2
空が赤く染まる頃、アメはトリコットの前に着いていた。
木製の扉には美空がつくったドライフラワーのリースが、文字通り花を添えている。その下には〝準備中″と書かれた札がかかっていた。自分たちのために、今日は営業時間を短縮してくれたのだ。
「お疲れー」と言うアメの声にベルの音が混じる。中では、漣が店内の飾りつけを調整し、幸は繋げたテーブルに食器を準備していた。近所の仕出し屋に発注していたオードブルも届いている。
「やあ、アメくん、こんにちは」
「マスター、今日はどうもっす」
澤井はカウンターの中で閉店後の片づけをしていた。一方で、本日の主賓ともいえる肝心の美空の姿がない。澤井に訊くと「奥にいるよ」とのことだった。ちょうどそのとき、飲み物のボトルを抱えた美空が出てきた。
「あ、アメやっと来た」
遅いよ、と不満を垂れる。彼女とは鏨山を下ったあと、いったん別れていた。アメは所用があって、一度家に帰らなければならなかったのだ。アメは「わりーわりー」と言いながらカバンを慎重に置いて、腕をまくった。
「なんでも手伝うから許してくれ」
「もうだいたい終わってるからいいよ。もうちょっと早く来てくれてたら、手伝ってほしいこといっぱいあったんだけどなー」
美空は嫌味を口にして腰に手を据えた。別れるとき、何しに帰るのかと問う彼女に言葉を濁していたので、ご機嫌斜めなのかもしれない。
「そいつはわるうござんした」
唇を尖らせながらアメは、いつから立場が逆転して尻に敷かれる身となったのだろうか、と考えていた。慕ってくれていた後輩が、いつのまにか自分より立派になっていたような気分だ。
「はいはい、あたしが仕事あげるから夫婦喧嘩はそのへんにして」
呆れながら幸が間に入って、美空からボトルを受け取る。
「ち、違うから!」「そんなんじゃねえ!」
アメと美空の否定の声が被ると、店内がどっと笑いに包まれた。
顔を赤くする二人を、幸はさんざん愛でてから改めて仕事を伝えた。
「まだケーキは取りに行ってないから、アメくん頼める?」
「そういやそうだったな。わかった、行ってくる」
漣と幸と三人でお金を出し合って、ボー・シエルにオーダーメイドのデコレーションケーキを依頼していたのだ。
「ケーキ? わたし聞いてないけど」
「そりゃあ、美空ちゃんはもう少しでいなくなっちゃうんだから、免除だよー」
「そんな・・・・・・悪いよ」
恐縮する美空の声をあとにしてアメはまた外へ出た。ケーキは他ならぬ美空のために用意したものなのだ。あとで知ることになろうが、今は幸がうまくごまかしてくれているだろう。
ボー・シエルに入ると野崎がショーケースの裏に出てきた。相変わらず仏頂面で、はじめて来店した人からは不機嫌なのかと思われそうだが、それが彼のスタンダードだった。
「ケーキできてます?」
言い終わらぬ内に、野崎はショーケースの上にあった紙袋をわざわざ前まで持ってきて、「はいこれ」と丁寧に渡してくれた。愛想はあまりよくないが、客に対しての礼節はちゃんと弁えている人だ。ケーキの入った箱は、この距離なのにちゃんとラッピングも施してくれていた。
礼を言いつつ、アメは野崎の顔を
「よかったら、あとでトリコットに来ません?」
「いや、遠慮しておくよ」
にべなく断られる。
ふむ……一進一退といったところか。昨年末に澤井とコンサートに行っているので、その関係も多少は復調するんじゃないかと期待したが、そんなに変化は感じられなかった。
予想していた反応だったので食い下がることはせず、「じゃ、もし気が向いたら」とだけ告げてアメは立ち去った。
トリコットに戻ると、賓客がひとり増えていた。
「やあ、今夜はお招きどうも」
カウンターの一席に陣取った山河が脚を組んで、ワイングラスを持ち上げた。純喫茶なのにバーみたいになっている。
「もう呑んでるんすね……」
せめて乾杯まで待てなかったものかと、今さらながらその酒豪っぷりに呆れた。
ケーキを幸に渡すと、美空が近づいてきた。
「野崎さん、誘ってみた?」
「ああ……でも遠慮するってさ」
「そっか……」
残念そうに目を伏せるが、こればかりはどうしようもない。二人の関係に踏みこめるほど自分たちはまだ成熟していないし、余計なお節介は迷惑ともなりえる。あとは時間や環境に任せるしかなかった。
全員に飲み物が行き渡ったところで、部長である漣が口を開いた。
「それでは、僭越ながら乾杯の音頭をとらせていただきます」
「堅いな!」
幸の野次も意に介さず漣は続ける。
「本日はお忙しい中、お集まりいただき光栄です。何よりこうしてお店を貸してくださった澤井さん、本当にありがとうございます」
どういたしまして、と澤井が手を上げた。
「我々はこの四月から別々の道を歩みますが、最後にこうして集まれたことを本当に嬉しく思います。イエティ倶楽部は本日のこの活動をもって解散となりますが、また必ずこのメンバーで集まれることを願って――」
漣はそこで一度区切った。フライング気味に美空がグラスを掲げようとしていたが、まだ言うべきことがあるのだ。
「――そしてもう一つ、あと少しで美空さんが海を渡ってしまうということで、送別会も兼ねさせてもらいたいと思います」
「え、そうなの?」
美空は呆気にとられて硬直した。ただの慰労会ではなく、漣が〝活動〟と称したのはそのためだ。
タイミングを見計らってアメが電気を消すと、すでに外も陽が落ちているので真っ暗になる。そこへ幸がケーキを運んだ。ローソクの火が一同を赤く照らす。テーブルに載せると、美空がそれに気付いたようで「あっ」と小さく驚いた。
ケーキには月と太陽を象ったクッキーが載っている。その間のホワイトチョコのプレートにチョコ文字で〝美空 がんばって!〟と書かれていた。
「さ、さ、美空ちゃん、どどーんと消しちゃって!」
幸が盛り立てるように言った。送別会というよりは誕生日会みたいだ。
美空は「いいの?」と視線を一周したが、急かされていることを悟り、ひと思いに吹き消した。拍手の音が暗い店内に響く。
「みんな、ありがとう、わたしなんかのためにこんな……」
照明を戻すと、美空は感極まって目頭を拭っていた。
「泣かないで、美空ちゃんが泣いちゃうとこっちも泣きそうになるから」
幸が美空に抱きついて目を潤ませた。アメも目の奥が熱くなったが、意地でこらえた。ともあれ、サプライズは成功のようで、ほっと胸を撫で下ろす。
澤井は柔和に笑んでその様子を見つめ、山河は「青春だなあ」と呑気にグラスを傾けている。漣はいつも通りマイペースにカメラで撮影していた。
湿った空気を感じているのもなかなか耐えられないものがあったので、
「とりあえず乾杯だけしちまおうぜ」
とアメは漣に仕切り直しを促した。
「そうだね。じゃあ、今度こそ本当に――乾杯!」
『乾杯!』
ケーキはオードブルがある程度はけたあとで切り分けるため、いったん引き下げられた。送別会の企画はまだあるが、しばしテーブルを囲んで談笑する。美空は火を消してから照れくさそうにしていたが、話している内に口数も増えていった。
もりもり料理を口にして腹が膨れたアメは、輪から外れカウンターにもたれて休んでいた。そこへ山河が話しかけてくる。
「きみには感謝しなきゃいけないな」
「なんですか、急に?」
「美空さんのことだよ」
ああ、と納得すると同時にすぐに否定の弁が湧く。それはお互いさまだ。むしろ、今は自分のほうが美空に助けられていることが多い。だが山河に面と向かって礼を言うのはなんとなく癪なので、代わりにアメは尋ねた。
「もうカウンセリングは完全に必要なさそうですか?」
「だと信じたいね。どちらにしろ、向こうへ行ってしまったらできないし……逆に今度はきみの方が必要になったりしてね」
山河はアメの顔を見据えて、にやりと口の端をつり上げた。
「まさか。もし万が一そうなったとしても、山河先生以外の人にしてもらいます」
「お、言うようになったね」
憎まれ口を叩きつつ、そんな本末転倒なことにならないようアメは気を引き締めた。
「ちょっと、そんなとこで休んでないで、アメくんもこっちで教えてよ」
「あん? なんの話だ?」
幸が手招きするが、聞いていなかったのでついていけない。
「二人のなれそめについて」
「はあ?」
美空は頬を染めながらばつが悪そうにしている。
その発端の当事者である山河は、我関せずというように、ワイングラスを傾けていた。
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