10

 放課後、アメ、美空、漣の三人は西棟の一階に集合していた。


 漣が三人の入部届を提出し、部室の申請を出してから一週間、ついにその日がやってきた。

「ここが俺たちの部室か!」

〝多目的室C〟それが部室として浪越自然観察研究会に割り当てられた部屋だった。隣には音楽準備室を挟んで音楽室がある。吹奏楽部の音が漏れ聞こえてくるが、中に入ればそれほど気にはならないだろう。

「いよいよだね。幸ちゃんも早く来られるといいけど……」

 廊下の先に目を向けて美空が言った。幸は残念ながら勉強の遅れなどから、放課後は毎日教師に捕まっているらしかった。自分のことは気にしなくていいとことづかっているので、先に三人で態勢だけ整えておくことになった。

 漣が鍵を差しこんで中へ入ると、カーテンが閉めきられていて暗かった。照明を点けると、真ん中に長机があり、壁際には学校の備品らしきものやダンボールが積まれていた。

「なんか物置きみてーだな……」

「まあ……規定人数ギリギリの新しい部だから仕方ないね。まずは掃除と整理しようか」

 漣はあらかじめ教師から聞いていたようで、どこからか掃除用具を借りてきてくれた。三人で手分けして床を掃いたり邪魔な物品を壁際へ移動させたりする。アメが長机の奥にあったサテンの布をめくると、ホワイトボードだった。これはこのまま使えそうだ。

 アメがダンボールを寄せて一息つくと、ふと美空が部屋の隅にたたずんでいるのに気付いた。近づくと、彼女は取り払った布を胸に抱いて、神妙な表情を浮かべていた。

「これってピアノか? へえ、こんなのもあんのか」

「うん、アップライトピアノ」

 音楽準備室に置ききれなかったのだろうか。

 アメはためしに、適当に鍵盤を叩いた。一度にいくつもタッチしたので、「ジャーン」という耳を塞ぎたくなるような不協和音が響く。それでも楽しくなったアメはそれを繰り返した。すると見かねたように美空が割って入り、おもむろに指を置いた。片手だけで短いメロディを奏でる。

「すげーな美空、ピアノ弾けんのか!」

「ちょっとだけ習ってたから」

 照れくさそうに美空が笑う。だが、そこにはどこか得意げな部分もあるように見えた。

「そういえば部屋にコンポあったもんな。音楽聴くのも好きなんだな」

「うん、クラシックとかピアノ曲とかだけだけど、いつも聴いてる。弾くのは久しぶりだけどね」

「なんか一曲弾いてくれよ」

「それはちょっと……ブランクあるから下手だし……」

「いいよ、どうせ俺にうまいか下手かなんてわかんないし」

 せっかくだから彼女のピアノを聴いてみたいとせがむと、

「自信ないけど……」

 不承不承、美空はスツールに腰を下ろした。

 胸の前で何度かグーパーしてから指を鍵盤に広げる。そして、一音一音たしかめるように、ゆったりとからだを流しながら同じ音を何度も弾いた。あとで知ったが、スケールという準備運動のような練習らしい。ひとしきりそれを行なってから、美空は一度手を下ろして間をとった。何か意志を固めるような静謐ののち、改めて指を走らせはじめた。


 序盤は、梢から漏れた日差しのもとにいるような明るく軽やかなメロディに感じられた。後ろで鳴っている一定のリズムが心地いい。だが、途中で雲行きが怪しくなる。不穏な響きに変わったかと思うと、やがてはじけるように陰鬱とも叙情的ともとれる盛り上がりがあった。それを過ぎるとまた軽やかなメロディが帰ってきて、余韻のような音色を響かせ、美空は曲を終えた。


 どうしよう、こういうときは拍手でもするべきなのだろうか。少なくとも、素人目にも決して下手なんかじゃないとわかった。だからこそ、惚れぼれするような美しい旋律に、安易に「すごい」とか「うまかった」とか言うのも、自身の興を削ぐような気がしてできなかった。結果、「おお……」という感嘆だけが意図せず口から洩れていた。

 そんなアメに代わって、いつのまにか隣に来ていた漣が拍手した。

「上手いものだなあ。聴いたことあるけど、なんていう曲?」

「ショパンの前奏曲プレリュード、作品二十八の第十五番、通称で『雨だれ』って呼ばれてる曲」

「雨だれ……」驚くことに、それは自分の名前が含まれた曲だった。嬉しいような恥ずかしいような、甘酸っぱい余韻が心に広がる。

「子供の頃からよく聴いてたし、練習もたくさんしたから大切な曲なんだ」

 母親がよく子守唄のように弾いてくれた曲がいくつかあり、その中でも定番の一つだったそうだ。

 雨だれは、その名の通り降りしきる雨を表現したもので、継続的に紡がれている打音が雨音のよう、と解釈されているそうだ。

「てっきり、天気が崩れて雨が降りはじめた様子を表現した曲なのかと」

「俺もそう思ったな」

「捉え方は自由だから、それでもいいと思う。他にも一番盛り上がる中間の部分は、『まるで幽霊が扉を開けて近づいてくるようだ』っていう解釈もあるし」

 たしかに他の部分とのギャップもあって、不穏なのに不思議な魅力があった。怖いもの見たさというか、恐ろしくも目を逸らすことができない――そんな印象だ。


 と、ふいに部室のドアがガラガラと開いた。ちょうどそういう話をしている最中だったので、一同ビクリとからだを震わせた。

「お疲れー、ごめんね遅くなっちゃって」

「なんだ幸か、ビックリさせんなよ」

「それはこっちのセリフだよ。せっかく今日は早く解放してもらったから、急いできたらピアノの音がするんだもん。邪魔しちゃ悪いかなって、外で待ってたんだよ!」

「そうだったんだ……ごめんなさい」

 幸が口を尖らせ、美空が申し訳なさそうに立ち上がった。

「でも、そうだと思ってたけど、やっぱり美空ちゃんが弾いてたんだね。外で聴いててもすごい、いい演奏だった!」

 幸が興奮気味に褒め称える。アメと漣がさっき聞いたことを美空に質問していた。なんとなく女子だけの世界が構築されてしまったようで、アメと漣は顔を見合わせてどちらともなく作業に戻った。

 手を動かしつつ、意識せずともアメの耳の裡では雨だれが再生されていた。



 長机まわりの物品をほぼどかし終え、それなりに居座れる体裁を整えてから、漣以外の三人はパイプ椅子に座った。


「さて、まずはみんな、僕の立ち上げた活動に加入してくれて、改めてありがとう」

 ホワイトボードの前に立った漣は、部長としての挨拶も兼ねて軽く頭を下げた。

「僕自身もいろいろやりたいことがあるんだけど、みんなも何か考えてきてくれたかな? ……まあ、とりあえずその話はあとにして、まずは浪越自然観察研究会から名称を変更しようってことだったね。さっそくだけど、何か案がある人いる?」

「やっぱり、ひらがなとかカタカナの名前の方がわかりやすくていいかな。サイエンスクラブみたいな」

「それだと、科学部みたいだ」

 趣旨がずれると漣がやんわり幸の案を否定した。

「たとえばの話よ。じゃあ、浪越をひらがなにして〝なみこし観察団〟とか?」

「いいと思うけど、ちょっと守備範囲が広すぎる気がするね。自然っぽい要素も欲しいかも」

「注文多いなあ……じゃあ、そういう漣くんは何かいい案あるの?」

「そう言われると痛いね。考えてはみたけど、あまりいいのは浮かばなかったなあ……浪越自然観察研究会をアルファベットで略して〝NSKK〟とか」

「でもそれ『なんの略?』って訊かれたら、結局正式名称を説明しなくちゃならないよね」

「だよね……」

 苦笑する漣を横目に、アメも腕を組んで頭を捻っていた。

「自然の要素か……自然って英語でなんて言うんだっけ?」

「ネイチャーとかナチュラルとか?」

 美空に訊くと、やけにいい発音の言葉が返ってきた。

「じゃ、浪越ネイチャークラブとかどうだ?」

「『ネイチャー』っていう有名な科学雑誌があるから、それだとサイエンスクラブと大差ないかな」

 そうは言いつつ、一応漣はすべての案をホワイトボードに記入していた。

「んじゃ、スーパーナチュラルクラブとか」

「うわっ、すぐスーパーとかつけるの子どもっぽい」

「なんだと!?」

 幸にバカにされるのは無性に心外な気がした。当の彼女は素知らぬ顔で自分も案を出す。

「でも自然の神秘を探求するみたいな発想はいいかもね。浪越ミステリークラブとか」

「それじゃあ、ミステリ小説の同好会みたいになるね」

 漣にすげなく却下されていた。


 その後も案はいくつか挙がったが、なかなかしっくりくるものはなく、ホワイトボードに次々と横線が引かれていった。

「美空さんは何か案ある?」

「え、わたし?」

 まだ何も案を出していなかった美空に漣が発言を促した。

「そうだなあ……な、なみこし大好きクラブ……とか?」

「へえ、シンプルだしいいかもね。なんだかんだあたしたち、地元愛に溢れてるから」

「まあな。面と向かって誰かに言うのはちょっと恥ずいけど」

 思わぬ好反応に照れたようで、美空はカバンを引き寄せてイエティのキーホルダーをいじりはじめた。

「あ、それって『楽園のイエティ』に出てくるキャラだよね? 懐かしー」

「幸も本持ってたのか?」

「あたしは原作は持ってなかったけど、映画は見に行った記憶ある。公開当時は割と流行ってたよね。あたしも昔は好きでキーホルダーとか持ってたよ」

 アメも最近読んだのだと言うと、三人でどこが好きだったとか悲しかったとかいう会話が弾む。自分がついていける話題に乗るなどいつぶりだろうか。いっとき部の新名称などそっちのけで、話に花が咲いた。

 すると、漣がひとり蚊帳の外で、その様子を見ながら何事かじっと考えていた。かと思うと、唐突に「それだ!」と発してペンを走らせ、自信に満ちた表情でふり返った。

「こんなのはどうかな?」


〝イエティ倶楽部〟


 ホワイトボードには、そう書かれていた。

「イエティクラブっていうカニが実際にいるんだ。見た目が白い毛で覆われてて雪男みたいだから、そう呼ばれてる。海にいるカニだけど、雪男っていえば山にいるものだろう? だから浪越みたいに海も山も兼ね備えているし、活動内容的にも合致してる。あとは、クラブだけ漢字にすればそれっぽくなるんじゃないかと思って」

「おお、いいじゃん、それにしようぜ!」

 その文字を見た瞬間、アメの中で、ピタリと何かが当てはまったような感触がした。

「うん、語呂も悪くないし……漣くん、意外にネーミングセンスあるじゃん」

 幸も太鼓判を押す。

「美空はどうだ?」

「……いいと思う」

 美空の反応は簡素だったが、微笑むその表情にはどこか満足げな色があった。


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