13

 透き通るような響きが室内を満たしていた。それは雨の音とときに混じり合いときに打ち消し合い、蕩けていく。もはや、何よりもアメの心にも安寧をもたらしてくれる。


 ……おかげでさっきから瞼が重くて仕方なかった。

「眠くなるな!」

 美空が曲を終えたタイミングで、アメは己を覚醒させる意味も含めてペンを置き、声を張り上げた。

「ちょっとお、せっかく余韻に浸ってたのに急に大きな声出さないでよ」

 対面に座る幸が非難の声を浴びせる。

「そもそも、そういう曲でもいいからって話だったでしょー」

 美空は自ら率先してピアノに向かうことなどないので、いつも他のメンバーが頼んで弾いてもらっていた。したがって選曲は彼女自身に任せるしかない。一度、やる気が出るようなのは弾けないかと注文したことがあったが、そういうテンポの速い曲は難しく自信がないということで、結果的にゆったりした曲が多かった。

「別に文句じゃねーよ。美空には感謝してる。ただやっぱ身が入らねーなって思っただけで」

「アメくんの場合、それはいつものことだよね」

「うぐっ……」

 漣に痛いところを突かれる。


 この日も放課後、四人は部室に集まっていた。別に話すことややることがあるわけじゃないのだが、自然と足が向くようになっていた。そうして適当にだべったり、美空が弾いてくれるモーツァルトやベートーヴェン、ショパンやドビュッシーといったピアノの楽曲に耳を傾けるのだ。

 アメにはもう一つ大きな目的があった。勉強である。成績は常に最下位常連であり、夏休み前には試験も控える。自分なりによくしなければ、という思いはあるのだ。幸い、部室へ来れば成績のいい美空や漣に教えを請うこともできる。この環境を利用しない手はなく、最近は毎日ノートと教科書を広げていた。

 とはいえ苦手な行為がそう簡単に馴染むことはなく、集中はすぐに途切れ、いつも意識があらぬ方向へ持っていかれる。この日も結局そうなった。


 アメは、八つ当たりのように幸に言う。

「そっちは勉強しなくて大丈夫なのか?」

 幸の成績も自分とどっこいどっこいであることが判明している。にも関わらず焦りなどはなさそうで、いつもファッション誌や地質学の本を眺めていた。

「あたしはもう将来決めてるから、成績なんて二の次よ。赤点の教科だけ補習して頑張るから」

 大した開き直りだった。研究者になるためには、それ以外の学力も求められると思うが……アメの隣に戻ってきた美空も「それはどうなの」と苦言を呈していた。


「あーあ、せめて学校にいるときだけでも晴れてくれたら、まだやる気も起きるんだけどな」

 梅雨の盛りである。この前の晴れ間はなりをひそめ、また毎日ひたすら雨雲が空を覆っていた。

「わたしはむしろ、雨が降ってた方がやる気出るけどな。雨の音聴きながら本読んだりすると集中できるし、夜眠るときも雨が降ってると寝つきやすいから、好き」

 美空が最後に発した言葉にアメはどきりとしたが、あくまで音の話だと平常心を保つ。

「アメくんも雨を好きになればいいんだよ。……そうだ、またショパンの『雨だれ』を弾いてもらえばいいんじゃない?」

「いや、今日はもういいよ」

 雨だれは、はじめて弾いてもらって以来、全員気に入って演奏してもらう頻度は高かった。それだけみんなの心を掴んでいた。

 この日は弾いてもらっていなかったが、あまり美空に無理させるわけにはいかない。それに曲を気に入ったところで本物の雨を好きになれるわけじゃない。

「名前は一生ついてまわるものだし、意識しすぎて嫌いになるのもわかるけどね。でも雨が降るから人は生きていけるし、地球ができてから降った雨で海ができて、生命が育まれたと考えると、僕は素晴らしい名前だと思うよ」

「そうね、あたしもそれで思い出したけど、いまから二億年以上も前のカーニアンっていう時代に――」

 幸が得意げに語り出して、アメは耳を塞いだ。雨の話題はもういい。何度も自分の名前を聞くのは、あまり居心地のいいものではなかった。


 仕方なくアメはまたテキストに向かおうとしたが、なんだかなおさらやる気も失せて、ペンを握るのも億劫になっていた。

「こんなときはうまいコーヒーでも飲みながら勉強してえな……そうだ!」

 自ずと口にしたことから、アメは天啓を得たように顔を上げた。

「美空、またトリコットにコーヒー飲みに行ってもいいか?」

 そういえばあの夜以来、まだ一度も行っていなかった。今度はちゃんとお金を払って飲みたいと考えていたのだ。

「え、今から?」

「そういえば美空ちゃんのおうちって喫茶店なんだよね。いいな、あたしも行ってみたい」

 前のめりになって幸が目を輝かせる。漣も「迷惑でなければ」と前置き、実はそういう純喫茶に憧れていたのだと吐露した。

「迷惑ではないけど……」

 三人の視線を浴びて、美空はしぶしぶといった調子で了承してくれたのだった。



 鉛色に沈む商店街に四つの傘が揺れていた。

 飛沫を上げながら歩いていると、路頭の防災無線から鳴り響く音楽が雨音を遮った。

 思えば、誰かと帰路をともにするなどいつぶりだろう。放課後に部室を出たあとは各々方向も交通手段も違うので、校門の前で別れることが常だった。防災無線の音楽を聴きながら、傘の中がじんわりとあたたかくなるのをアメは感じた。

「美空ちゃんのピアノもいいけど、この曲もなんかいいよね」

「うん、日が暮れる寂しさと、家に帰れる喜びが混ざり合った、なんともいえない情緒があるよね」

 幸と漣も似たような心境だったらしい。美空のおかげで、こういった日常の音にも関心を惹かれるようになっていた。

「交響曲第九番、第二楽章『家路』」

 唐突に美空が言った。

「ドヴォルザークっていう作曲家の曲でね、本当に家路に就く情景を想像させてくれるから、そう呼ばれてるんだって」

 浪越駅前の商店街は、過疎の波に抗えずシャッター通りだった。寂れた街並みに、降りしきる雨がノスタルジックな音を伴って染み入っている。


 ほろほろとたわいない話をしていると、やがてトリコットが目の前に見えた。

「あれ、美空どっか寄りたいとこあるって言ってなかったか?」

 学校を出たあたりで彼女がそう申し出ていたが、到着してしまった。

「うん、あそこのこと」

 指差したのは斜向かいにある洋菓子屋だった。

「あ、聞いたことある。へえ、ここだったんだ」

 幸は評判のよさを噂で耳にしたことがあるそうだ。実際、その商品はどれも絶品なので、せっかく来たついでに味わってみてほしいと美空が言った。

「偶然なんだけど、店名の『ボー・シエル』ってフランス語で〝美しい空〟って意味なんだって。わたしの名前とおんなじなんだよ」

「マジで!? すげー偶然だな!」

「いいなあ、お洒落な洋菓子屋さんと一緒なんて。あたしの幸って名前も珍しくないから、よくお店の名前であったりするけど、だいたいスナックとかなのよね……」

 自慢げな表情を浮かべる美空の隣で、幸は遠い目をしていた。


 軒樋の下で傘を畳み、美空が引き戸に手をかける。だがなぜかそこで硬直した。

 アメがどうしたんだと言いながらガラス戸の中をのぞくと、見覚えのある背格好の男性がいた。澤井だ。ショーケース越しにボー・シエルの店主と何やら話している。内容までは聞きとれないが、あまり和やかなムードではない。澤井の言葉には険が感じられる。対する向こうも、腕を組んで顔を背けながらときおり言い返しているようだった。

 大人の事情に割り入るのも憚られ、仕方がないので固唾を呑んで待っていると、やがて澤井は諦めたように肩を竦めて出てきた。当然四人と顔を合わせるかたちとなる。

「おお、美空おかえり。……おや、この前の」

 アメが「こないだはどうもです」と会釈し、漣と幸も「はじめまして」とぎこちなく挨拶する。美空がケーキを買ってトリコットに寄ろうとしている旨を話した。

「それはそれは、大歓迎だよ」

 澤井は一度声を弾ませてから、またばつが悪そうにニット帽を脱いで頭を掻いた。

「いやはや、恥ずかしいところを見られてしまったね」

 なんでも、この辺りのお店で振興会を結成しているそうで、澤井はその理事を務めているらしい。その中でとある要件を野崎に話しに来たのだが、少し拗れてしまったということだった。

「それじゃあ、おわびじゃないけど、これで何か好きなものを買ってくるといい」

 そう言うと澤井はサイフを取り出し、押しつけるように美空の手に紙幣を握らせた。もちろん美空は拒否しようとしたが、澤井は「それじゃあ、またあとで」と言ってそそくさと立ち去ってしまった。

「と、とりあえず入るか」

 外にいるのもなんなので、アメが扉を開く。


 入店すると美空が「こんにちは」と気まずそうに挨拶した。当然面識があるようで、店主は「やあ」とだけ答えた。

「うわあ、かわいい」

 ショーケースをのぞきこむと、さっそく幸が目を奪われていた。時間も時間なのでもう残っている種類は少ない。それでも趣向を凝らした洋菓子は、アメでも目移りするほどだった。四人でそれぞれ一つずつ選ぶ。

「お代はいいよ。たぶんもうお客さんほとんど来ないだろうから。美空ちゃんがお友達を連れてきた記念のプレゼントだ」

 野崎は商品だけ渡して、お代を受け取らなかった。澤井のお金だからというのもあったのかもしれない。もちろん美空は申し訳ないとお金を突き出したが、なにせ彼女の性格だ、強く言うことなどできず、すごすごと引き下がっていた。

「なら、俺が代わりにケーキ買ってくよ」

 見かねたアメがそう言うと、漣と幸もならってくれた。思わぬ出費だが、たまに一朗にお土産もいいだろう。美空は、それならコーヒー代は自分が負担するという。結局、この日もトリコットでお金は使えないことが確定したのだった。



 トリコットへ入ると入れ違いに一組の客が出ていったので、店内にいるのはアメたちだけだった。

 テーブル席に陣取ると、美空は着替えてみんなのケーキを皿に移し替えてくると言って奥に消えていった。その間にコーヒーを選ぶ。メニュー表には、提供しているコーヒーが南米やアジアの国ごとに記載されている。だがはじめてということもあって、無難に漣はおすすめという浪越ブレンドというコーヒーを、幸はカフェオレを注文した。

「俺はこの前のとおんなじので」

 アメは少し得意げに言った。なんだか常連になったようで気分がいい。この前のがなんだったのかは知らないのだが。


「これ、なかなかよくできてるでしょ?」

 澤井がコーヒーの用意をしている最中に何やら携えてやってきた。

「花束っすか?」

 そう見えた。数種類のドライフラワーがリボンでまとめられ、ところどころに貝殻やシーグラスがあしらわれている。もしかしてビーチコーミングのときに拾ったものだろうか。

「スワッグというものだそうでね。美空がきみたちと海に行ってから、作って私にプレゼントしてくれたんだよ」

「えー、かわいい、美空ちゃんセンスあるー!」

「なるほど、いい利用法だ」

 幸と漣が感嘆の目を向けた。

 アメが拾ったものなど、まだ虫かごの中に入ったままだ。正直どうすることもできず持て余していた。装飾品として活用するという発想に驚く。

「店に飾ったりしないんすか?」

「入り口の扉にでも飾ろうと思ったら、恥ずかしいから、せめてもっといいものができたらって言われたんだ。これくらいじゃまだ満足いってないみたいだよ」

 と、ちょうど私服に着替えた美空がケーキの載ったおぼんを抱えて出てきた。澤井がスワッグを手にしているのに気付き赤面する。

「ちょ、ちょっと伯父さん、それなんで持ってきたの!?」

 どうやら見られたくなかったようで、即座におぼんを置くと、ひったくるように回収してからだを背けてしまった。

「いいじゃねえか、よくできてると思うぞ」

 全員で宥めると、おずおずとふり返って、それを作製した理由を聞かせてくれた。

「お花が好きだから、スワッグとかリースとか前にも作ったことあったの。貝殻とかをあしらったのも見たことあって、すごいかわいかったから自分でもやってみたんだ」

 読書もするしピアノも弾ける上に、そんな趣味もあるとは。カウンセリングに通ってるなんて信じられないほどの多才っぷりだった。いつかもっといい新作ができて店に飾られることを期待するとしよう。


 改めて美空が席についたところで、各々が選んだケーキにありついた。

「ん~幸せ~」

 幸が目をぎゅっとつぶって、感無量といった声を出した。たしかにうまい。生クリームも甘さ控えめで、コーヒーとよく合う。

「そういえば美空さん、お花が好きなら、さとやま公園は行ったことないの?」

 みな無言のまま舌鼓を打っていると、漣が口を開いた。

「まだないんだよね。でもいつか行ってみたいと思ってた」

「きっと楽しめると思うよ。オランダ風車なんかもリアルに再現されてるから、花畑と一緒に観ると、いい絵になるしね」

「そうなんだ……じゃあ、今度イエティ倶楽部の活動で――」

 すると、美空が言い終わる前に幸が割りこんだ。

「でもそれだと、いつになるかわかんないからお花の見頃、逃しちゃうかもよ? アメくん、連れていってあげなよ」

「あん? 別にいいけど」

 そういえば、イエティ倶楽部発足以降は二人でどこかへ出かけるということもなくなった。ケーキの幸福に浸っていたアメは、幸の発言の真意など考えることなく快諾した。

「お皿、片づけちゃうね」

 照れ隠しのように、美空は皿をまとめて奥へ引っこんだ。

 五感のすべてが満たされている。雨の音さえ、はじめて心地いいと思った。もっとも、それにアメが気付くのは帰ってからだった。勉強することをすっかり忘れていたことも含めて。

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