17

 瓶ビールのケースをトラックの荷台から降ろして、アメは額の汗を拭った。炎天のもと、Tシャツがべっとりと肌に張りついている。絞れば雑巾のように水が滴りそうだった。

 ともに作業していた兄貴分の先輩が、「お疲れさん」と言ってスポーツドリンクをくれた。「あざっす」と言ってキャップをゆるめ、一気に半分ほど減らす。

「明日から祭か。神崎くんは彼女とでも行くの?」

「まあ、そんなとこっす」

 恋人はいないとずっと言っているのに、その手の話が好きらしくいつもからかってくるのだ。最近はもう面倒なので適当に合わせていた。


 毎日のようにバイトに精を出していると、あっというまにお盆に突入していた。現在は酒類を運搬する助手の仕事をしていた。明日から祭ということで、この数日間は特にハードだった。だがそれも、いったんは今日のお昼までだ。午後からは予定があるので失敬することになっていた。

「じゃあ、すいません、お先です」

「お疲れさん」という声を背に、アメは急いで近くの銭湯に向かった。家に帰っている余裕はない。烏の行水で汗を洗い落としてから、持参していた着替えに袖を通し、急いでトリコットへ向かった。


 店に入るとドアベルが鳴る。その音すら、この時期は涼しげに感じた。

 冷房の利いた店内は極楽だった。澤井が労いの言葉をかけ、アイスコーヒーを運んでくれる。先輩からもらったスポーツドリンクも飲みきっていたが、全然足りなかったのでそれもまたたく間に飲み干してしまう。

「かー、しみるなー!」

「いい飲みっぷりだ。頑張って働いてきたんだろうね」

「仕事のあとにお酒を飲みにいく大人の気持ちが今ならわかります」

 そこへ美空が奥から出てきた。「アメ、お疲れさま」と言いながら皿を目の前に置く。この日迎えに行くことを伝えた際、なら昼食を用意しておくと言ってくれ、ありがたく頼んでいたのだ。

 それはソーメンだった。自分でタレにつけながら食べるのではなく、あらかじめ具材と一緒に全部盛られていた。トマトやアボカド、蒸し鶏といったさっぱりした食材が並ぶ。それに加えて、冷やし中華のような酸味のある甘辛いタレが、まさにこの季節にうってつけだった。

「そんなに急いで食べると、喉詰まるよ」

 美空に呆れていたが、食べやすいのもあってどんどん箸が進んだ。最後は皿を持ち上げて、タレの一滴まで残さずかきこんだ。彼女には内緒にしていたが、寄っていきたい場所があったので急ぐ必要があったのだ。

 食後のコーヒーも澤井が勧めてくれたが遠慮した。美空も準備を整えてくれていたので、すぐに出発する。澤井に代金を払いながら、祭でまた会えたらという話をして、忙しなくトリコットをあとにした。



 バスを降車した二人は、塀や生垣に挟まれた道路を歩いていた。

「わたしが行って本当に迷惑じゃない?」

「ああ、じいちゃんも友達連れてくって言ったら喜んでたし、全然大丈夫だ」

 予定とは神崎家の墓への盆参りだった。祖父と二人きりで行くというのも寂しいし、美空はアメの家のある地区は来たことがないというので、誘ってみたのだ。

――あくまで表向きの理由は。


「へえ、アメはここからいつも学校に通ってたんだね。いいなあ……わたし、こういう里山みたいなところに住むの、ちょっと憧れてたんだ」

 美空が興味深そうに周囲を眺めながら言う。

「こんなとこのどこがいいんだ? 古臭い家ばっかだし、コンビニは遠いし、夜なんかカエルがうるさいし、いいことなんてあんまないぞ?」

「でもまわりがビルばっかりとか、人がたくさんいるよりずっといいよ。わたしがそういうところで生まれたから、そう思うのかもしれないけど」

 いわゆる、ないものねだりなのだろう。でも言われてみれば、小さいときは毎年夏休みに遊びに来たがった。祖父母に逢いたかったのに加え、この場所の空気が好きだったというはたしかにあった。

「秋になると、蜜柑とか柿が食えるってのはいいけどな。あんまりおいしくなかったけど」

「勝手にとって食べたの? 悪いんだー」

「くれるんだよ、近所の人が!」

 そんな話をしていると、やがて竹林に面した道路に突き当たった。

「わたし、こういう普通に生えてる竹、間近で見るのはじめてかも」

「嘘だろ!?」

 しみじみと言う彼女にアメは愕然とした。竹林なんてちょっと市街地を外れればそこらじゅうにある。東京でだって別に珍しくはないはずだ。どうやら、美空は相当な都会っ子だったらしい。


 あそこだ、と言ってアメが案内したのは、竹林の途中にあった抜け道だった。事前に下調べをして把握していたのだ。竹のトンネルを抜けると、視界が開ける。その瞬間、美空が声にならないため息を吐いた。


 満天のひまわりが咲き誇っていた。


 さとやま公園でひまわりを見ることができなかったのが心惜しかった。せめてもっと近場で見られる場所はないかと思いを馳せていると、子どもの頃見た記憶が蘇り、一朗に場所を尋ねたのだ。美空を誘わない手はなかった。ぜひとも連れてきたいと思った。

 美空の表情もまた、いっきに明るく咲いていた。

「さとやま公園じゃなくても、十分すごいだろ?」

「ほんと……むしろこっちのほうが儚い分、きれいに見えるかも」

「儚い?」

「うん。きっとここのひまわりはその内、土に埋められちゃうんだよ」

〝緑肥〟といって、あえて草花を育ててからそれごと耕すことで、そのあとに栽培する作物の養分にするのだという。特にひまわりはよく用いられるのだそうだ。こんなに力強い花でも、いつかは大地の糧となるのだという。

「そういや、前に幸が似たようなこと言ってたな」

 何かの話をしていた際、地球を覆っている土壌は生物の死骸――有機物が含まれているから黒いのだと得意げに語っていたのを思い出した。そうして生命(いのち)はまわっているのだ。

 青空とそこに縦横に散った白雲、その手元でわずかに朱を帯びた黄色い大輪、虫たちの鳴き声、ときおり風が吹き抜け葉っぱがざわめく。

 ときを忘れ、二人はしばし陶然としていた。


「そんじゃ、そろそろ」

 いつまでもいたい気分だったがタイムリミットだった。墓地で祖父が待っているのだ。

 ふと、アメは少年のような考えを抱いた。どうせ埋められてしまうのなら――

「ちょっと近道するか」

 そう言ってアメは、ひまわり畑の中に足を踏み入れた。

「ど、どこ行くの?」

背後から美空の戸惑う声が聞こえたが気にしない。服が汚れることもいとわず、ずんずんとかき分けていく。背後からも茎を踏みしめる音がした。ちゃんとついてきているようだ。

 進むごとに高揚し、追いつかれまいと次第に速度を上げた。そして、また陽光にさらされる。少し間を置いて、飛び出てきた美空をアメは受けとめた。用水路があるのだ。

 二人とも全身に、葉っぱや土が付着している。美空がそれを払い落としながら、非難の目で睨んだ。

「もう……何考えてるの?」

「たまにはこういうのもおもしろいだろ。うちの墓はこの向こうなんだ」

 用水路の向こうに視線を向ける。

「どこかから渡れるの?」

「飛び越えるんだよっ!」

 言った側から、アメは弾みをつけて一息に用水路を跳び越え、危なげなく着地した。男子ならそんなに大したことのない距離だが――

「むりむり、わたしには無理だよ」

「大丈夫だって、手とってやるから。ほら、早く」

 美空は怖気づいて、拳をぎゅっと握っていた。だが他にやりようもないのだと悟ると、覚悟を決めてジャンプした。飛距離は十分とはいえなかったものの、その手をしっかり掴んでことなきを得る。

「な? 意外に簡単だっただろ?」

「うん……でも、もう二度とやらないけどね!」


 木立を抜けて墓地に入ると、盆参りに来た人の姿がいたるところにあった。すぐ近くにいた家族連れに怪訝な顔をされる。「変なところ通るから」と美空はまたクレームをつけたが、眼下の光景に気付くと表情が一変した。

「すごい、ここ海と街が見下ろせるんだ。いいところ――あ、こんなこと言っちゃダメだよね」

「いいんじゃね。実際、それでお墓をここにしたって人もいるみたいだし」


 神崎家の墓の前では、甚平姿の一朗が後ろ手を組んでたたずんでいた。

「わりい、じいちゃん、遅くなった」

「ようやっと来たか。待ちくたびれたわい。……なんだか服が汚れておらんか?」

 一朗がアメの姿に不思議そうな顔を浮かべて、目線を上下させた。

「ちょっと近道してきたからな……」

「は、はじめまして、成田美空です」

 アメが言いよどむ横で、美空がぺこりと頭を下げた。

「よう来たね。アメの友達というと男の子かと思ってたら、こんなに可愛らしい娘さんだったとは。きっと先祖も喜んどるよ」

 墓まわりの掃除を手伝う予定だったが、一朗がとっくに終えてしまっていた。お供え物もしっかりなされ、線香の匂いが漂っている。

「あとはお前さんらが参るだけだ」

 アメがさっと手を合わせ、美空に場所を譲る。

「なんか俺ら、最近お参りしてばっかだな」

 苦笑しながら、拝み終えて墓石を見つめる美空に声をかけた。

「いいんじゃないかな。お参りとかお祈りしてるときって、辛いこととか嫌なことを忘れられるし、前向きにもなれるから」

 龍海神社でも同様のことを言っていた。信奉心もいきすぎてしまうといけない気もするが、美空のように心の拠りどころとして、ほどよく活用する分にはいいのかもしれない。


 階段を上っていくと、お堂で子どもたちが遊んでいた。

「懐かしいな。俺も昔は乗って遊んだ」

 あれはなんだろう、という表情の美空に〝亀岩〟のことを説明してやった。ご利益があるとはいえ、岩に乗ったりするだけで楽しいのだから、子どもとはちょろい生き物だ。

「美空もせっかくだから乗ってくれば?」

「あの子たちを押しのけるのはちょっと……」

 またの機会に、と立ち去る。それでも美空は、後ろ髪を引かれるように門をくぐるまで亀岩の方を見つめていた。

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