光が灯りはじめた。

「お、はじまったか」

 多くの町人が出はっているので街の明かりは少ない。そのおかげで、湾に朱い幻想的な光が漂っていくのがわかりやすかった。とはいえ――

「やっぱ遠いな……」

 距離があるので、どうしても灯篭の火は茫漠としている。まあ、見れただけで今年はよしとしてもらおう。

「でもここからだと星も見えやすいし、一石二鳥だね」

 そう前向きに言って美空は夜空を見上げた。月とともに無数の星がまたたいている。

「そっか、浪越だとこんなに星が見えるんだな」

 海の星と星の海を同時に臨む。どちらも浪越に来たからこその光景だ。しかし、それよりもきれいなのは――

 ちらりと美空の横顔を窺う。その瞳にはこの夜空以上の星が輝いていて、吸いこまれそうなほどきれいだった。

 しばし海と空を楽しんでいると、今度はその夜空に一つの大輪の花が咲いた。

「きた」とアメが前のめりになる。花火はここからでも十分迫力があった。首も疲れにくくていい。

 花もまた、地上に咲くものも空に咲くものも等しく美しい。世界がこんなにも光で溢れているなんて知らなかった。

 美空にも笑顔の花が咲く。とりあえず体調は心配なさそうだった。

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