15

 二人はボックスシートの間の通路に立っていた。車内はそれなりにぎゅうぎゅうで、ほとんどが観光客のようだった。

「やっぱ休みは混むんだな。どうせなら座りたかったけど」

「そんなに乗車時間長くないだろうし、立ってても平気だよ」

 浪越駅とさとやま公園駅を通るローカル線は、近年観光客が増え、重要な観光資源の一つとして機能しているらしい。特に休日ともなれば、都会の喧騒を逃れてきた人々で賑わいをみせるようだ。一両編成というのもあって、席はすぐに埋まってしまっていた。


 発車してから浪越の市街を抜けると、のどかな農作地帯が広がる。この時季は青々とした稲が、夏の日差しを浴びてすくすくと成長していた。

「春はこの辺、菜の花が咲いてるんだぜ?」

 走り抜ける車両と沿線の菜の花を切りとった写真は、よく春の暦にも採用されているほどだ。アメも小さい頃、祖父母に連れられて乗車した際に見た記憶があった。不思議なもので、どこへ行ったかは憶えていないのに、道中のことはよく憶えていた。

「そうらしいね。見てみたいな」

 なら来年の春にまた――言おうとして呑みこむ。さすがにまだ気が早い。

「音楽、聴いていいかな?」

 好きにすりゃあいい、と言うと美空はショルダーバッグからプレイヤーを取り出し、イヤホンを耳にはめた。

「どういう曲聴いてるんだ?」

 暇になって問いかけてみたが、美空はすでに音の世界に没入してしまったようで、窓の外の景色に目を細めるだけだった。


 ふと悪戯な心が芽生える。好奇心も手伝って、アメはその片耳からイヤホンを抜いて自分の耳にはめこんだ。美空は「あっ」と小さく洩らして、驚愕の表情でアメを見上げた。二人の間にコードが垂れた。

 清らかな合奏の音色が抜けた。牧歌的で、澄んだ空のもと田舎を散策しているような、そんなイメージが湧き上がった。

「べ、ベートーヴェンの『田園』……」

 なんという曲なのか尋ねると、美空は口ごもるように言った。その名の通り、田園風景や自然の様相を、音で表現した交響曲だそうだ。

「今にぴったりの曲じゃん!」

「うん。こういう景色を見るといつも聴きたくなるんだ。余計なことなんて何も考えずに集中できるから」

 それだけにとどまらない音楽の力をもアメは思い知った。音だけで原風景をイメージさせるすごさも去ることながら、感情を何倍にも拡張させてくれるのだ。生きる活力をもたらしてくれる。美空が音楽に救われたというのも納得できる気がした。

「ピアノもいいけど、交響曲? ってすげーな」

「ベートーヴェンはたくさんの名曲を残したけど、やっぱり交響曲は特別。特に第九なんて、構成も世界観も圧巻だし、オーケストラと合唱の迫力なんて本当にすごいよ。いつか絶対、コンサート聴きに行こうと思ってる」

 そこまで言うのなら、アメも一緒についていきたくなった。

「いいな、コンサートってあんまりやってないのか?」

「十二月にはよく開催されてるから、行こうと思えば行けるけど……」

「じゃあ、十二月になったら一緒に――」


 言おうとして、急に美空が窓の外に向けて手をふったので遮られる。アメは見ていなかったので気付かなかったが、民家の庭先で遊んでいた子どもが手をふってくれていたそうだ。他の乗客でも美空と同じようにしている人がいて、なごやかな車内のムードにいっそう拍車をかけていた。

「かわいい」ぽつりと彼女が呟く。

 まあいい。別に急ぐ必要はない。やさしさに包まれた車内で先の話をするのも野暮というものだ。



 さとやま公園駅で降りてから、まずはシンボルである風車の近くまでやってきた。風車を囲む畑ではひまわりの絨毯が広がっていた――ということはなく。

「まだ咲いてねーな……」

 ひまわりの開花は七月末の予定だそうで、今はまだ蕾を膨らませている段階だった。タイミングが悪かった。

「あっちにまだポピーが残ってるよ」

 元気づけるように美空が言って、隣の畑へ移動する。だがポピーも終わりかけのようで、ほとんどが萎んでしまっていた。

「でもきれいだよ」

 頭を垂れたポピーの花びらを美空はツンと小突いた。ひまわりとは対照的に、その花は可憐だが色合いはゆたかだ。純粋にお花畑というイメージならこちらの方が合っている。彼女も喜んでいるようだし、とりあえずよしとしよう。


「なんだこれ?」

 ポピー畑をまわりこんでいくと、なぜか額縁のようなものが設置されていた。

「多分、フォトスポットだよ。絵みたいな写真が撮れるっていう」

「へえ、おもしれーな。ちょっとその前に立ってみてくれよ」

 そう言ってアメは、美空を額縁の中に収まるよう誘導した。「こ、こう?」半歩ずつ移動してもらうと、遠近法でちょうど風車と並び立つ。その髪がなびく。まさしく絵画のできあがりだ。漣にカメラを借りておけばよかったかもしれない。恥ずかしがる彼女をよそに、アメはせめて目に焼きつけた。


 ひまわりとポピーは残念だったが、広い園内では他の花が十分、目を楽しませてくれた。気ままに歩きながら、花の名を美空が諳んじていた。ユリ、ダリア、ペチュニア、ベゴニア、ポーチュラカ、マーガレット、水生庭園ではスイレンやショウブなど。

「ほんとに花が好きだったんだな」

「まあね。小さい頃はお花屋さんになるのが夢だったから」

「いいじゃん、花屋。それだけ花の種類知ってたら全然なれると思うけどな。今は違うのか?」

「今は――あ、アジサイ」

〝あじさいの路(みち)〟という通路が目の前に現れた。医療センターの方もよかったが、こちらは規模が違う。道の両脇にこんもりとアジサイが群生していて、それは見事だった。

「俺の花じゃん」

「俺の花?」

「ばあちゃんがいっつも見ると言うんだよ。アメの花だって」

「そっか、梅雨時期の花だもんね。でももちろんお水もたっぷり必要だけど、漢字で書くと紫の陽の花って書くくらい、お日様も大事な花なんだよ?」

「ふーん……それならやっぱ俺の花だな」

 紫という言葉に触発され、アメは懐からアメジストを取り出した。今日、祖母から受け取ったのだと話す。

「へえ、すごいきれい。わたし、こんなちゃんとしたアメジストって見るのはじめてかも。首にかけないの?」

「その内な……」

 受け取ったとはいえ、まだ気持ちの整理がついたわけじゃなかった。それに、もらってすぐしているのもなんだか舞い上がっているみたいで恥ずかしい。

「俺がアジサイなら、美空はひまわりだな、花に例えると」

 夏空に映えるひまわりと美空をアメは脳内で重ねた。

「そ、そんな……ひまわりなんて畏れ多いよ。わたしはタンポポみたいな花で十分」

「タンポポなんてそこらじゅうに生えてるじゃん」

「だからいいんだよ。黄色は幸福の象徴だしね」

「ふーん……そういやそれで思い出したけど、アメジストって黄色に変えられるって言ってたな」

「シトリンね」

「じゃあいつか、このアメジストをシトリンに変えて美空にやるよ」

「え? ……い、いや、そんな大事なもの受け取れないよ!」

 冗談なのに、美空はぶんぶんと手をふって焦っていた。その様子が無性に可愛らしく、おかしかった。



 園内をぐるりと一周して、二人はまた風車のもとへと戻ってきていた。

「ここ、春はチューリップがきれいなんだね」

 ベンチで休みながら美空が言った。園内の公共施設に、四季折々の写真の展示コーナーがあったのだ。夏ではひまわり畑だが、春はチューリップ畑らしい。

「みたいだな。次は春に来てチューリップもらってこうぜ」

 思いがけず自然に誘うことができた。それなら、ついでに菜の花も見られるというものだ。

 チューリップは球根ごと掘りとって買うことができるそうだ。祖母のように上手くはできないだろうが、家の庭に植えてみてもいいかもしれない。


 アメがトイレから戻ってくると、その手にはソフトクリームのカップが二つ握られていた。汗ばんだからだを冷やしたくて、歩いているときから画策していたのだ。

 お金を払うという美空に、「おごり」と言って手渡す。それくらい男の魅せどころだ。

「かかってるの、なんのソース?」

「みたらし」

 メニュー表に「いちおし!」と書いてあったのだ。

 アメがベンチに腰を落ち着けていると、幼い男の子が二人の前を無邪気に走り抜けていった。同じくソフトクリームを持っていて危なっかしい。その後ろで母親が「こぼすよ!」と注意していたが、聞く耳をもつ年頃ではない。

 何気なく目で追っていると、案の定、男の子はつまづいたようで地面にダイブした。ソフトクリームが無情にも地べたに広がる。

「あーあ、言わんこっちゃねえな」

 駆け寄った母親が怒るのを呆れながら見ていると、何を思ったのか、美空がすくっと立ち上がった。そしておもむろに親子に近づくと、泣き喚く男の子に自分のソフトクリームを差し出した。当然母親は断っているようだったが、美空は引き下がらなかった。男の子はソフトクリームを受け取ると、一転して嬉しそうに頬張った。


 何度も頭を下げる母親と手をふる男の子に、ばいばいと見送ってから美空は戻ってきた。

「ごめんなさい、ソフトクリームあげちゃった」

 申し訳なさそうに目を伏せるが、その声音にはどこか満足げな色もあった。

「やるよ」と言って、アメは自分のを差し出す。まだ手はつけていなかった。

「え? い、いいよ。アメが買ったものだし、自分が食べなよ」

「美空に食べてほしいんだ」

「でも……」

 今度はアメが譲らない番だった。表面が溶けてきていたので急かすと、彼女は仕方なく受け取った。

「ん、甘じょっぱくておいしい」

 なんだかんだ喜んで食べている。その顔が見たかったのだ。さっきの男の子に対する美空も、こんな気持ちだったのだろうか。

「わたしね……子どもが泣いてるのを見ると、自分も悲しくなっちゃうんだ」

 スプーンを口に運びながら、ぽつりと洩らした。

「世界中の子どもたちが泣かなくていいように、夢を持てるようにするのが、今のわたしの夢」

 夕陽を見上げながら美空の言葉を噛みしめる。

 そのやさしさだけで、アメはお腹いっぱいだった。

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