16

 茜色の空のもと、下り坂に四つの影がのびていた。


 漁港にいたる坂から眺める海は、ときおり家屋に遮られていじらしい。だが逆にそれがいい。影や海や空や雲、視界を構成するすべての要素が渾然一体となり、見事なコントラストを生み出している。

 例によって漣がカメラをかまえていた。その隣で幸も恍惚とした表情を浮かべている。

「フォトジェニックな景色よね。美空ちゃん、家が近くて羨ましいな」

「最近はあんまり来てないけどね」

 それでも前はよく港や浜辺まで散歩して、海に癒されていたそうだ。

 試験やそれに伴った補習を乗り越え、明日から夏休みという日だった。一様に晴れやかな面持ちなのはそのためだ。放課後、一同ははれた食堂に向かっていた。ちょっとした打ち上げだ。


 暖簾をくぐり「こんちわっす」と言って扉を開くと、すぐに女将さんの姿があった。

「あら、アメくん、いらっしゃい」

 夕食の時間にはまだ少し早いが、すでに二組ほど先客がいた。四人は空いていたテーブル席に着く。

 漣は久しぶりの来訪だそうで、懐かしそうに店内を観察している。美空と幸も、店の面構えや素朴さに期待のこもった眼差しを向けていた。

「もう少ししたら混んでくるかもしれねーから、早いとこ頼んじまおうぜ」

 アメはホワイトボードを指差して急かした。はれた食堂の暖簾を祖父意外の人とくぐるのは念願でもあったが、店主や女将さんに負担はかけられない。

 アメと美空は奮発して〝金目の煮つけ定食〟を、漣は旬の刺身と小鉢がついた定番のはれた定食を、幸はアジフライの定食にした。それぞれ伝えたあとで、

「これ、サービスだって」

 と、女将さんが小鉢をテーブルの真ん中に置いた。

「アメくんがお友達を連れてきたって言ったら、主人が出してやれって」

 礼を言いながら厨房をのぞくと、たまたま店主の哲晴と目が合って、にっと歯を見せてくれた。

 それは「イワシのなめろう」だった。ありがたく頂戴し、みなでつつく。よく叩かれたイワシの身は、ねっとりした食感の中に旨味が凝縮されている。混ぜられた薬味も絶妙な塩梅で味を引き立てていた。


 ほどよく胃もあたたまったところで、満を持して注文した料理が運ばれてきた。四人の品が揃うと、テーブルの上はもう豪勢な宴席のようだった。

 アメと美空の前では、大きめの皿に金目鯛が一匹まるまる載っている。赤い体表がタレでてらてらと琥珀のように光っている。

 アメは身を箸で切りくずし、白米の上に一度着地させてから口へ運んだ。

 あまりに繊細な白身が、舌の上で一瞬でとけた。たまらずご飯をかきこむ。脂と旨味が溶けだした煮汁もまた絶品だ。この世に、これよりうまいタレはおそらくないと断言できる。夢中で金目と向き合い、あっというまに骨だけが残っていった。

 メインはもちろん最高だが、お膳にはアメの大好物がもう一つあった。

「みそ汁もうまいだろ? カニから直接出汁とってるんだってさ」

「へえ、この風味カニだったんだ。どうりでちょっと高級感あると思った」

 幸が納得したように言った。それを聞いてみそ汁を含んだ美空も「上品な味」と囁くように言って、うっとりと息を吐いた。

「なんのカニを使ってるんだろ? ショウジンガニかギザミか……まさかイソガニってことはないと思うけど」

「そこまでは知らねーけど……」

 漣はカニの種類まで気になるようだった。アメとしてはうまければなんでもいいのだが。

「いつか、イエティ倶楽部の活動でカニを捕まえたりするのもいいかもね。浪越の浜辺に生息するカニのことを調べれば活動の成果にもなるし」

それに食材にもなるので一石二鳥だと漣が提案した。

「いいな、獲りまくってカニパーティーしようぜ!」

「行くのはいいけど、獲るのは男子だけでお願いするわ。あたしたちは見守ってるから」

 盛り上がる男性陣に対して女性陣は冷めた目をしていた。カニというと自分たちも無縁ではないというのに。


「そういや、イエティクラブって結局どんなカニなんだ?」

 そういえば部名の由来になったというのに、漣が言った「雪男みたいなカニ」ということ以外、何も知らなかった。

「まだ詳しい生態はわかっていないみたいだけど、深海の〝熱水噴出孔〟っていう、ものすごく熱い水が噴き出す孔の近くで暮らしてるんだってさ」

 その温度はなんと何百度にも達するそうだ。なので、そこまでは近づきすぎないように、かといって離れすぎると今度は深海の極寒に触れて凍りついてしまう。イエティクラブたちは、その熱水と冷水の間のごく限られた範囲に無数に折り重なって生活しているのだという。なんともたくましい生き物だった。

「残念ながら浜辺に打ち上げられたりとか、漁の網にかかることはまずない生き物だろうから、きっと一生の内で本物を見ることはできないだろうけどね」

「なんだ、じゃあ食べたりもできないんだな」

「食べたいと思ってたんだ……」

「じょ、冗談に決まってんだろ、飯食ってたから言ってみただけだって!」

 美空に軽蔑するような目を向けられて、アメは慌てて取り繕った。その様子に幸と漣が吹き出していた。

「万が一手に入っても、たぶんおいしくはないと思うよ。イエティクラブが生息するのは、陸から遠く離れた海域だから栄養に乏しいんだ。それにイエティクラブってのは俗称で、本当の名前は『海の神』を意味するらしいから、食べたらバチが当たるかもね」

「バチ当たりだよ」

 美空が追い打ちした。



「そっか、そういえばもう少しでお祭なんだよね」

 全員食べ終えて熱いお茶で一服していると、美空がポスターを見ながら言った。浪越大祭という達筆な字が躍っている。年に一度の浪越神社の例大祭だ。

「毎年すごい人よね。どっからこんな出てきたのっていつも思う」

「花火も上がるし、灯篭流しなんかは全国でも限られてるから、外部から来る人もたくさんいるんだよ」

 幸と漣の言葉に「へえ」というアメと美空の声が被った。

「え、二人とももしかして行ったことないの?」

 幸が目を見張った。

「おじさんは毎年行ってるみたいだけど、わたしは人ごみとかあんまり得意じゃないから……」

 たしかに、それだけの人出なら下手すると美空は押し潰されてしまいそうだ。

 それでも、せっかく浪越にいるのだからと昨年は意を決して参加しようと思ったが、運悪く夏風邪を引いてしまい、結局おとなしく留守番していたという。

「俺はガキのときなら行ったことあるぞ。ただ去年は、ばあちゃんがまだうちにいたから」

 その面倒を看なければならなかった――というのは強がりで、単純に一緒に行く相手がいなかったというのが本音だ。縁側で祖父母と花火を見上げていたのを思い出す。

 それを聞いた幸が手を打ち鳴らした。

「じゃあ、今年はみんなで行こうよ!」

「いいな、行こうぜ!」

 アメが即答する。楽しみなイベントがまた一つ増えた。

「あたしと美空ちゃんは浴衣ゆかたで参戦するね」

「ゆ、浴衣……? わたし、浴衣なんて持ってないけど……」

「じゃあ、今度あたしと一緒に買いにいこっ」

 そうと決まると、どんな柄がいいとか髪型はどうすればいいとか、二人の間で話が進んでいた。


 ――美空の浴衣姿……


 ごくりと生唾を呑んだアメだったが、妄想をふり払い現実を見る。

 そうとなると軍資金が必要だ。別に祭のことを想定していたわけじゃないが、明日からバイト漬けの日々がはじまる。はやる気持ちを打ち消して、アメは気合を入れ直した。

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