5

 空は筋状の雲がいくつか浮いているだけで、絶好の行楽日和だった。


 浪越駅には指定した時刻の三十分も前に着いた。誘った手前、待たせるわけにはいかない。彼女が来るまでの間、伝えるべき山河の助言を頭の中でまとめる。まわりに人がいないのをいいことにぶつぶつと呟いていると、

「ごめんなさい」

 突然横から声をかけられた。びくりとしてふり向くと、成田美空だった。

 薄いパーカーを羽織り、足首の出たストレッチデニムを穿いている。ショルダーバッグをかけ、頭にはベレー帽がちょこんと載っていた。

 思わず「早いな」と開口一番アメは驚いた。


 それより早く来ていたアメが言うのもなんだが、伝えていた時間よりまだ二十分も前だ。にも関わらず彼女は「待たせてしまってごめんなさい」と再度謝った。

「いや、俺も待たせたら悪いと思っただけだから。まだ言ってた時間より全然早いし、なんだったら別に遅刻したって怒ったりしねーよ」

 逆にこっちが申し訳なくなって慌てて否定した。すると彼女は気が抜けたように、

「意外にやさしいんですね」

 と顔をほころばせた。

「あ、意外にって失礼なこと……!」

 失言に気付いて美空はぱたぱたと手をふった。その様子がいじらしく、アメの顔に笑みが浮かんだ。やはり怖いイメージをもたれていたようだが、意図せず多少払拭できたようだった。油断は禁物だが、はじめて見た彼女の笑顔に気分が華やいでいた。


「じゃ、じゃあ、今日はよろしくたのむ。とりあえずバスに乗るんだけど……」

「あ、あの、その前に名前をまだ……」

「あっ、そういや、まだ言ってなかったっけか?」

 アメは自分に呆れた。名乗りもせずに約束だけ押しつけていたのだ。はたから見ればヤバいやつだ。

「俺は神崎――神崎雨、普通に空から降る雨と同じ字だ。アメって呼んでくれていい。名前は好きじゃねーけど……そっちは美空って呼んでいいか?」

「は、はい……」

 美空は「アメ」と吐息のように復唱した。変な名前だと思っているのだろう。この瞬間がいつも苦手だった。逃れるようにアメは、また口を開いた。

「ついでだから、先に言っておくことだけ話すわ。まず敬語は使わなくていい。ため口でいいから」

 距離はてばやく縮めるためには、できるだけ砕けて会話するのが望ましいと山河は言った。アメもそれは同意見だった。敬語なんて使われるとむず痒い。

「それと話すことなかったら無理して話さなくていい。俺は沈黙とか気にしねーから、互いにな」

 山河いわく、美空は沈黙が苦手でどうしても何か言わなければという気持ちから疲れてしまうそうだ。アメとしてもはじめから会話が続くとは思えないので、その方が気楽だった。


「あとはまあ、気とかそんな遣わなくていい。言いたいことあったらなんでも言ってくれていいし、やりたいことあったら気軽に言ってくれ。その方がこっちも助かる」

 待ち合わせ時刻より大分早くきている時点で互いにかなり気を遣っているわけだが、今後はそういうのも極力控えるべきだろう。

 以上が、山河から最初に伝えておくといいと教えられたことだった。美空は自らの爪先にじっと目を落としながらも、ときおり小さく首肯していた。



 二人は並んでバスの座席に着いていた。

 慣れない状況にからだが強張る。それでもアメは努めて気まずくならないよう質問を重ねた。その結果、美空のことを少しばかり知ることができた。


 この頃の美空は、まだ声も小さく聞きとるのに難儀したが、要約すると、生まれは東京で、今は伯父の家に世話になっているという。アメも同じく出身は浪越ではないので、少し親近感が湧いた。


 母親が浪越の出身だそうで、帰省に合わせて以前から浪越には何度か訪れていたそうだ。

 ただ、今回の目的地である鏨山へは登ったことはないということだった。アメも鏨山へ登るのはたしか小学生のとき以来だった。二人して純粋にハイキングを楽しめるかもしれないと少しばかり期待が膨らんだ。


 会話が一段落してアメが次の話題を模索していると、ふと美空がちらちらとこちらを見ているのに気付いた。

「なんだ? なんか訊きたいことあったらなんでも訊いてくれ。脈絡とか気にしなくていいし、ちゃんと答えるから」

 そう言うと意を決したのか、彼女はおそるおそる口を開いた。

「あの……さっき自分の名前好きじゃないって言ってましたけど――」

「敬語」と指摘すると「あっ」と洩らす。まあ、慣れるまでは仕方ないだろう。

「――言ってたけど、ど……どうしてなの?」

「なんだ、そんなことか」

 アメは手短に苦い経験を伝えた。

「じゃ、じゃあ、名前じゃなくて苗字で呼んだほうが……」

「いや、名前でいい」

 前は嫌だったが、いつまでも名前から逃げてばかりはいられない。それに名前で呼びあった方がなんか友達っぽい。無駄にそこはこだわりがあった。

「変な名前だろ?」

「そ、そんなこと……おじいさん、センスある……」

「センス? まさか」

 どうせお世辞だろうとアメは皮肉げに笑った。


「じいちゃんがまだガキの頃、ここらへん干ばつとかあったんだってさ。学校で雨乞いとかしたこともあったらしい。だから雨は貴重なんだって言ってた」

「その通りだと思いま……思う。すごい素敵な名前……」

 沁みいるように言うその表情は、嘘をついているようには見えなかった。素敵、なんて言われたのはおそらくはじめてだった。気恥ずかしくなって、アメは今度は彼女の名前に話題を向けた。

「同じひらがな二文字なら、俺も〝そら〟って名前の方がよかったな」

 すると、今度は美空がその由来を教えてくれた。


 このときはじめて、字では〝美しい空〟と書くのだと知った。母親の「空はたとえ曇っていたり雨が降っていても美しい」という考えから、読みはただ〝そら〟とすることにしたのだと聞いているという。

「そっちの方がセンスあると思うけどな」

 アメの母親はもうどこで何をしているのかわからないので、そういう母親がいて羨ましかった。素直にそう伝えると、

「はい……」

 美空は、なぜか目を伏せ窓の外に顔を向けた。



 二人は揃って鳥居の前に立っていた。バスを降りる直前にそれを見かけた美空が「浪越神社」と呟いたのが聞こえたので、「ついでに寄ってく?」と尋ねると、思いのほか美空は「はい……あ、うん」と即答した。


「かっこいい狛犬だな」

 アメは浪越神社へ訪れるのも久しぶりだった。鳥居の横にそびえる岩に跨ったその姿が、狛犬のイメージと違っていて珍しかった。

 厳密には狛犬ではなく〝唐獅子〟というのだと、のちに知った。意義は狛犬とほぼ変わらないが、狛犬の元になった神獣だそうだ。


 境内は厳かな雰囲気で、特に話もせず身を清めるように眺めて歩いた。重厚な社殿のほかに、末社として、ゑびすや稲荷といった複数の神様の祠もある。律儀にもその一つひとつにお参りしている人もいた。

 美空は初詣をここで済ませているそうだ。幼い頃かすかにお参りした記憶があり、懐かしさもあるという。

 拝殿では御簾の向こうで祈祷を受けている人がいるようで、神主が鏡に向かって祝詞を唱えていた。その後ろで賽銭箱に硬貨を投げ入れて参拝する。年初に祖父と初詣に近所の神社に行ったので、作法を知っていてよかった。そうでなければかっこ悪い姿を見せていたかもしれない。


 アメは手早く最後の一礼をして切り上げたが、美空はじっくり祈りを捧げていたので適当におみくじの入っている箱を見て待った。おみくじは数種類あって、どれも縁起物が中に封入されているものだった。

「運試ししてかないか?」

 お祈りを終えて近寄ってきた美空にアメは提案した。見ている内に縁起物が欲しくなったのだ。美空にどれがいいか選んでもらうと、月と太陽を象った二種類の根付のどちらかが入っているものだった。浪越神社の紋様から験を担いでいるのだろう。

 お金を入れてそれぞれ引くと、アメのお御籤からは金色の太陽が出てきた。いっぽう美空は銀色の月で、うまいこと分かれた。

「交換するか?」

 なんとなく美空という名前から太陽のほうが合っている気がした。

「いえ、わたし、太陽より月の方が好きだから」

 根付を顔の前に掲げる美空の顔には、アメの勘違いでなければ喜びが滲んでいるように見えた。



 鏨山の展望台への階段を登りながら、アメは汗を拭った。

 自分はまだ大丈夫だが、美空は途中から如実にペースダウンしていた。あとから来た中年女性にも先を譲る始末だ。たまに端で休んで、ペットボトルの飲料で喉を潤した。

「ごめんなさい、わたし遅くて……」

「いや、こっちこそ悪かった。けっこうキツいよな」

 階段を上りはじめて早々に、アメは鏨山は選択ミスだったと悟っていた。はじめて友達と出かけるにしては体力を消耗しすぎる場だ。ここに来て、そういえば小学生のときもそれなりに辛かったのを思い出した。もっと早く思い出せなかったのが悔やまれた。

「よかったら先に」と美空は申し訳なさそうに促してくれたが、そんな厚顔無恥なことはできない。

「ま、ゆっくり行こうぜ」

 アメは美空の背後から気長についていくことにした。


 展望台まで着くと一度息を整えて欄干の前に立った。沈んでいた美空の表情がぱっと明るくなる。誰しも、この絶景を見れば疲れもふっ飛ぶというものだ。

「浪越って本当にいいところ」

 改めて実感のこもった声で言われると嬉しくなる。景色ももちろんだが、喜ぶ美空の姿にもアメは癒されていた。

「あ、医療センターも見える」

「ほんとだ、ばあちゃん元気してっかな」

「そっか……おばあさんが入院しているんです……いるんだね」

「ああ、認知症でな。昔から苦労かけてきたし、見舞いくらいちゃんと行かねーと。そっちはあの山河って先生にカウンセリングっての受けてるのか?」

「うん、すごくいい人だし、やさしいしきれいだし、本当にわたしの担当が山河先生でよかったと思ってる」

 山河のことを相当信頼しているようだ。きれいかどうかはともかくとして、友達になってくれなんてことを頼んでくるほどなので、少なくとも患者を思う気持ちは強いのだろう。


 ふと、突き出た岩場にカップルが立っているのが見えた。風を感じるように手を広げている。

「あそこ行ってみようぜ」

 楽しそうだとアメは美空を牽引した。が、その前まできて立ちどまり、思わず顔をしかめた。

「やっぱやめるか……」

 そそり立つ壁は、美空にはあまりにも危険そうだった。さっきのカップルも、降りるのに少し難儀している。それでも美空は「せっかく来たから」と言ってくれた。


 手すりを伝って、くぼみに頼りにゆっくり登る。途中美空は足を踏み外して、滑り落ちそうになった。「ひゃっ」と悲鳴を上げた彼女を、後ろにいたアメが支えてやった。

「大丈夫か!?」

「あ、ありがとう……」

 やはりやめておいた方がよかったか……と思いつつ、ラッキーでもあった。一瞬からだが密着し、ほのかにいい香りがした。


 なんとか無事登頂すると、足場が狭い分、眺望は一段と広がった。垂直の切り立った岩壁も、ここからならより鮮明に見える。ひとしきり堪能していると、美空が疑問を口にした。

「ここって鏨山っていうんだよね? どういう由来なんだろ?」

「あん? ど、どうなんだろうな……」

 しまった。そういうことを事前に調べておけばかっこうがついたのに。アメが答えあぐねていると、


『鏨っていうのはね――』


 ふいに背後から声がした。二人が驚いてふり返ると、首からカメラを提げた同い年くらいの青年が立っていた。あっけにとられるアメと美空を尻目に、彼は鏨山という名前の由来をつらつらと説明してくれたのだった。これが漣との出会いだった。


「へえ、そうなのか」

 感心するアメに対して、美空は初対面の相手だと臆してしまうのか背後でもじもじとかしこまっていた。

「きみ、もしかして浪越高校の生徒?」

「そうだけど」とアメが答えると「やっぱり」と笑みを浮かべた。

「申し訳ないけど、神崎くんのことは見覚えなかったけど、そちらの彼女さんの方はよく図書室で見かけてたから、そうなんだろうなと思って」

 彼女、という言葉にアメは決まりが悪そうに苦笑した。美空がその後ろで顔を赤くする。

「そういうのじゃねえんだ。ただの友達。ちょっと事情があってさ……」

 さすがに詳しく説明するのも憚られるので言葉を濁すと、「そうなの?」と漣は不思議そうな顔をしていた。


「ま、いいや。急に話しかけてごめんね。それじゃあ楽しんで」

 すると漣は、会話は終了とばかりにカメラをかまえて画角を選定しはじめた。写真部か何かなのだろうか。ともあれせっかく同じ浪越高校の生徒に知り合えたのだ、この機を逃す手はないとアメは考えた。

「もしかして、けっこうこの山に詳しかったりする?」

「まあ、人並みよりは。何度も来てるからね」

「じゃあさ、これもなんかの縁っつーか、よかったら案内してくれないか?」

 普段のアメであればそんなこと頼んでいなかっただろう。だがこのときは美空の手前、少しだけ勇気が出た。「そ、そんな迷惑……」と彼女は焦っていたが、漣は少し逡巡してから「僕でよければ」と言ってくれた。

「ただ、けっこう疲れると思うけど大丈夫?」

「あー、そっか……」自分は問題ないが、美空の脚がもつだろうか。ちらりと彼女を見ると、

「そ、それなら羅漢様はちょっと見ていきたいかも……」

 おそるおそるといった調子で要望を口にした。ロープウェーの駅で、そちらの方まで行けたら行きたいと話していたのだ。それなら、とアメは「できればそんなにキツくないルートで頼む」と漣にお願いしたのだった。


 登るよりより慎重に舳先のような岩場から降りて、漣についてまわった。

 まず漣は、展望台から比較的近い採石場あとの観覧スポットへ案内し、鏨山の採石の歴史を解説してくれた。山中には他にも複数あるということで、おすすめの遺構を紹介してくれたりもした。いいガイドだった。


 次に美空の要望通り仏像の並ぶエリアに来た。薄暗い岩室の中で座禅を組む羅漢を見ると、よくぞこれほどの数をこしらえたものだと感心する。一方で、どうしても不気味さも感じてしまう。

「けっこう首がないのとかあるんだな」

 野ざらしなので苔むしたりするのは仕方ないが、何体かに一つは首がなかった。漣によると、風化もあるが、明治期にあった廃仏毀釈という運動の際に多数壊されてしまったらしい。これでも首が残っていたものは修繕が施されているのだということだった。

「昔の参拝者の中には、あえて首を落とす人もいたみたいだよ。自分の不幸の身代わりになってくれるっていう願かけで」

「マジかよ。逆に不幸になりそうだけどな。なあ?」

「え? あ、うん、そうです――そうだね……」

 美空に共感を求めて問いかけると、彼女は我に返る前に一瞬沈痛そうな表情をしていた気がした。お金が惜しいアメは遠慮したが、彼女はそこでも賽銭を入れて手を合わせていた。


 戻るための体力も考慮して、この日はそこまでで引き返すことにした。それでも山頂駅に着く頃には息が上がっていたが、新鮮な感動が伴った疲れはむしろ心地よさすらあった。

 漣はまだ写真を撮っていきたいというので、そこで別れることとなった。慣れているとはいえ、そのバイタルは驚きだ。


「今日はサンキューな。よかったら学校でも話そうぜ」

 ぜひ、と笑みを浮かべる漣は最初よりも砕けた印象だ。

「他にも浪越でいいところあったら、美空を連れてってやりたいんだけどどっかある?」

 彼の勧めるところなら、信頼できそうだ。

「そうだな……桃源渓谷は行ったことある?」

 いや、と首をふる。候補にはあったが鏨山よりも遠いので除外していた。

「じゃあ行ってみるといいよ。あっちはちょっと街から距離あるけど、この山よりは疲れないはずだ」

 桃源渓谷へは、アメは行った記憶がなかった。美空も同じく行ったことがないというので、決まりだった。

「よし、じゃあ来週はそこだな」

「ら、来週?」


 唐突な決定に、美空が目を丸くしていた。

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