第二部

1

 アメ、起きて、アメ――


 自分を呼ぶ声がする。否応なしに現実へ引き戻される。それでも微睡まどろみの誘惑は甘美で、頑なに閉じこもった。



 どしゃぶりの夜だった。

 街灯の明かりも届かない路地裏で、複数人に囲まれていた。顔はぼやけてのっぺらぼうのようなのに、敵意だけは明確に伝わった。四方八方から暴力が襲う。こちらも必死で応戦するが、多勢に無勢、すぐに一方通行となった。


 ――痛い、苦しい。


 胸を打撃されて呼吸すらままならない。その上、鳩尾みぞおちに拳だか膝だかが入って声にならない悲鳴とともに息が洩れた。方向感覚もなくなり、自分が今立っているのか倒れているのかもわからない。

 嵐のような時間は、顔面に岩が当たったような衝撃をもって終わった。火花が散って、場面が切り替わった。

 ゴミ袋の山に埋もれていた。腫れた瞼の間から降りしきる雨が見える。ぼろぼろになった着衣に雨が染みた。いっそ、全身うっ血して火照ったからだを冷やしてくれたらよかったが、無情にも雨は冷たくなかった。それが余計に不快だった。



 ささやかな抵抗は布団を取っ払われてあえなく終わった。

 アメこと神崎(かんざき) 雨(あめ)がようやく薄ら目を開けると、よそ行きのかっこうをした成田(なりた)美空(そら)が呆れた顔で睨んでいた。

「ったく、いつまで経ってもだらしないんだから」

 呆れて腰に手を据える彼女を尻目に、時計を見る。

「なんだ、まだ七時じゃんか。あと一時間くらい寝たって……」

 悪夢にうなされてもなお、季節柄布団が恋しかった。からだの上に引き戻すが「こらっ」とまたすぐに引き剥がされる。アメは肌寒さを逃れるため膝を抱えて、なおも抵抗する。

「春眠暁を覚えず……」

「都合のいいことわざばっかり覚えて……早くやることやって、お墓行かないと一朗さん待たせちゃうよ!」

「そうだった!」

 その言葉はてき面で、アメは飛び起きた。今日は午前中に祖父の一朗と彼岸参りに行くことにしていた。その前にアパートまわりの掃除をしなくてはならないし、夜にはイエティ倶楽部の最後の集まりがあるなど、予定が詰まっていた。


 アメは洗顔と歯磨きをそそくさと済まし、勇んで外へ出ようとする。ドアノブに手をかけたところで、ふと思い直してキッチンをふり返った。トントンという、まな板を叩く子気味いい音が響いている。鼻唄を奏でながら美空が朝食をつくっている。その背中がやけに遠く感じた。


 アパートの庭や共用部の清掃はアメの仕事だった。オーナーであるトリコットの店主・澤井の厚意で、維持管理を務める代わりに家賃を免除してもらっているのだ。先の冬に実家から越してきて以来、任をまっとうしていた。四月からのアメの就職先にもほど近く、願ったりだった。


 だがこの日ばかりは、美空のことを考えて、箒を握る手にも力が入っていなかった。美空が朝食をつくったり、いろいろ面倒を見てくれるようになったのもここに住むようになってからだが、そのありがたさはすぐに身に沁みた。


 そんな彼女はもう少しでいなくなってしまう。否応なしに寂しさが募る。

 掃除を終わらせアパート全体をチェックしてから自分の居室に戻ると、いい匂いが立ちこめていた。見計らっていたように、美空がローテーブルに料理の載った皿を並べていた。そのまま床に胡坐をかくと、「手洗ってきて」と睨まれて注意された。

 食卓には卵焼きや焼き魚、おひたしが並び、冷蔵庫にあった常備菜もセットされていた。最後に美空がご飯とみそ汁を持ってきてくれ、二人でしっかり手を合わせる。


『いただきます』


 料理は、ダシや素材の旨みが活かされていて塩分は控えめ、玉子焼きはアメの好きな甘めの味つけだった。美空の几帳面な性格を反映して、どれも丹精に仕上げられている。


 アメは「うまい!」とストレートに感謝を伝える。毎度のことなので、美空はみそ汁を含みながら微笑むだけだった。

 食器を洗うのはアメの仕事だった。その間に美空がコーヒーを淹れてくれる。出なければならない時間まで、まだ少し余裕があった。着替える前にベッドに腰かけて食後のコーヒーを楽しむ。


「あー、このために生きてるなー」

「山河先生みたいな言い方」

 美空がくすりと笑う。実はちょっと意識してみた。

 美空の淹れてくれるコーヒーは、そんじょそこらのものよりはるかに美味しい。それもそのはず、トリコット仕込みの技術とアメの好みに合わせてブレンドした特別製なのだ。二十歳を過ぎてお酒の味を知っても、きっとこのうまさを超えることはあるまい。


 アメは幸せとともに、その絶妙な苦みと旨みを噛みしめた。



「おっす、じいちゃん準備できてっか?」


 祖父の家に着くとアメは無造作に引き戸を開けた。

 荘重な門構えの邸宅もある地域にあっては、こじんまりした家だ。外見も古びているが、内装はリフォームしていて新しい。広い外構には、すでに手入れされなくなって久しい家庭菜園の畑と灌木があった。


「お邪魔します」と言って框を上がる美空の腕には、お供え用の花束が抱かれていた。


「おう、来たか」


 茶の間に入ると、ちょうど祖父の一朗と出くわした。すでに着替えを済ませ、上着を脇に携えている。美空が軽くお辞儀した。

「おはようございます。お元気そうですね」

「おはよう、元気すぎて困ってるくらいだよ」

 一朗は苦笑して、薄くなった頭頂部を撫でた。


 喜ばしいことだがあまりいい顔をしないのは、妻でありアメの祖母・絹絵のことがあるからだ。それはもうどうしようもないが、アメとしてはようやく高校を卒業し孝行ができる歳になった。まだまだ元気でいてほしいところだった。


「じゃあ行くか。それ俺持つよ」

 アメが一朗の提げていた供物の入った紙袋の紐をとると、「その前に」と美空が口を挟んだ。


 出立前に美空がここへ来るのは、おそらく今日で最後だ。なので、仏壇にも参っていきたいと美空は仏間に向かった。座布団に膝をつくと、手際よくローソクに火を灯し線香を焚く。お鈴を鳴らすと澄んだ音が響き渡った。

「本当に今どき律儀な娘だ。仏壇や墓にちゃんと参る若者なんて減ってきているだろうに」

 マイ数珠を取り出して合掌する美空の後ろで、一朗が耳打ちしてきた。


 実際美空は神仏に対する敬意を疎かにしない性格だった。信心さに加えて、自分や人の弱さを知っているのだ。

「ばあさんによく似ている」

 一朗が懐かしむように言う。

「でもばあちゃんとかの世代って、そういう人多いだろ?」

「そうかもしれんが、ばあさんは特にしっかりしていたと思うぞ。他人よりずっと心をこめとったようにわしには見えた。年に何度も神社やお寺に通っとったしな」

「へえ、そうだったのか」

 それは初耳だった。美空も寺社へ参るのが好きなので、たしかに似ているかもしれない。



 神崎家の墓がある〝竜宮寺〟は、一朗の家から歩いていける距離にあった。

 境内から重厚な門を抜けて墓地に立ち入る。段々になっている墓地の中腹くらいに、神崎家と刻まれた立派な墓があった。数年前に一朗が墓石を入れ替えているため、まだ風化や瑕もなく御影石が光沢を放っている。


 美空が持参した濡れタオルで墓石を拭く間に、アメはまわりの雑草を抜いた。途中、墓石の脇からタンポポが生えているのを見つけたが、それは残しておくことにした。

 花立に花を挿し、線香や供物をセットし終えて、一朗を筆頭に順に合掌を済ませた。美空は誰よりも長く手を合わせていた。


 無言でひとしきり感慨深さに浸ってから「行こうか」と一朗が促した。

 アメと美空がふり向き、眼下の浪越の海と街を臨む。一見の価値がある眺望だ。一朗が先に行ってしまうが、美空がまだ胸に手を置いて立ち竦んでいたので、アメは待ってやった。やがて美空は断ち切るようにまた墓の方を向く。「また来ますね」と呟いたのが聞こえた。


 門の前の石畳まで戻ってくると、アメは一朗を呼びとめた。

「じいちゃん、ちょっと待って。美空、亀岩に乗ってくか?」

「うん、乗ってく!」

 珍しく無邪気な声を出して、美空はお堂に向かった。お盆などはよく子どもが遊んでいて、大人が混じるのはちょっと気が引けるのだが、お彼岸ではそういうことはないようだった。


 アメと美空にとっては思い出深い岩だ。美空は軽快に尻を乗っけると、足をぶらつかせた。彼女の今後の成長にご利益があればいい。それこそ、柱にある『念ずれば花開く』という文言のように。いつだったか、親しくなった住職がその意味を教えてくれたことがあった。


 一朗も近くへ寄ってきた。

「若いもんは身軽でいいな。わしみたいな年寄りはもう上がれん」

「じいちゃんが生まれる前からここにあったんだもんな」

 一朗も幼い頃は訪れた際、よく乗ったりして遊んだという。お寺の建物もこのお堂も新しくなったそうだが、亀岩自体は何も変わらないと以前しんみり語っていた。

「アメも来なよ」

「俺はいいよ」

 美空が手招きするが、一朗の手前、気恥ずかしくて断った。

「じゃあ、わしが久しぶりに乗ってみるか」

「おじいちゃん、どうぞ」

「危ないからよせって」

「だってアメが恥ずかしがってるからー」

「照れくさがっておるな」

 そこまで言われてむっとしたアメは、岩の後ろにまわりこむと、美空を突き落とした。「きゃっ」と美空が驚きながら地面に着地し、代わってアメが飛び乗る。

「ちょっと、ひどい! 最低!」

 美空が不服を前面に抗議するが、かまわずアメは勝ち誇ったように不敵に笑って脚を組んだ。


 カモメの声を背に、三人ははれた食堂の暖簾のれんをくぐった。せっかくなので久しぶりに行こうと前から打ち合わせていたのだ。一朗が「ご無沙汰でした」と入っていくと、

「あらあら、どうもお久しぶりですね。お元気でした?」

 女将さんがにこやかに出むかえてくれた。繁盛店なのであいにく満席だったが、運よくテーブルが一つ空いた。各々が選んだ料理を配膳してくれたあとで、女将さんが声をかけてくれたようで店主が顔を出した。

「よう、いっちゃん、元気そうでよかった」

「おう、忙しいとこ悪いね。てっちゃんに比べたら大したことないけど」

 一朗と店主の哲晴は小中学校が一緒でよくつるんでいたらしい。アメも美空と出会う前から度々訪れていた。互いに近況を報告して、褒め合い謙遜し合う。老いてもそういう相手がいるのは羨ましく、アメと美空は料理に舌鼓を打ちながらしばし耳を傾けていた。


「そういや、美空ちゃんはもうしばらくここに来れなくなるな」

 会話が一段落したようで、一朗が美空に水を向けた。

「おや、浪越離れてしまうんかい?」

「そうなんです、実は――」

 美空がしっかりした口調で説明する。かつてのようなたどたどしさはもうない。

「そりゃあ淋しくなるなあ。それを早く言ってくんなきゃ。こうしちゃいらんめえ、舟でも出してやんなきゃ」

「い、いえ、今日はお気持ちだけでっ!」


 アメと美空が息巻く店主をすぐに留めた。舟とは〝舟盛り〟のことだ。メニューにはない特別製で、一度だけ提供してもらったことがあった。船出を祝おうということなのだろうが、さすがに遠慮する。それにこの日は夜にもちょっとしたご馳走が控えているのだ。

「また美空が帰ってきたときに頼むわ」

 アメが苦笑いしながら断る。今よりも、そのときに浪越の海の幸を堪能できる方がずっといいだろう。「そうかい?」と言って店主は残念そうに引き下がった。

 料理をたいらげたアメと美空は、一朗より一足先にお暇することにした。このあと、夕方までにまだ行きたい場所があった。


 女将さんが外まで見送りに出てくれた。

「また帰ってきたらぜひ寄ってね。そのときまで店やれてるかわかんないけど」

 美空の手をとりながら、女将さんはあながちなことを言って笑った。

「必ず来ます。どうかそのときまでお元気で!」

 発破をかけるように美空は、その手を強く握り返していた。



 腹ごなしに徒歩で浪越神社の前まで来ると、二人はいったん立ちどまる。鳥居の間から境内をのぞくと、複数の参拝客にお宮参りらしき親子もいて多少の賑わいがあった。

「こっちも寄ってくか?」

「今日はいいかな。鏨山に登ってたらいい時間になっちゃうし、浪越神社は行く前にまた改めてちゃんとお参りしにくるよ」

 浪越神社も、特に美空にとってはなじみ深い場所だった。アメとももう何度も参拝しているし、年始には巫女の助勤も経験したほどだ。もともとの性格や神様に対する敬意からも、片手間で参るのは気が引けるのだろう。


 二人は慣れた足取りで山頂駅から階段を上り、展望スペースまでやってきていた。はじめて二人で訪れたときの美空は、山頂までの上りはかなりしんどそうだった。だが今では、息こそ上がっているものの辛そうな様子は微塵もない。

 墓地からも海と街並みは楽しんだが、鏨山からの眺望はまた格別だ。美空は無言でその絶景を見入っていた。ロープウェーに乗ってからというもの、彼女は一言も発することはなかった。心に刻みつけているのだ。思い出が廃れてしまわないように。いつでも瞬時に頭の中に思い描けるように。


 最後に、最上部である舳先のような展望台へ二人で登る。そこでも美空はほとんど身じろぎせず、瞑想するように全身を空気に溶けこませていた。

 頃合いを見計らって「そろそろ降りるか」とアメが声をかけた。でもその前に一つやっておきたいことがあった。

「ちょっとじっとしててくれるか?」

「え、なんで?」

 アメは何も言わずに、美空の背後からその胴にやさしく手をまわした。

「手広げて」

「は、恥ずかしいんだけど・・・・・・」

察した美空が躊躇するが、アメが黙っているとおずおずと両手を横へ伸ばした。実は一度やってみたかったのだ。


 昼下がりの春の陽気のもと、二人はしばし互いの温度を感じていた。

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