4

 新しい週がはじまり、放課後アメはエントランスのベンチで待ちぼうけていた。緊張に胸が高鳴り、せわしくなく姿勢を変えていた。


 成田美空は山河の話から隣のクラスだと把握していた。休み時間に教室の後ろからこっそりのぞいてみると、都合よく後方の席だった。彼女は通りすがるたび、勉強か読書をしていた。自分と同じで、話す相手などいないので机に張りついているしかないのだ。だが、大概ぼーっとしているか寝ているアメと違って真面目だった。


 予想はしていたが、案の定話しかけられるタイミングなどなかった。それだけで心が折れそうになったが、自分のことだ、まだモチベーションのあるこの日を逃せば明日以降は諦めてしまうだろうことは想像に難くなく、放課後のこの場所に狙いを定めたのだった。

 帰宅部の列に誰かと待ち合わせているふうを装って視線を送る。終礼後、念のため彼女の姿を確認してきたので、すでに帰ってしまったということはないはずだ。当然、部活もやっていないと聞いている。


 しかし、一時間ほど経過しても彼女は現れなかった。

 あとで知ったが、図書室で本を読んでいたらしい。このときはそんなことは露とも思わず、無為な時間が過ぎていった。いつのまにか空は暗い雲で覆われ、ぽつりと手に水滴が当たった。


「ちっ、雨かよ」


 恨めしげに空を睨む。アメは、自分の名前でもある雨が嫌いだった。


 一朗がつけてくれた名前らしいが、初対面の人に名乗ると、だいたいきょとんとした顔をされる。小学生くらいの頃なら、名前をからかわれるのは日常茶飯事だった。


 ――『アメって、空から降ってくる雨なの? 変な名前だね』

 ――『アメくんがいると、雨降ること多いね』

 ――『アメはこなくていいよ。雨降るから』


 小学生らしい遠慮のない言い方だ。実際、苦い記憶はもちろんのこと、比較的楽しかった思い出でも外は灰色に沈んでいた。


 極めつけは、

 ――『アーメアーメふれふれ、母ちゃんが、じゃのめでお迎え嬉しいな。ま、アメには迎えなんてこないか。見たことないもんな。うちの親が、アメの母ちゃんって男の人の方が大事で、きっとアメのことなんかどうでもいいんだって言ってた』

 別に母親のことを言われてむかついたわけじゃない。それまでの鬱憤から、ついに腹に据えかねただけだ。気付けばそいつを殴り倒していた。今でもそれは悪いと思っていないが、考えてみればそれが、学校という場から遠ざかる最初の大きな要因だった。


 祖父のことを恨んでいるわけじゃないので、後ろ暗い回想はふり払った。だが、わだかまった負の感情は連鎖してしまう。

 ――待ってなけりゃ降る前に帰れたんだよな。

 そう思った途端、意志に亀裂が走った。山河の甘言にほだされた自分がバカみたいで惨めで、腹立たしさが一挙に募った。目の前のアスファルトがどんどん真っ黒に染まっていく。雨はまるで酸性のようで、自尊心が溶け出ているようだった。


 ――もうどうでもいいや。ずぶ濡れになる前にとっとと帰ろう。

 諦念が限界を迎えた。一つため息をつき、脚に力を入れたときだった。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 消え入るような声がして、膝の上に影が落ちた。

 首を反らすと成田美空が立っていて、傘を頭上に差してくれていた。

「あ、わりっ」

「ッ……!」

 急な登場に動揺し、アメは何も考えず立ち上がった。その際、傘を頭で突き上げてしまった。驚いた彼女がバランスを崩し、のけ反った。アメは反射的に腕を伸ばし、その手をとろうとした。しかし手首を掴むつもりが、届かず傘を握るその拳を包みこむかたちとなった。

 すぐにぱっと放したが、頭が真っ白になる。彼女も戸惑っておびえるような目を浮かべていた。一瞬気まずい沈黙が降りて、アメは慌てて用意していたセリフをまくしたてた。

「俺のこと憶えってかな? 医療センターで会った――まあ憶えてなくても別にいいけど。で、山河先生だっけ? に成田さんと仲良くしてくんねーかって頼まれたんだ。……だから待ってた。つっても、俺も友達とかいないし、何したらいいのかよくわかんないんだけど、とりあえず考えてたのが、どっか出かけるってことだったんだけど、次の休みとか予定なかったらどうだ?」


 まるでデートの誘いだが、学校で話すのはこちらとしても気が引けるので、このときのアメにはやれることといったら、それくらいしか浮かばなかったのだ。

「山河先生が……? よ、予定はないですけど……」

 よかった。ここで断られていたら、もう別の機会を探る気は起きなかっただろう。

 どこへ行くかはまだ考えあぐねていたので、アメは待ち合わせの場所と時間だけ打ち合わせ(といってもアメの言ったことに彼女が了承するだけだったが)、動きやすい服装とだけ指定した。


「そんじゃ、そんなとこで」

「わ、わかりました……」

 半ば強引だが、アメも精一杯だった。一緒に帰路に就くなんて真似はまだできるはずもなく、先に背を向けてさっさと立ち去る。校門を抜けてからもしばらく早足だった。


 学校から大分離れてようやく息を吐き出した。火照ったからだを雨で冷やす。なんとかなりはしたものの、その前に痛恨のミスを犯してしまった。乱暴なやつだと思われていないといいが……彼女の瞳は不安に揺れていた。早くも後悔が渦巻く。

 それでもアメは、その容貌を改めて認識した。かわいい娘だと思った。手には、やわらかくきめの細かい肌の質感が残っていた。アメは制服が濡れるのもいとわず、家に帰るまで何度も手の平を開閉していた。

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