9

 善は急げとばかりに、アメは再び桃源渓谷へと降り立っていた。もちろん、幸に会うためだ。


 幸は週の半ばまでこそ真面目に登校していた。アメが後方からその背を認めたときは、話しかけようとも思ったが、まわりの席の女子と会話していてその輪を乱すのは躊躇われた。実をいうと、同じクラスゆえに幸のことであまりよくない噂も漏れ聞こえていた。それゆえ学校に抵抗があるのでは、と心配していたのだが無用だったようだ。むしろ自分よりうまくやっているようだった。


 それからすぐに美空の欠席がわかり、幸と話そうという意識も失っていた。美空が快復して落ち着き、さらに漣の誘いもあったので次の日は話しかけてみようと奮い立っていたのだが、幸は美空と入れ替わるようにまた学校へ来なくなっていた。

 桃源渓谷でまたキャンプしているのかもしれないと漣に相談すると、だったら週末にでも二人で行ってみようということになった。二人で、というのは美空の体調を慮ってのことだ。

 だが、この日アメの隣には美空の姿もあった。幸に会いに漣と桃源渓谷に行くという話をすると、自分も行きたいと言い出したのだ。


 ――病み上がりだし、無理しない方がいいぞ?

 ――ううん、大丈夫。わたしも幸に会いたいし、それに……みんな揃ったら楽しそう。

 とのことだった。


 渓谷の遊歩道へ入る前に、あの足湯をのぞいてみた。運よくいたりしないだろうかと期待したが、さすがにそんな偶然は起こらなかった。漣がこの辺りでキャンプできそうな場所に心当たりがあるというので、以降は彼につき従うことにした。

 以前よりも増えたトンボの群れに迎えられて進むと、途中、漣は遊歩道を外れて階段を上った。その先に拓けた野原があった。ここが目的の場所だったらしい。三人で周囲を探す。


「いなさそうだな……」

 たしかにキャンプ場として利用できそうな空間だが、テントは一つもなかった。

「ここじゃないとなると、もっと森の中とかなのかな?」

 それだと範囲が広すぎてお手上げだと漣は言った。あるいは、キャンプはもうしていないのかもしれない。

「やっぱ、また学校に来るの待つしかねーか」

 あくまでダメもとだった。アメは早くも潔く切り替えていると、

「ちょっとコーヒーの匂いがするかも」

 美空が目を閉じて一歩前へ出た。

「コーヒー? そんな匂いするか?」

 漣もわからないと首をふった。

 喫茶店に住んでるので、コーヒーの香りに敏感になったのかもしれないと美空は言った。

「どこから漂ってくるか、わかったりするかい?」

 漣が訊くと、「こっち」と言って美空は歩いていく。大人しくその嗅覚を頼ってついていくと、派手なピンクのテントが現れた。野原はところどころ勾配になっていたり、草木で死角になっている場所があったのだ。

「すげーな美空、警察犬みたいじゃん」

「それあんまり嬉しくないけど……」


 テントの側には、クッカースタンドとその上にパーコレーターがあった。コーヒーの匂いはそこから漂っていた。アウトドチェアの上にスケッチブックが残されており、そこに幸の名前が書かれていた。間違いなかった。しかし当の本人はあいにく留守のようだった。

「実は中で寝てたりしてな」

 ただ待っているのも忍びないと、アメはテントのファスナーに手をかけた。

「あ、ダメだよ勝手に」

 美空が制止するが、勢いづいたアメは止まらなかった。

「おーい、幸いないのか? いないならいないって返事してくれ」

 中をのぞくと、気配のなさから薄々わかっていたが、やはり姿はなかった。吊り下げられたランタンが寂しげに揺れている。

「何やってるのかな?」

 背後から声がして一斉にふり返ると、笑顔を引きつらせた幸が立っていた。



 漣の自己紹介を聞きつつ、幸は紙コップを用意してパーコレーターからコーヒーを注いだ。それを美空と漣にだけ渡す。アメはというと、青草の上に正座させられていた。

「だからごめんて。もう二度と勝手に開けたりしねーから、俺にもくれ」

「くれ?」

「ください」

「ちゃんと反省してるんでしょうね? 女の子のプライベート空間を勝手にのぞくなんて、ほんとだったら懲役三百年くらいだからね」

「罪重いな……」

 くつくつと笑いをこらえて漣が肩を震わせた。さっきから何度も謝っているが、幸は白い目で見てくるばかりだった。何も考えずに行動したさっきの自分をアメは責める。

 しおらしく反省していると、誠意が伝わったのか、幸はしぶしぶであるがコーヒーをくれた。ありがたく頂戴する。


 さっそく一口飲むと、危うく吹き出しそうになった。

 コーヒーはかなりまずかった。トリコットのコーヒーを知ったあとではなおさらで、これならもらわなくてもよかったとアメは後悔した。美空を一瞥すると、彼女も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


 幸い、漣から要件を聞いていた幸はこちらを見ていなかった。アメはその隙に青汁のようなものだと思って一気に飲み干した。漣が浪越自然観察研究会の紹介を終えたあとは、コーヒーのまずさを忘れるためにも勧誘はアメが引き継いだ。

「そんで、あとひとり部員がいたら部室もらえるっていうから、まっ先に幸が浮かんだんだ。よかったら一緒にやらないか?」

「うーん……でもあたし、地層のことだったら少しはわかるけど、それ以外はからっきしだよ?」

「十分だよ。この辺りの地層が貴重なものだってことは僕も知ってたんだけど、詳しくはないし。まとめられればそれなりにいい報告になるんじゃないかと思うから、ぜひ協力してくれないかな?」

 漣も後押しすると、あまり気が乗らなそうだった幸に変化があった。

「そうねえ……将来、もしあたしが研究者とかになれたとして、その経験が役には立つか。研究とかだってひとりでするわけじゃないから、チームワークも重要だろうし……」

 そう言う幸だったが、まだ決めきれないようだった。そこへ漣がさらにひと押し加える。

「ところで、幸さんのおじいさんって学者さんって聞いたけど、もしかして白井幸三(しらいこうぞう)さん?」

「そう、よく知ってるね!」

「やっぱり。けっこうその世界じゃ有名な人みたいだね」

 図書室に浪越出身の著名人ということで著書が何冊か置かれており、漣は借りて読んだことがあるという。よほど誇らしく思っているのか、幸はまるで自分のことのように祖父の成果をいくつか語った。気をよくしてくれたようで何よりだった。


「そろそろ学校にも真面目に通わなくちゃヤバいし。部室って昼休みとかも使えるのよね? だったら、ご飯食べたりするのにいいかも」

 アメは首を傾げた。幸はそれなりにまわりの席の生徒と打ち解けていたようだし、そこで一緒に食べればいいじゃないかと。それを口にすると、どうもそういうわけではないらしかった。

「しょっちゅうこういうことしてたから、一日中椅子に座ってるってけっこうキツいのよね。それにまわりの子たちとはちょっとは打ち解けられたけど、まだクラスに馴染めたってわけじゃないし」

「そうだったのか」

 これまではリハビリのような感覚で、慣らすために通っていただけだという。歳が一つ上というのもあるし、プライドや葛藤もあるのだろうとアメは推測するに留めた。

「でも昼飯を部室で食うっていいな。俺もそうする」

「えー、アメくんも来るの? 美空ちゃんだけがよかったけど」

「邪魔なのかよ! じゃあ、行かねーよ!」

 ひとり寂しく教室で食ってる、とアメが卑屈に顔を背けると、幸は一転して笑った。

「冗談、アメくんもおいで」

「じゃあ、入ってくれるんだ?」

 ずっと固唾を呑んで状況を見守っていた美空の肩から、緊張が解かれた。


 ようやく決まりかと思ったが、幸は「ただなあ……」とまた眉を寄せた。

「何かまだ不安でも?」と漣。

「入るのはいいけど、なんかダサいなって、名前」


『名前?』三人の声が重なった。


「浪越自然観察研究会だっけ? なんか堅っ苦しくない?」

「ああ、なるほどな。たしかにそれは俺もちょっと思ってた」

 字面が地味な感は拭えないし、漢字でも九文字もある。もしいつか書く場面が訪れることがあれば、面倒なこと間違いない。

 すると「なんだそんなことか」と漣は苦笑した。

「もともとそれっぽい名前を適当につけただけだから、変更してもかまわないよ。……そうだ、だったら部室をもらったあとで最初の議題としてそれを話し合おうか」

 とりあえず申請は浪越自然観察研究会で行うが、その後変更するのは問題なかったはずだということだった。

「そういうことだったら」

 幸もようやくすべて呑みこんでくれたようだ。漣が持参した入部届に記入してもらう。これで、晴れて四人の部員が揃ったのだった。


 その後、せっかくだからと幸は、地磁気逆転の痕跡が残っているという露頭へ案内してくれた。アメは正直それほど興味なかったので聞き流していたが、美空と漣はかなり関心を向けて聞き入っていた。

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