14

 アメは倒木を慎重にまたぐと、その先がぬかるみなどになっていないか確認して足を下ろした。倒木といっても丸太のような幹だけが横たわっているだけなら問題ないが、枝葉もしっかり残っていて気を付けなければからだに刺さってしまう危険があった。

 障害物はそれだけじゃなかった。崩れた土砂で埋まっている部分もあったし、アスファルトが陥没してぬた場のようになっている箇所もある。まるで廃道のようだが、この道は二台の対向車が余裕で通り抜けられる幅もあるし、アスファルトもそれほど古いもののようではない。少なくとも道すがらにあったトンネルを通り抜ける前までは、ちゃんと整備されていた。


 アメは例の岬へと向かっていた。目指すは君ヶ浦から見えたあの建物だ。地図を開くと、おそらくここだろうという岬のめどはすぐについた。ところがそこは、建物を表す記号など何もなく空白だった。地図に記載できないような施設なのか、それともできたばかりでまだ載っていないのか……いずれにせよ、行くと決めた以上、未踏の地を行く探検家のような心意気だ。

 道路は理想郷から少し間を隔てて内陸に延びていた。

 もう一つの可能性が浮かんだ。とっくに閉鎖された施設なのでは、ということだ。それなら、道路のこの惨状も理解できる。さんざん幽霊のような影を見てきてなんだが、廃ホテルのようなものなら願い下げだ。

 もう、あの不安を中和してくれていた音楽の恩恵はなく、行く手を阻むような光景に辟易する。それでもアメは、一息つくと太腿をばしっと叩いて己を鼓舞した。この先に何があるのかはわからない。それでも、こんな中途半端なところで引き返してしまえば、あの娘が救われない気がした。


 昨日の夜に山河から電話があった。あの記事に関する報告だった。

『残念だが――』という電話越しの沈んだ声が脳裏に再生される。まず、学校の教員や関係者に知っている人はいなかった。そちらはもうほとんど諦めていたので驚きはなかった。腑に落ちないのはそのあとだ。山河は知り合いにも協力を依頼して、記事の出処を探ってくれたらしい。もし判明すれば光明も見い出せたろうが、結果は芳しくなかった。「世界中の新聞を探しても、同じ記事は見つけられなかった」ということだ。

 落胆よりも悲しみの方が大きかった。はるか異国の地に渡って子どもたちのために尽くした人だ。きっと自分など及びもつかない崇高な精神の持ち主に違いない。そんな人が、まるで世界から弾き出されてしまったように、存在を消してしまった――

 だから、できることなら捜し出してあげたいのだ。今はもう、自分の記憶以上に。君ヶ浦でのことがあってから、時間が経つにつれその思いが強くなっていた。


 再び岩肌にもたれかかった倒木が現れ、アメは今度は前屈みでくぐった。イエティなら、こんな険峻な道でも簡単に乗り越えていけそうだ。

 アメはときおり絵本の内容を思い出しては、疲れを忘れた。子どもとイエティだけが住む夢のような国、そこには秘密が隠されていた。一概に哀しい結末とは言い切れないが、街にあるイエティたちを見る目が少し変わった。自治体がイエティの像を設置したのは、単に浪越を作中に出る楽園のような町にしたいという意図なのではないかとアメは思った。

 では、彼女の方はどうだろう。あの物語のどこに惹きつけられたのか。同じく楽園に憧れたのか、それともイエティの悲哀の裏にあった強さ、あるいは主人公の少年とその母親の親子愛か。

 ふと、頭の中でイエティの姿に変わっていく彼女が像を結んだ。からだじゅうからまっ白な毛が生え、愁いを帯びた表情も覆い隠されていく。誰もその正体を知る人はいない。

 あの写真が撮影されたあとで、彼女はどうなったのだろう。

 休憩がてら歩をとめ、懐から新聞記事を取り出す。写真の中で、彼女と子どもたちの笑顔が弾けている。そこはまさに楽園のようで――

「きみは、イエティになってしまったの?」



 道路は進むごとに森の浸食が増していた。苔で覆われていたり、ヒビの間から野草が突き出ている箇所が多くなっていた。

 一時間以上歩いて、ふと藪の中にフェンスがあるのに気付いた。蔓や木々の枝葉が覆ってしまっているのでわかりにくいが、たしかに金網のフェンスだった。ついにたどり着いたのだ。

 そして入り口らしきゲートが現れた。錬鉄でできた洋風の門の向こうに守衛所があって、さらに先にあの白い建物がかまえていた。門のところにポール看板があって、その名を知る。


〝浪越神経医療センター〟


 途端にアメは脱力した。どうやら廃病院のようだ。やはりそういう施設だったのだ。

 しかし――

 よく見ると、敷地の中は道路とはうって変わって荒れた形跡がなかった。門の先のアスファルトはきれいなもので、葉っぱの一枚すら落ちていない。守衛所の小屋も、人の姿こそないが塗装は古くなかった。

 興味本位でためしに門を押そうとすると、手が届く前にゆっくりと開いていった。まるで迎え入れられているかのように。

 門と病院の棟の間には、広いエントランスに庭園があった。丁寧に剪定せんていされた生垣や常緑樹、整然と花が並んだ花壇が備わっている。噴水なんかもあって、中央の皿から透明な水が噴き出していた。しっかり管理されているのは明白だった。こんな陸の孤島のような場所で、いったい誰が。

 間近に控えた病院は三階建てのようで、奥行きがそれなりにあった。


 庭園を横ぎっていくと、間口に車の送迎スペースと自動ドアが現れる。さすがに自動ドアは通電していないようで前に立っても動かなかった。だが。隙間があったのでそこから指を入れると簡単に押し開けることができた。

 車椅子を横目に玄関ロビーを過ぎると、受付ホールに待合用の連結椅子が置かれていた。廃墟にありがちなラクガキや崩れた壁なんてものはない。荒廃どころか、つい最近まで使われていたような清潔さだ。にも関わらず、やはり人気はなかった。

 延びた廊下に目をやると、照明がないので採光されたフロントよりも薄暗かったが、アメは臆さずに足を向けた。

 とりあえず全体をまわってみようと、リノリウムの床を踏みしめる。館内図を見ずとも、フロアの構造がなんとなくわかった。もしや、自分はこの病院の患者だったのだろうか。

「はあ……はあ……」

 いつのまにか息苦しさを感じていた。進んでいくほどに空気が薄くなっているような気がする。たまらず手すりを掴んだ。恐怖に身が竦んでいた。心霊的なものじゃなく本能的な危機感だ。足が水田の中を歩いているように重い。冷や汗が滴る。

 通路の端には、関係者用の出入り口と思われるガラス扉があった。当然そこからは、外からの光が漏れていなければおかしい。だが、そこにあったのは闇だった。その闇から出でた何かが、ゆっくりと扉を押し開けて中へ入ってくる。とてつもなく恐ろしいものだと直感が告げていた。


 ――見たくない、やめてくれ!


 逃げたくても、金縛りにかかったようにからだがいうことを利かなかった。

 入ってきたのは黒い靄のようなものだった。またたくまにからだを包みこまれる。溺れたように呼吸ができなくなって――手の中に熱を帯びた硬い感触がした。

 はっ、とアメは我に返った。靄はなかった。呼吸も普通にできる。扉は締めきられていて、当たり前に日差しが入っている。

 手を開くと、アメジストがあった。君ヶ浦で見つけてから、お守りのように肌身離さず持ち歩いていたのだ。この日も道中、ずっと握りしめていた。

 緊張も幾分やわらいでいた。とはいえ、これ以上探究してもよいものだろうか。今の恐ろしい妄想が、忘却した自分の記憶によるものなのか、それとも瘴気のようなものに当てられたのかはわからないが、いずれにせよここはよくない場所だ。心のどこかでなおも警鐘が鳴っている。一方、反対に「行け、前に進め」と叱咤する自分もいた。両者がせめぎ合っていた。


 ふと、頬にかすかに風が触れた。

 フロントの方からではない。どこからだろう。少し移動すると階段があって、風は階上から吹き抜けているようだった。

 かすかな風の感触をたよりに三階まで上がった。二階からは患者の病室なのか、一定間隔に扉が並んでいる。確信めいた足取りで病室の前を通り過ぎ、風が入りこんでいる空間へと突き当たった。

 広いラウンジのようなスペースだ。ソファーや丸いハイテーブルが隅の方に設置されていて、なぜか中央は大きく空いている。全面ガラス張りで、換気しているようにすべて開け放たれていた。外にはバルコニーが設えられ、その向こうに海が広がっていた。

 本来なら海を一望して一息つきたいところだ。が、それはできなかった。そんなものよりずっと気になる存在があったからだ。

 バルコニーに人がいた。若い女性だ。若草色のカーディガンに茶色のタイトスカートを身につけている。結った黒髪を風でほんのり揺らしながら、車椅子に腰かけて海を眺めている。その儚げな姿は、絵のように様になっていた。


『やっと、来てくれたわね』


 それほど大きい声ではなかったのに、やけに反響して耳に届いた。ゆったりとして、とても安心するような声音だった。

「どういう……意味ですか?」

 女性はアメの問いには答えなかった。

「見て、あそこにお花が咲いているでしょう?」

 指を差すので、女性の横に立って見下ろすとフェンスの手前の茂みに花があった。萎んでしまっているが、アジサイのようだ。

「かわいそうに、お水が足りないから元気がなくなっちゃって」

 その言葉を聞いて、アメは急激に渇きを覚えた。この記憶がはじまって、ずっと根底にあったものが発現したように。

「海はこんなにもきれいなのにね」

 ずきり、と頭が痛んだ。目の前の穏やかな海が、豹変したように大きく膨らんでいる。一瞬そんな錯覚をした。

 こらえきれず、アメは訊いた。

「あなたは、俺のことを知ってるんですか?」

「ええ、もちろん」

 はじめて目線を合わせた。二十代くらいだろうか、だが一つひとつの所作は見た目以上に大人びている。顔には慈母のような笑みを浮かべていた。

「あなたに謝らなければならないと思っていたの。だから、本当に会えて嬉しいわ」

 ごめんなさい、とたしかな誠意をこめて、女性は上体を前に倒した。

「そ、そんな謝られるようなことなんて……」

 理由がわからずにアメは戸惑った。

「あら、あなたそれ」

 前傾した際に気付いたようで、女性がアメの拳を注視した。

「これが何か?」と、ぱっと手を開いてアメジストを見せた。

「そう……よかった、見つけてくれたのね」

「もしかしてあなたが落としたものですか? なら、お返ししますけど……」

「いいえ、それはもうあなたのものよ。どうか大事にしてあげて……その代わりといってはなんだけど……」

 女性は一度目を伏せると、懇願するようにまた見上げた。

「お願い、もうを解放してあげて」

 すぐに彼女の姿が浮かんだ。その瞬間、アメは悟る。

 逆だったのかもしれない。今まで自分は、彼女の情念のようなものに囚われている気がしていた。だが本当は、彼女を縛っていたのは自分の方なのではないかと。

「教えてください。あの娘は誰なんですか?」

 しかし、女性はまたしても答えなかった。

 アメの手を支えると、指に自分の手を添えて、ゆっくりと再び握らせていく。

「大丈夫、怖れることはないわ。ともに、ずっと見守っているから」

 女性が言い終えた瞬間、アメはあたたかなベールに包まれ、意識が白く霞んだ。同時に、記憶がなだれこんだ。


 忘れてはいけない人、

 忘れられるはずのない人、

 大切な日々、


 すべてを知った。


「まさか……そんなことが……」

 ただ強く拳を握りしめて、アメは呆然と立ちすくんでいた。

 気が付けば、空は曇天に変わっていた。

 女性はもういなかった。アメジストも消えていた。

 風が強く吹いている。凪いでいた海に、白波がうねっていた。


 嵐が来ようとしていた。

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