3

 アメは手続きを一朗に任せ、先に三階のバルコニーへやってきていた。


 ガラス張りの談話スペースは、締めきられた窓からぽかぽかした日差しをとりこんでいた。中央には車椅子のお年寄りたちが集まっている。海を眺めながら日向ぼっこができるということで、院内でも人気の場所なのだ。目的の人物も例外ではなかった。


「ばあちゃん、来たよ」

 背後から声をかけると、真っ白に染まったソバージュの頭がゆっくりとふり向いた。カーディガンの胸元に提げた首飾りの先端が揺れて光った。

「あらあら、こんにちは、わざわざきてくださったのね」

「俺のことわかる?」

「もちろんですとも、ケンゾウさんでしょう?」

「違うよ、アメだよ、アメ」

 ケンゾウとは、かつて家の近所に住んでいて世話になったという土建屋の人らしい。

「ああ、アメ、よく来てくれたねえ」

 よかった。この日はすぐに思い出してくれたようだった。調子は普通だ。


 ここ〝浪越神経医療センター〟は、精神疾患や認知症の患者の診察・療養のための施設で、祖母の絹絵は昨年から入院していた。もの忘れが激しくなったり、夜に外へ出歩いてしまうという典型的な認知症の症状から、一朗がやむなく預け入れる決断を下したのだ。

 幸い治療の甲斐あったのか進行は抑えられているようだが、調子に波があった。顔を見てすぐに自分のことがわかると調子はいい、覚えていなくても教えるとすぐに思い出すときは普通、教えても思い出せないときは悪い、というふうにアメは認識していた。悪い場合は無理に連れ出そうとすると怖がらせてしまうので、毎回それは確認するようにしていた。


 車椅子を押して二人で外を散歩する。庭園ではツツジが顔を出し、駘蕩たる春風に抱かれたタンポポの綿毛が横をすり抜けていった。

「チューリップがきれいね」

 花壇の前を歩いていると絹絵が目を留めた。童謡のようにとりどりのチューリップが見頃を迎えている。

「うちでも球根をもらってきて、お庭に植えたりしていたのよ」

 それを聞き、今の殺風景な庭を思い出してアメは哀しくなった。祖母がまだ正常だったときはさぞ華やかだったのだろう。

「ばあちゃん、寒くないか?」

「大丈夫よ、暑いくらい」

 五月にもなると夏の足音も近づいてきたが、まだ肌寒い日もある。風邪でも引けば重篤な症状につながりかねないので気を遣う。

「ここんとこ夏みたいだもんな。じいちゃんてばもう風鈴出してたぜ。気が早いよな」

「おじいちゃんは夏が好きだからね。楽しいことが多いもの。浪越は海水浴もできるし、大きなお祭もあるから。アメもお友達と行くのが楽しみでしょう」

「あ、ああ……そうだな」

 ちくり、と胸が痛む。高校に入って無事二年にも進級できたが、級友とどこかへ出かけたことなどなかった。


 そういう話になると、いつもアメは自責の念に駆られる。祖母がこうなった理由の一端は、おそらく自分にある。

 中学の頃までアメは都市に住んでいた。まともに学校など行かず、毎夜街に繰り出しては、悪友たちとバカをやった。学校からも来てくれるなと言われる始末だったが、気にしなかった。夜の方がずっと視界がクリアだった。

 父親の顔など知らず、母親も家にいることはほとんどなかった。そのため補導されたりすると、祖父母が浪越からわざわざ来てくれた。にも関わらず、一朗も絹絵も頭を下げるだけでアメに怒ることはなかった。浪越に帰る前にいつも連れていってくれたレストランの味は、今でも憶えている。


 高校に中学時代の自分を知るものはいなかった。反面、まわりの生徒は浪越や近辺の出身で、元から友達だったり顔見知りというのが多かった。そこに入りこむのは、アメには高いハードルだった。学校ではどんな話をすればいいかわからなかったし、どうやら自分はあまり人相がいい方ではなく、下手をすれば怖がらせてしまうという不安もあった。

 社会人になれば否応なしに状況も変わるはずだ、と信じるしかなかった。今はただ、祖母の言葉に合わせる。



「あら、アメと歳の近そうな娘がいるわね」

 散歩を終え、祖母の居室に戻ろうとしているときだった。自動販売機の近くのスペースに、たしかに高校生くらいの女の子がいた。

「アメと同じ学校かしら」

 まさか、と思いつつ、こっそり顔を窺うと、どことなく見たことのある気がした。本当にそうかもしれない。


 女の子は老人男性と対していた。親しい様子はなく、表情に戸惑いがありありと浮かんでいる。ははあ、とアメは状況を理解する。残念ながらまわりに職員はいなさそうだったので、アメは助けてやることにした。祖母の手前、いいかっこうをしたかったのだ。

「公園の近くなんだよ。たしか出て信号を右に……いや左だったかな、床屋があってね、うちはその二軒隣なんだが――」

「ご、ごめんなさい、わかんないです……」

「うちなら俺知ってるよ。ここをまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がるだろ。んで、次の突き当たりを左に行ったところだ」

「ほう、そうだったか」

 どうも、と言って男性は立ち去る。もちろん言ったことはすべて適当だ。その内職員か誰かが見つけてくれるだろう。帰巣本能のようなものなのか、たまに自分の家まで帰るルートを尋ねてくる患者がいるのだ。アメにも経験があったので対処法を心得ていた。

「んじゃ」

 特に女の子と会話する気もなかったのですぐに祖母のもとへ戻ろうとすると、ぼそっと何か言ったのが聞こえ、アメはふり返った。

「え、なんだって?」

 意図せず高圧的な言い方になってしまい、女の子はびくりと震えて慌てて言い直した。

「あ、ありがとう――」

 ございます、まで口は動いていたようだが、小さすぎて聞きとれなかった。

 彼女はセーターの裾をきゅっと握って小刻みに震えていた。助けた側なのに、端から見れば柄の悪い男がからんでいるようだ。いたたまれなくて、アメはぶっきらぼうに「どういたしまして」と早口で言うと、逃げるようにその場をあとにしたのだった。


 その様子を、たまたま陰から見ていた人がいた。



 再び自販機の場所へ戻ってくると、さすがにさっきの娘はいなくなっていてアメは胸を撫で下ろした。小銭を手中で弄びながら、飲み物をどれにしようか考えこむ。

 いつも散歩から戻ったあとは、待っていた一朗に身のまわりのことをまかせ、アメは飲み物を買いに出るのが常だった。飲みきるまで、三人で束の間のほほんとした時間を過ごすのだ。

 暖かくなったとはいえ、祖父母はまだホットのお茶でいいだろう。自分はいつもと同じコーラでいい。そう決めて手を伸ばす。と、寸でのところで突如、横から腕が現れ、あらぬボタンを押した。ガコンと落ちる音が響く。


 とっさにふり向くと、見たこともない私服姿の女性が真横に立っていた。

「どうも、こんにちは。さっきはいいことしたね」

「え……誰っすか? さっきって……」

「急に話しかけてごめんね、唐突で申し訳ないけど、きみにちょっとお願いしたいことがあって。今いいかな?」

 勝手にボタンを押された怒りより困惑が勝り、アメは「はあ……」と間の抜けた返事をした。

 それが心理カウンセラーとしてこの医療センターに勤務していた山河との出会いだった。


「きみがここで助けた女の子がいるだろう? 成田美空さんというんだが、わたしの受け持ちでね。きみと同じ浪越高校の生徒なんだ」

「あ、やっぱそうだったんすね。ってか、なんで俺のこと……」

 山河はアメのことを職員づてに聞いて知っていたらしい。幾度も見舞いに来る内に顔見知りになった看護士がいたので、自分のことを話したことがあった。

「アメくん……でよかったよね? お願いというのは美空さんのことなんだが……結論から言うと、あの娘と友達になってくれないかな?」

「は?」まったく想像だにしなかった申し出にからだが強張った。

 本来こんなことを頼むのはわたしの責務とは言いがたいのだけど、と前置きして、山河はその理由を説明した。


「彼女自身の詳しい事情はさすがに口外できないが、カウンセリングも最近はあまり進展に乏しくてね。精神状態は安定しているけど、成熟がないというか」

 人というのは、他人との関わりを通して心を発展させるものだと山河は言った。学生なら特に交友関係が重要であり、その中で社会に出るための規範を育むのだ。だが肝心のその他人がいなければはじまらない。それも、できれば同世代が望ましい。

「どうしたものかと悩んでいたところ、きみのことを知っていつか話せる機会がないかと思っていたんだ。そしたらなんと、偶然美空さんを助けているところを目撃してね。やはり適任だとピンときたよ」

 まくし立てるような山河の言葉に押されながらも、反対にアメはピンとこない部分があった。

「なんで俺なんすか?」

 たまたま見舞いに訪れていて、たまたま助けただけで、白羽の矢を立てられた理由がわからない。

「きみはおばあさんのお見舞いに熱心にきているようだし、何より――」

 そこでなぜか区切って、山河は一瞬、窺うような素振りをした。


 アメはといえば、聞きながら断る言いわけを探していた。いきなり女子と友達になるなんて荷が重すぎる。


「きみも友達がいないだろう」


 山河があっけらかんと言い放った。

「な……ッ!」

 初対面の人間に気にしていたことの図星を突かれると、胸をえぐられる。二の句を継げずにいると、

「きみたちくらいの歳の子は山ほど見てきたから、それくらいわかるさ。でもその方がいいんだ。似たような立場の相手の方が接しやすいだろうからね。だからお願いだ。ぜひとも頼まれてくれないかな」

 頭を下げられて断れる雰囲気ではなくなってしまった。

 やむなくアメは考えを改める。うまくやれれば渡りに船の依頼ではあった。とはいえ――先ほどの、弱々しく縮こまった彼女の姿を思い出す。ちゃんと友達らしい会話ができるとも思えないが……


「友達っていっても、何すれば?」

「それは自分で考えてほしい」

「んな、投げやりな……」

「私が指示したことをやるだけなんて、そんなものに意味があると思うかい?」

 その代わり山河は、最低限、成田美空に接する際の注意やアドバイスをいくつかくれた。

「私がアメくんに頼んだことを打ち明けるのも問題ないよ。きっかけにこだわる必要はないからね」


 別れ際に山河は硬貨を自販機に投入した。

「お礼の前払いみたいなものだよ。それじゃあ、よろしく頼んだ」

 立ち去ってから、さっき勝手に押された飲み物を取り出す。一番選択肢から除外していた、苦手なブラックコーヒーだった。

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