7
月曜日、アメが隣のクラスの前を通ると、美空が席にいないことに気付いた。トイレにでも行っているのだろう。はじめはそう思っていたが、その後も姿を見かけることはなかった。学校を休んだのだ。
桃源渓谷での、彼女の疲労を帯びた表情がよぎる。
やきもきしながら迎えた翌日、またしても美空はいなかった。アメは頭を抱えたくなった。心配で授業の内容など頭に入らなかった(元からだが)。かといって、隣のクラスの生徒に訊くことなどできない。下手すれば美空の学校生活に影響を与えてしまう。
一日中どうすべきか悩んだ結果、放課後アメは職員室に赴いた。
メガネをかけた神経質そうな中年の教師に声をかける。美空のクラスの担任だった。
「美空……成田さんって、昨日から休んでるんですよね? 何かあったんですか?」
「成田? ああ、昨日から体調不良だと聞いているが……それが何か?」
――やはり。
「あの……成田の住所とかって教えてもらえます?」
「住所? いや、さすがに個人情報は教えられんよ。そもそもきみ、成田とどういう――」
教師が言い終わらぬ内に、アメは軽く舌打ちすると捨て台詞のように礼を言ってその場を立ち去った。背後で呼びとめる声がしたが無視する。
舞い上がっていたのだ。彼女のからだのことを顧みず、調子に乗って連れまわした。その結果がこれだ。自分のせいだ。
アメは早足で校舎を出ると、そこからさらに駆けだし、ちょうどタイミングよく停車したバスに飛び乗った。学校以外で美空の家を知っていそうなのは、あの人しかいない。
そこへ着く頃にはもう日が暮れかけていた。入り口の自動ドアをくぐり、すぐに通路に行こうとして思いとどまる。医療センターの面会時刻は十七時までだ。その前なら関係者じゃなくともこっそりうろつくこともできようが、過ぎてしまっているならさすがに怪しまれる。面倒だが、ロビーの受付で尋ねるしかなかった。
「あの……山河先生に会いたかったんですけど」
「カウンセリングを受けられる方ですか? ご予約は?」
「いや、そういうのじゃなくて、ちょっと訊きたいことがあっただけなんすけど……」
こういうときうまい方便でも吐ければよかったのだが、あいにくアメはそんな話術も能力も持ち合わせていなかった。当然、受付の女性職員は怪訝そうな顔をする。
「申し訳ないけど、そういう方じゃないならちょっと……」
「そこをなんとか! 大事な話があるんで!」
アメは詰め寄って懇願したが、融通が利く様子はなかった。半ば諦めかけていると、
「あら、神崎さんとこの子じゃない?」
たまたま見知った看護士が通りかかった。祖母のことで世話になっていて、何度か話したことがあった人だ。
「平日にくるなんて珍しいわね。おばあさんのお見舞い?」
「いや、今日はちょっと違くて――」
アメは、山河の担当の娘が今たいへんなことになっているのだと、少し盛って説明する。アメなりに緊迫感をもって伝えると、看護士は腕を組んで少しの間うなった。
「そうねえ……そういうことなら、本当はいけないけど特別に呼んであげるわ」
運のいいことに、その看護士さんは山河とはよく世間話をする仲であるそうだった。
「大丈夫ですか?」受付の女性職員が心配を口にする。
「まあ、大丈夫でしょ。この子しょっちゅうおばあちゃんのお見舞いに来てて、えらいのよね」
まったく誇ることなどではないと思っていたが、ちゃんと見てくれていた人がいてよかった。
そわそわしながら待合所の椅子で待っていると、十分ほどして通路の奥から山河が現れた。気怠げに首をまわしながら肩に手を置いている。顔に一日の疲れが滲んでいたが、アメの前まで来たときには真面目な表情に戻っていた。
「ごめんね、待たせた」
「いや、こっちこそ、押しかけてすいません」
「気にしなさんな。美空さんのことだろう? 何があったんだい?」
アメは山河に頼まれてからの美空とこのことを、かいつまんで話した。その上で、学校ではまだ話しかけづらいので、直接家に行って謝りたいのだと自分の意志を申し出る。すると山河は意に反して、なぜかさもおかしそうに笑いはじめた。
「笑いごとじゃないですよ!」
「ごめんごめん、私が想像していた以上に順調にいっているみたいだから嬉しくて。いやはや、なかなかやるねえ、きみ。この短期間でそれだけ距離を縮められたなら大したものだ」
めったに褒められることなどないので嬉しい言葉だったが、今はそれどころじゃない。
「そりゃあ、美空さんは普段あまり外に出るタイプじゃないから、二週連続でそんなアクティブなことに連れ出せば心身に疲れも出るだろうねえ。急激な変化にからだと心がついていけなかったのかもしれない」
「やっぱそうっすよね……すいません、そこまで考えてなくて……」
「ちょっと性急だったのはたしかだね。……だがまあ、人生において急な変化というのは往々にして訪れるものだからね。慣れてもらわなければ、というのもあるし、前向きに捉えればいい経験だったんじゃないかな。少なくとも責任は私にある。アメくんが自分を責める必要は一切ないよ」
「でも……」
「そうだなあ、別に急いで何かする必要はないと思うが……じゃあその熱意に免じて、美空さんの家に行ってみるかい?」
「でも迷惑じゃないですかね?」
ここまで来ておいてなんだが、意志が揺らいでいた。いまからだと着く頃には遅い時間になる。それに、美空は伯父と一緒に暮らしているそうなので、変な目で見られないだろうか。
「大丈夫だと思うよ。美空さんの伯父さんとも私は知り合いなんだが、とてもできた人でね、丁重に迎えてくれるんじゃないかな」
念のため連絡はしておくと山河は言ってくれた。そのあとで、くれぐれも私が教えたことを院内で漏らさないように、と注意して住所を教えてくれた。
「それと一応忠告はしておくけど、謝るのはいいとしてもあまり申し訳なさそうにしない方がいい。あの娘は相手がそういう態度でいると、自分も申し訳ないと思ってなおさら疲れてしまうから」
「わかりました」
山河の言葉を十分留意して、アメは医療センターをあとにした。
浪越の駅前通りを下っていくと、飲食店のネオンがささやかに夜道を照らしていた。和食やインド料理、エスニックレストランなどが並んでいる。
街灯の明かりを頼りに看板を確認しながら歩いていると、瀟洒な洋菓子屋があった。たしか斜向かいに洋菓子屋があるとのことだったので、車道の反対を見ると、レトロな雰囲気のお店があった。立て看板を見る限りここで間違いない。
看板には店名と営業時間が描かれている。すでにその時間は過ぎてしまっていて、ドアにも〝CLOSE〟のプレートがかかっていた。山河が連絡してくれているはずだし、問題ないとは思うが……アメはおそるおそる扉を押した。
「いらっしゃい」という声とベル、それに芳しい香りに出迎えられた。
店内はオレンジのモダンな照明の光が落ちていた。マスターらしき男性がカウンターの中で作業している。この人が美空の伯父なのだろうか。
「あ、あの、山河先生から連絡があったと思うんですけど……」
しかし、マスターはそれには答えなかった。「どうぞ座って」とカウンター席を手で示す。なんだろう……やはり美空のことで怒っていて、これから説教されるのではないか。いかめしい顔は怒ったら怖そうで、そんな恐怖がよぎった。
にわかに怖気づきながら、アメはスツールに腰を落ち着ける。
「コーヒーは好きかい?」
「コーヒーですか? ……普通ですかね」
正直ブラックコーヒーは苦手だが、この場でそれを言う勇気はなかった。
するとマスターはなぜか満足そうに頷いて、また作業を再開した。
「俺、美空……さんの見舞いに来たんですけど……」
またしても返答はなく、アメは口を真一文字に結んでいるしかなかった。その上、店の雰囲気はいかにも大人の空間といった印象だ。手軽なカフェチェーンしか利用したことのない身としては、あまりに場違いで落ち着かない。
気まずい沈黙が数分続いたのち、ようやくマスターがカウンターから出てきた。アメの前にコーヒーカップの載ったソーサーが、ことっ、と子気味のいい音を立てて置かれる。
「特別サービス」
そう言って片目を閉じた気がしたが、もしかしてウィンクだったのだろうか。
どうやら、飲まない内はどうすることもできないらしい。仕方なくカップを持ち上げると、芳醇な香りの湯気が鼻を抜けた。急かされるように啜る。
「ッ……!」
そのコーヒーは、苦みや渋みが抑えられているようで軽い口当たりだった。その代わりフルーツのような甘みとほのかな酸味が利いている。飲みやすい、という以上にはじめてコーヒーをおいしいと思ったかもしれない。アメには衝撃的とすらいえる味だった。
「どうだい?」
「うまいっす」
お世辞抜きで自然と口からそうこぼれた。
「よし!」マスターはなぜかガッツポーズした。そしてようやく自己紹介し、普通に会話をしてくれた。
「わざわざ来てくれてありがとう。美空は今自分の部屋で安静にしているよ。大分よくなったみたいだから、明日は登校できるんじゃないかな」
「そうなんですね。すいません、こんな時間に押しかけて」
拙く謝罪し、重ねて、美空が体調を崩したのは自分のせいだと頭を下げた。だがマスターは首を横にふる。
「あの子は知っての通り少し心に問題があってね。最近はかなりよくなったみたいだけど、それでもまだからだがついていけなくなるときがあるみたいだ。でも決して悪気がないのは山河先生から聞いてわかっているし、そんなに気にする必要はないよ」
接してみれば山河の言っていた通りよくできた人だ。ちょっと怖そうな人だと思ったことをアメは心中で謝る。
「むしろ、感謝しているんだ。アメくんと出かけて帰ってきたときは、疲れてはいたけど、あったことを楽しそうに話してくれてね。そんな様子はここに住むようになってはじめてだ。きみのおかげだよ」
「いや俺はそんな大したことは……」
褒められるなど予想だにしていなかった。慣れていないので逆に居心地が悪い。だが何より、美空がちゃんと喜んでいてくれたのがわかって嬉しかった。
「これからも美空をよろしく頼むよ」
「もちろん、こちらこそ!」
むず痒い気分に浸りながらアメがもう一口コーヒーを含むと、ふいに上の方から物音がした。
「お、噂をすれば」
聞き耳を立てていると、階段を下る音がして奥に気配が現れた。何やらがさごそしていたかと思うと、
「伯父さん、冷蔵庫の氷もう切れちゃってたんだけど、こっちにある?」
かわいらしい水玉のパジャマを着た美空が現れた。アメと話すときよりもはっきりした口調だ。美空はアメの存在に気付いていなかった。閉店しているので澤井以外に人はいないと思っているのだろう。
「よお」
アメは片手を上げて声をかけた。一瞬迷ったが、このタイミングを逃す手はなかった。
美空はアメを捉えると、えっ、と表情で凍りついた。
「ああ、ごめんね、こっちの使っていいよ」
澤井は平静を装ってカウンターの下に身を屈めた。束の間、二人だけが向かい合っているかたちとなる。
一泊置いて、美空はわかりやすく動揺して顔を赤く染めあげた。
部屋に入ると、アロマのようないい香りがした。女の子らしくクッションやぬいぐるみが配置され、机の上に手の平サイズのポットの観葉植物が並ぶ。
ミニコンポの載ったラックもあって、アメでも聞いたことのある名だたる作曲家のCDが並んでいた。
それ以外にも雑多な物は多いが、整理整頓がなされているので清潔感があった。だが本棚の存在感だけはどうしようもないらしく、普段読書などしないアメは圧倒され、思わず「すげーな」と洩らした。
「あ、あんまり見ないでね、恥ずかしいから」
部屋全体のことを言っていると思ったようで、美空は両手をぱたぱたとふった。
彼女はルームウェアのワンピースに着替えていた。パジャマでも十分かわいいのにと澤井に言われていたが、恥ずかしかったようだ。店内で話すのも忍びないということで、澤井の勧めもあって部屋にお邪魔することになったのだった。
美空はベッドに腰かけ、アメは床に胡坐をかいた。
「悪いな、病み上がりなのに」
「こ、こっちも心配かけてごめんなさい」
アメは、今後は場所や期間など極力美空が疲れないようにすると戒めを口にし、それでも無理そうだったら気軽に言ってくれと頼んだ。
「うん、ありがとう……でも元はといえば、わたしの体調管理が甘かったせいだから」
申し訳なさそうに目を伏せる様子を見て、アメはこれはよくない傾向だと察した。
「よし、それなら俺が言えた口じゃねーけど、この話はここまでにしようぜ。互いに悪いと思ってても仕方ねーし、明日からは何もなかったってことで」
ぽんと膝を打って、努めて明るくふる舞う。すると、美空がくすりと笑った。
「なんか、すごい開き直ったみたい」
「ダメだったか?」
「ううん、そう言ってくれると助かる」
よかった。ひとまずいい地点に着地できたようだ。
その雰囲気を絶やすのも惜しいと、アメは話題を変えた。
「しっかし、本当に本好きなんだな」
図書室によく行っていると聞いていたが、改めて思い知る。しかも浪越に来る前の家ではもっとあったというから驚きだ。
「よかったら、なんかおもしろいの貸してくれよ」
活字は苦手だが、何か共有できるものがあれば会話のネタにもなるだろう。
「何か気になったのがあれば全然貸すけど……わたしが持ってる本、けっこう図書室にもあるよ?」
「でも図書室って返却期限とかあるんだろ?」
「うん、でも延長できるけど……」
そうは言っても正直面倒だ。それに、美空から借りてこそ意義がある。アメは立ち上がって本棚を物色した。
「できれば最初はあんま字が少ないのがいいな」
「じゃあ、児童文学とかかな。あとは絵本とか……あ、ごめんなさい、別にバカにしてるわけじゃなくて……!」
「わかってる。全然気にしてねーよ」
アメは苦笑した。きっとそういうのからじゃないと多分自分には無理だろう。その中で美空のおすすめを訊くと、少し悩んでから一冊の本を取り出した。
「楽園のイエティ?」
「わたしの一番好きな絵本、大人も楽しめる作品だからいいと思う」
幼い頃に読んで以来、今でも最も好きな一冊だという。映画化もされているそうで、言われてみれば聞いたことのあるタイトルだった。そういえば美空はスクールバッグにもそのキーホルダーをつけていた。ベッドの枕元にもイエティのぬいぐるみがあるし、よく見るとステッカーやノートもある。熱量が伝わってくる。
「そう、わたしの宝物」
美空は枕元からイエティをたぐり寄せると、ぎゅっと胸に抱いた。その仕草が可愛らしく、アメはそんな彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、慌ててふり払った。
「じゃ、じゃあ、とりあえずそれは貸してもらうか。他になんかある?」
「あとはそうだなあ……『100万回生きたねこ』は鉄板かな。あと、ぬいぐるみといえば『ビロードのうさぎ』とかいいかも。それと『おおきな木』もおすすめ。作者の人が、ちょっと伯父さんに似てるんだ」
そう言って美空は、緑色の装丁の本を取り出して裏表紙を見せた。そこにはモノクロの写真に、黒い髭を鬱蒼と伸ばしたスキンヘッドの男性が、しかめっ面のような表情で写っていた。絵本作家というか芸術家っぽい。たしかに澤井に似ているが――
「マスター、ここまで怖くないだろ」
声を出して笑い合った。美空は小さいとき伯父の顔を見てよく泣いていたそうで、その申し訳なさもあって、今はお店を手伝ったりしているそうだ。
絵本ばかりというのもなんだか恥ずかしいので、それからアメは美空の勧める児童文学と短編小説を借り、丁寧にカバンにしまった。
「そういや、図書室に通ってるんだもんな。放課後そこで話したりできねーかな?」
もちろん、美空が迷惑じゃなければだが。
「わたしはいいけど、他にも本読んでる人とか勉強してる人もいるから……」
「わかってる。毎日じゃなくてたまにな。小声でちょっと話すくらいならいいだろ?」
「それくらいなら……そういえば図書室なら漣くんもいるしね」
そういやそうだ。クラスも違うので、漣とは鏨山で会って以来、まだ学校では話せていなかった。美空も互いに別の机で本を読んでいて、会話は交わしていないという。せっかく友達になれそうなのに、もったいない。
「じゃ、漣もいたら声かけてみるか」
明日以降、また図書室で会うことを約束し、この日はお暇することにしたのだった。
帰り際、店内にまだ澤井がいた。
「コーヒーご馳走様でした。おいしかったです」
「またいつでもぜひ」と手をふる澤井に、さっき見た絵本作家の面影が重なった。危うく吹き出しそうになって、アメは必死に堪えた。
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