14

 アメは車椅子を押して、久しぶりに外を散歩していた。


 数日前までの梅雨空が嘘のような晴天だった。日差しがじりじりと露出した腕を焼く。

 庭園では、雨水を蓄えた夏の花がいよいよとばかりに威勢よく競演している。

「あら、〝アメの花〟もきれいに咲いているわね」

 梅雨が明けて祖母も晴れやかな気分なのか、沿道の花にひたすら視線を落としては目を細めていた。特にアジサイは祖母のお気に入りのようで、家で暮らしていたときも庭で育てていたほどだ。そして開花すると、いつもアメの花だと言って愛でていたのだった。

「ばあちゃん、それずっと言ってるけど、アジサイって毒があるって聞いたぞ」

「そんなこと関係あるもんですか。植物の毒はね、薬にもなるのよ。人のからだに悪いものは毒、いいものは薬と呼ばれるようになっただけ。どんな植物も一生懸命、生きていくために身につけた知恵だもの。毒があろうと、その美しさに変わりはないわ」

「ふーん、そんなもんか」

 アメは車椅子からいったん手を放し、まじまじとアジサイを観察する。以前までならアジサイを見ると、「アメの花」という言葉を思い出し、苦々しく顔を背けたものだ。しかし今では、梅雨の中でも咲き誇るその姿にシンパシーすら抱くようになっていた。


「アメ、何かいいことあったでしょう?」

 突然、祖母が言った。

「な、なんだよ急に?」

「なんだか前より楽しそうだもの」

「そ、そうか? 別に普通だけどな……」

 たまにしか会わないというのに察しがいい。いや、むしろたまにしか会わないからこそか。

「最近、前より出かける機械多かったからな、調子がいいっちゃいいな」

 さすがに、今さら友達ができたとは言いづらい。

 アメが言葉を濁していると、祖母はおもむろに首の後ろに手をまわした。そして、かけていた真鍮のチェーンを頭から外すと、それを差し出した。

「これ、アメが持っていて」

 アメジストの首飾りである。

 自分の最も古い記憶から、祖母が肌身離さず首に提げていた。認知症になってからも、それだけは毎日忘れていないほどのものだ。祖母にとっては、命に次に重いものだとすらアメは考えていた。

「そんなのもらえるかよ。ばあちゃんの大事なもんだろ?」

「だからこそよ。私はもうこんな身だから、もしかしたらその内失くしてしまうかもしれない。だから、今の内に渡しておきたいの。そして、いつかアメに大事な人ができたときに、その人に贈って受け継いでいってくれると嬉しいわ」

 そう言われると受け取らないわけにもいかない。苦渋の思いで、アメはそれを受け取った。

 ずしりと、重みが手に伝わる。

 じっくりと見るのははじめてだった。幾重にもカットされたアメジストは、複雑に光を反射していて禍々しいほど妖しく耀いている。

つまりは形見になるわけだ。そう考えると途端に淋しくなった。まるで、祖母はもう老い先長くないと言っているようで……できれば、これからももっとずっと長生きして孝行させてほしい。

 これが、祖母にとっての生命力の源などでないことをアメは祈った。



 院内に戻る途中、おりよく庭園の向こうから美空が現れた。隣には山河もいる。カウンセリングを終えて、一緒に出てきてくれたようだ。

「美空さん、おばあさんの車椅子押すの、ちょっと代わってあげてくれるかい?」

「わかりました」

 美空と祖母の後ろで、少し距離をとって山河と二人になった。ゆっくり移動しながら、この間のことをアメは拙く感謝する。

「礼を言いたいのはむしろ私の方だ。美空さんの精神状態は、会う度に一段と安定していっている。想定していたよりもずっと早い。きみのおかげだ」

「でもまだ完全に治ったってわけじゃないんですね」

 言われるまでもなく、美空は出会ったばかりの頃から見違えるように明るくなった。漣や幸とはもう極普通に接することができているし、美空のクラスをこっそりのぞくと、最近ではクラスメイトとおしゃべりしていることもあった。もはや、カウンセリングなど必要ないように思えた。

「心の病気というのは、残念ながらそう簡単に治るものじゃない。多感な年頃だし、視えにくい部分や将来に目を向けると、まだ課題は残っている。まあでも、そう遠くない内にここへ通わなくてもよくなる日はきっと訪れるだろう」

「ならよかったです……あの・・・・・・一つ訊いてもいいですか? 答えられなかったら別にいいんですけど、結局、美空はなんでここに来るようになったんですか?」

 この機会に思い切ってアメは尋ねた。


「そうさなあ……まあ、きみにだったら多少は話してもいいか。――まず、美空さんは母親を亡くしていることは聞いているかな?」

「ッ……!、そうだったんですか」

 美空の母親の話題は何度か出たことがある。だが、そんなことは一度も言っていなかった。

「あの娘が小学六年生のときにね。訳あって母子家庭だったから、幼い頃から母親にべったりだったそうだ」

 強くやさしい母親の存在は、心の大部分を占めていたようだと山河は言った。もともとプロのピアニストだったそうで、その影響で美空も日頃から音楽を嗜み、教えてもらってもいたのだという。これまで聞いていた話からも、美空が愛されていたことが窺えた。

 だが別れは唐突に訪れた。母親は病に倒れ、美空を残して天国へと旅立ってしまった。

「もともと美空さんは生まれつき、人一倍感受性が強い子だったんだな。芸術や創造性に秀でてはいるが、反面繊細で傷つきやすい。それは決して悪いことじゃないけど、それ故に美空さんの場合も、ショックの大きさは並大抵のものではなかった」


 身よりである澤井に引き取られた美空だったが、塞ぎこんだ彼女はほとんど食事や睡眠もとれず、次第に幻聴や幻覚といった症状が表れはじめたという。見かねた澤井が頼ったのが、もともと知り合いだった山河だった。

「はじめて会ったときは、人形みたいだったよ。まるで現実なんて見ていなくて、ひたすら思い出の中に沈んでいるようだった。母親と同じ場所へ行きたがっている……そんなふうにさえ見えた。それでも、投薬やカウンセリングを根気よく続けてもらって、なんとか高校へ通えるくらいにはなった」

 母親の話が出たときの美空の表情……あれは悲しみを押し殺したものだったのだ。安易に触れてしまっていた罪悪感に、アメは胸を刺さされる。

 境遇は自分と似ていた。アメもまた母子家庭で育った。だが、ものごころついたときには母親はほとんど家におらず、甘えた憶えなんてほとんどない。知らない男が家を訪れる際などは、うとましい目つきで部屋から出るなと言いつけられていた。母親などあってないような存在だった。祖父母の家に行くことが決まった際は清々したほどだ。

 だが美空のように愛されて育ったならば、その空いた心の穴はどれほど大きいものだったのだろう。彼女の後ろ姿を見やる。その背中は辛苦を負うにはあまりに小さく見えた。


「でも山河先生もすごいですね。美空にとっては多分ヒーローみたいだったんじゃないですか」

 職務とはいえ、お世辞などではなく本心からそう思った。

「よしてくれ。そんなかっこいいものじゃない。それに一番の功労者はやはり美空さんの母親さ。娘のために、自分が弾いたピアノの曲をたくさん残してくれていてね、それだけは聴く気力があったみたいなんだ。聴いているときだけは辛いことを忘れられるから」

 そういえば美空の部屋には、背表紙にタイトルのないCDケースがいくつかあった。あれがそうなのだろう。


 ふと、美空がこちらを向いた。なぜか笑顔で小さく手をふってくる。反射的にアメも同じようにした。だがよくよく視線をたどると、それは山河へのものだった。そりゃそうだ、自分にそんなことをする義理などないのだから。

「このあと、さとやま公園に行くんだって?」

 アメの気まずさを知ってか知らずか、山河は話題を変えた。

「そ、その予定です……」

 梅雨も明けたことだし、せっかく休日に会うということで、トリコットでの話をもちかけていた。

「よくわからないが、イエティ倶楽部というものの活動なのかい?」

「まあ、そんなとこですね……」

 嘘だ。美空にはどういうふうに聞いたのだろう。

「ふーん」

「なんか問題あります?」

「いいや別に」

 山河は意味深に笑うだけで、それ以上何か訊いてくることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る