6
桃源川の水面に、黒みがかった魚が数匹群れなして泳いでいた。
「お、魚泳いでんじゃん。なんの魚だ?」
「たぶん、鯉じゃないかな」
「へえ、釣ったりできたら楽しそうだな」
「え、釣っちゃったらかわいそうだよ。家族かもしれないし」
「家族?」
「小さい頃歌わなかった? 鯉のぼりの唄。屋根より高いっていうの」
ああ、とアメは少しだけ納得した。あれは鯉の家族の童謡だったか。
自分にはないやさしい発想に、アメはほっこりする。
「ま、釣りするなら川より海でうまそうな魚狙った方がいいか」
この辺りの渓流は残念ながら、あまり食に適した魚は釣れないと聞いたことがあった。
くすりと美空が笑う。食い意地が張っていると思われただろうか。
「魚好きなんだね」
「浪越で獲れる魚はうまいからな。漁港にじいちゃんの同級生がやってる定食屋があるんだぜ」
「へえ、そういうお店があるのっていいね」
「はれた食堂っていうんだけど、行ったことないか」
美空は首を横にふった。ならばいつか連れていってあげよう。自信をもって勧められる店だ。
アメが得意げな気分に浸っていると、美空のベレー帽にそれがとまっているのに気付いた。
「ちょっと動かないでくれるか?」
え、と困惑する美空の頭上で、アメは虚空に指で円を描く。そしてすばやく手を近づけると、ぱっとその翅を掴んだ。「ほら」と美空に見せてやる。
「あ、トンボ」
夏の訪れを告げるシオカラトンボだ。
美空がまたかわいそうだと言うので、すぐに放してやるとトンボは仲間と合流して宙に消えていった。
「もう夏だな。美空は夏と冬どっちが好きとかあるか?」
「うーん……冬に暖かい部屋で過ごすのも好きだけど、やっぱり夏かな。わたし、冬はよく風邪引いちゃうから」
たしかに華奢な美空はあまり寒さには強くなさそうだ。
「アメくんはどっちなの?」
「俺は春と秋だな。暑いのも寒いのも苦手だし」
「それはずるいよ……」
それなら自分もそうだと呆れる美空に、アメはしてやったりと笑った。
「そろそろ引き返すか。温泉街まで戻って休もうぜ」
まだ遊歩道は先があったが、この辺にしておくことにした。というのも、さっきから美空の言動の端々に、少し疲れがあるように感じていたからだ。夏の方が好きだという割に、帽子から垂れた前髪が額に張りついていた。
川を横目に眺めながら歩くのもいいが、道端にはどうやったらそんなふうになるのか、というほど捻じれまくって変な方向に幹が分岐した樹なんかもあって、目が飽きることがなかった。
遊歩道の途中には堰のようなコンクリの橋があった。
「気を付けてな」と言ってアメは背後から美空を見守る。柵などがあるわけじゃないので、万一躓きでもすればそのまま川へダイブすることになる。底の岩が見える川に落ちれば、ケガは免れないだろう。反面、飛び石を渡るようなスリリングさが楽しくもあった。
二人は〝ゆ〟と書かれた暖簾の前に立った。まわりの幟に〝足湯〟とある。鏨山に登った分も合わせて疲れをほぐしていくのにちょうどいい。美空と帰りに寄っていこうと打ち合わせていたのだ。
受付らしいおばちゃんに料金を払って浴場に入ると、温泉らしく硫黄の匂いがした。先客が何組かいたが、ひとりで浸かっていた女性の対面が空いていた。アメが先に靴下を脱いで裾をめくり上げ、勢いよく湯に浸った。
「お、けっこういいな。美空も早く入れよ」
美空は恥ずかしいのか後ろで両手を丸めていた。だがアメが促すと、意を決して素足をさらけ出し、探るように慎重に爪先を湯に着けた。
「あ、気持ちいい」
「だろ? 疲れも抜けるといいな」
アメの横に腰を下ろすと、脱力して素直に「うん」と頷いた。やはり少し疲れていたようだ。それならいっそ普通の温泉の方がよかったか、とアメは後悔しかけて、いやと思い直す。
美空の脚がちらりと視界に入った。湯が黒いせいか、淡雪のような肌がより際立って見える。吸いこまれそうになって、目を引き剥がした。あくまで友達だ、邪な感情は抱くなとアメは自分に言いきかせた。
気を紛らわせるために前を向くと、先にいた女性の顔が垣間見えた。バケットハットを被ってスケッチブックに視線を落としていたので、来たときは性別くらいしかわからなかったが、けっこう若い。同じ高校生くらいかもしれない。
一段落ついたのか、その女の子は「ふう」と息を吐くと、横に置いてあったタオルに手を伸ばした。と、油断したのか太ももの上に置いたスケッチブックが滑り落ちていくのがアメの視界に入った。彼女は気付いて慌てて掴もうとしたが、間に合わない。
それでも、スケッチブックが湯に触れることはなかった。アメが身を乗り出して、寸前でキャッチしたからだ。
「ありがとー!」
驚きながらも、感謝する彼女に渡す。そのとき、アメはスケッチブックに描かれた絵が見えた。「すごっ」思わず感嘆する。幾重にも緻密に線が描かれ、鉛筆の黒鉛の濃淡で色分けされていた。ところどころに丸っこい字でメモ書きもなされている。一見、今どきな風貌の女の子だが、そこからは想像もできない絵だった。
「それ、なんの絵?」
「この近くの露頭……ようは地層のことね」
訊けば、この辺りの地層は歴史的な価値が高く、将来地層の研究者になるため、わざわざキャンプまでして勉強しているのだという。幸との出会いだった。
「っていっても、地層なんて地味だし興味ないよね」
彼女は自嘲して達観したように笑った。たしかに興味はないが、アメはその姿勢に素直に尊敬を述べた。
「あたしの場合、たまたま恵まれてただけだけどね」
祖父が地質学者なので、もともと縁があったそうだ。
「美空はそういうの興味あるか?」
「ちょっとおもしろそう……」
「あ、聞きたい?」
美空が興味を示すと、幸は堰を切ったように露頭のことを話しはじめた。火山灰とか地磁気とかポールシフトといった言葉が出てくる。アメにはちんぷんかんぷんだったが、美空はときおり相槌を打って、楽しげに聞き入っているようだった。
「その地層、歩いて見に行けるから、行ってみたらいいよ。デートのついでに」
やはり周囲からはそう見えるらしい。美空が頬を染めて俯く。アメは苦笑いしながら漣のときと同じように否定した。
「そうなの?」と幸は訝しげに眉根を寄せたが、すぐに切り替えて、
「やっぱり浪越高校の人だったんだ。あたしもそうだよ」
同じ二年だとⅤサインをつくった。しかもアメとクラスが一緒だった。アメが驚いていると、美空に「気付かなかったの?」と胡乱げな目を向けられた。
「仕方ないよ、あたしこの春からもそんなに学校行ってないし、そもそもダブってるから」
そういえばクラスに不登校の生徒がいて、担任が困っているような素ぶりをしていることがあった。それが幸のことだったのだ。
「そうか、こっちで地層の勉強してるから学校来ないのか」
「それもあるけど……まあ、女の子にはいろいろあるのよ」
何か言いにくい事情があるようだった。まあ、自分も中学にはほとんど行っていなかったわけだし、目標があって自身が納得しているのならいいだろう、とアメはそれ以上追及することはしなかった。
「改めて見ると、あたしはアメくんのことちょっと思い出した。なんか目つきわるくて、髪の毛ツンツンしたちょっと怖そうな人いるなーって」
「悪かったな! 生まれつきだから仕方ねーだろ!」
アメが憤慨すると、隣でくすくすと声をひそめて美空が笑っていた。
「ごめんごめん、もちろん冗談」
幸はごめんのポーズをして、あざとっぽく首を傾げる。
「まあいいけど……じゃあ許すから、その代わりいつかその露頭とやらに案内してくれよ」
「それくらいなら、むしろ大歓迎よ!」
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