12

 先導するように、目の前をあの娘が歩いていた。もはや見慣れた背中だ。

 緩い坂を下っていくと、雑木林が途切れ、彼女が消えた代わりに入り江が現れた。一気に視界が明るくなる。アメはイエティ倶楽部の活動をはじめて、もう何度目かわからない歓声を上げた。


 絵に描いたような白い砂浜に、凪いで穏やかなエメラルドグリーンの海が広がっている。広大な砂浜ではなく両端を阻む岩壁が視界に収まるほど限定的な空間だ。さながら南国のプライベートビーチだった。

 そして右手には、浅瀬を隔てて岩壁と隣り合う穴の空いた奇妙な岩があった。これが幸の言っていた〝月見岩〟なのだろう。二股になった岩は洞窟の入り口のようでもあり、青空が穴からのぞける。白砂青松はくしゃせいしょう、頂上部に生えた松の緑もまた、浜辺に彩りを与えていた。

 聖域じみた踏み荒らしてはいけないような調和に、畏怖のようなものすら感じる。それは、この日の朝、思いがけず新たな事実を知ったからでもあった。



 澤井がむせた。ちょうどコーヒーを含んだタイミングで話しかけたため、気管に入ってしまったようだ。ごほごほと咳きこむ澤井に「大丈夫ですか?」とアメはテーブルを拭く手を途中でとめて声をかけた。澤井がそうなふうに取り乱すのを見るのははじめてだった。

「そうか、ついにその存在を知ってしまったか……まあ、いつかは知るだろうとは思っていたが……」

 アメの言葉に対する返答だ。

『今日は君ヶ浦というところに行ってみるつもりです』

 その日行く場所は毎回義務的に伝えていた。今回もなんの気なしにそうしただけだが、返ってきたのは珍しくやけに含みのある反応だった。

「君ヶ浦に何かあるんですか」と訊くと、「もう大丈夫か……」と澤井は自分を納得させるように呟いた。

「実は、その君ヶ浦はアメくんが倒れていた場所なんだよ」

「え? あ、そうだったんですか?」

 それは聞いていた話と違っていた。アメが倒れていた浜辺は、理想郷とはまったく別の場所にある海水浴場とのことだった。

「嘘をついていてすまない……少し時間を置いたほうがいいと思ったんだ。すぐに自分が倒れていた場所に行ってしまうと、もしかしたら心によくない影響もあるんじゃないかと心配でね」

 ばつが悪そうに話す澤井の顔には申し訳なさが滲んでいた。

 自分の身に何が起きたのかわからない以上、もしかしてトラウマのようなことが呼び起こされる可能性もある。それを危惧してのやさしい嘘だと理解できる。

「そうだったんですね……逆にありがとうございます。気を遣っていただいて。でもそれならなおさら行ってみたくなりました」

「うん。アメくんももう大分浪越の生活に慣れたようだし、あとは自分さえよければ行ってみていいと思うよ」



 アメは砂を踏みしめ、波打ち際に近づいた。自分はここに倒れていたらしい。水平線に目をやると、鏨山からも見えた岬の先端がこの場所からも見えることに気付いた。

 砂浜には一つの巨石があった。どことなく亀岩に似ている。ちょうど背もたれにするにはよさそうだったので、アメはその前に体育座りした。ここで海を眺めていれば、何か思い出せるだろうか。

 さざ波に合わせて、しとやかなピアノの旋律が奏でられる。その音色に耳を傾けながら、アメはしばし楽園を独り占めした。


「いいところだろう?」


 ふいに声をかけられ、アメはびくりと震えて首をまわした。いつのまにか漣がいた。

「あ……久しぶり」

 まったく気付かなかった。漣は岩の横にたたずんで、まっすぐ海を眺めていた。

「すごい偶然だね。漣も君ヶ浦のこと知ってたんだ」

「もちろん。ここはなかなか特殊な場所だし、龍海神社と同じくらい好きだから、理想郷に来たときはだいたい立ち寄ってるんだ」

「特殊?」

「入り江っていうのは、見ての通り海岸に空いた穴みたいなものなんだよ。だから、比較的漂着物が多い」

「へえ、そうなんだ……」なら自分もその内の一つだ。

「この前見た龍海神社の御神体覚えてる? あれも実は、かつてここに流れ着いたものなんだ」

 アメは妙に納得した。そう言われて素直に受け入れられる神聖さが、たしかにこの場所にはあるからだ。

 特にこの君ヶ浦は、地形や潮の関係もあって、他の入り江よりも様々なものが流れ着きやすいのだという。海外の工芸品や、まだ日本じゃ珍しかったガラスなどが流れ着いていた記録が残っているそうだ。

「そして……人間の死体なんかもね」

 急に漣がトーンを落として言った。はるか異国に思いを馳せていたのに、アメは一気に現実に引き戻された。

「昔はあったそうだよ。海難事故で命を落としてしまった人とか、近くの断崖から身を投げた人が流れ着くことがね」

 それを聞いた瞬間、ぞわっと肌が粟立った。それは心霊的な恐怖じゃなく、脳裏にある可能性が浮かんだからだ。


「目の前にある穴の空いた岩、あれを――」

「月見岩でしょ?」

 嫌な考えをいったん隅に追いやり、アメが得意げに言った。

「そう。でもそれ以外に、〝輪廻岩りんねいわ〟っていう別名もあるんだ」

 穴の空いた岩を車輪に見立てて巡るサイクル、すなわち輪廻転生を表す。君ヶ浦という現世と常世のはざまにあるから輪廻岩――海で落命した魂が正しく流転するように、という祈りをこめてそう呼ぶものもいるのだということだった。

「ここってもしかして怖い場所なの?」

「他にも多くの逸話や伝説が残ってるから、人によってはそう思うかもね。僕としては、だからこそ興味をそそられるんだけど」

 聞けば聞くほど、よぎった可能性が頭から離れなかった。さっきまでの無垢な晴々しさはなりをひそめ、額には冷や汗が滲んでいた。

「あとは、人魚浜っていう呼び名も――」


 漣はその後も君ヶ浦のことを語ってくれていたが、アメはもうそれどころじゃなかった。

 自分がここに倒れていた理由、それは何か海の事故に遭った、というのならまだいい。でも、もし違ったら? たとえば、自ら崖から……

 だったらいっそ、記憶なんて取り戻さなくてもいいんじゃないか。病院で目が覚めたときの、生まれ変わったような代えがたい喜び、あれはそういうことだったのかもしれない。過去と完全に決別し浪越で生きていく……それは、悪いことだろうか。

「――それ、きれいだね」

 密かに決意を固めていたアメは、漣の言葉で我に返った。その視線はアメが座る横の砂上に注がれていた。多様な貝殻が打ち上げられている中で、一つだけ異質なものがあった。

 半分砂に埋まったそれをつまみ上げる。三センチほどの大きさの紫紺に耀く楕円の宝石だった。たしかな質感があり、陽光を妖しく反射している。

「へえ、こんなのも流れてくるんだな」

「かなり珍しいよ。シーグラスはよくあるけど、そこまでしっかりした宝飾品はなかなか……たぶんそれは『アメジスト』だね」

「ああ、聞いたことある」

 紫水晶、紫石英ともいって、形成される際に不純物が取りこまれて色が変わったものだという。石英は構造や不純物の種類によって、紫意外にも様々な色に変化するらしい。

「けっこう珍しい宝石なの?」

「残念ながら石英はダイヤやルビーと違ってたくさん採れるから、そこまで珍しくはないかな。けどパワーストーンとして人気だし、それは粒も大きくて色も濃いから、本物だとしたらそれなりに価値はあるかもね」

 太陽に透かしてみると、らん、と一際強く耀き、唐突にそれはやってきた。


 ――ぼやけた視界に浪越高校があった。いつも見ている校舎、その教室と連絡通路からの眺め、そしてイエティ倶楽部の部室だった部屋……そこから鏨山へと飛び、険しい階段と雄大な景観、桃源渓谷の清流とさとやま公園の花々、トリコットや市街地もあった。まるで映写機で投影されたような、ノイズ混じりの虚ろな光景が矢継ぎ早に切り替わっていく。すべて自分の訪れた場所だ。


 ――なのに、どこか違和感があった。


 その違和感の正体を掴めぬまま、やがて君ヶ浦へ戻ってきた。だが今このときじゃない。海の中に水着姿のあの娘の背中があった。波しぶきを上げながら楽しげにはしゃいでいる。

 途端に視界が暗転する。夜になったのだ。光が弾けた。星空に大輪の花が咲く。どこか見晴らしのいい場所から打上げ花火を眺めている。かと思えば、今度は目前に火花が散った。手持ち花火をしているらしい。その中に、またしても彼女がいた。その姿だけ、なぜかやけに鮮明だ。火花を前に突き出して笑みを浮かべている。

 他にも二人の男女がいた。そちらは暗さもあってかなり顔がぼやけていたが、一瞬、漣と幸のように見えた。

 やがて蛍火のような心許ない火球が夜闇に浮かんだ。四つの火球はじりじりと拙い火花を放出し、一つずつ消えていく。最後の一つが消えたと同時に、気付けば現在の君ヶ浦へと戻っていた。

 月見岩があった。その穴の中に、あの娘がいた。


 ――もう少し……あと少しで……


 大事なものを手に入れられそうな気がした。それはきっと、胸にぴったり納まる正しいピースな気がして、アメは思わず月見岩に手を伸ばした。だが届かない。胸のつかえが、喉もとで堰きとめられているようだった。

 彼女は、まるで来るなと拒むように悲愴な表情を浮かべていた。

 頬が熱く濡れていた。そこはもう現実だった。彼女の姿は、穴の中の空に同化するように消えていた。


「きみは、誰なんだ」


 切実に、改めて問う。

「大丈夫かい?」

 漣が心配そうに顔をのぞきこんでいた。アメは涙を拭うと、まじまじとその目を見返す。

「漣はここで花火をしたことがある?」

「花火? うーん……何度もここに来ているけど、そんな記憶はないかな」

 見間違いだったのだろうか。何かさっきの映像の中に手かかりがないか模索するも、断片的な情報ばかりでまとまらなかった。

 ふと、それが目に入った。

「あれ? あんなところに建物なんてあったっけ?」

 岬の先端、その上に大きめの白っぽい建物があった。海を隔てているせいか蜃気楼のように浮かんで見えるものの、たしかに実在している。ここへ来たときも鏨山からも、そんなものの存在は認知していなかった。

「僕もあそこまでは行ったことはないなあ。何かの施設みたいだけど」

 場所的には理想郷の向こう側だろうということだった。あの娘と何か関係があるのだろうか。不可解な現象続きに首を捻りながらも、アメはその施設から目を離せなかった。

 気付けば、常に鳴っていた音楽が消えていた。それだけで、あれだけ美しかった空や海がひどく空虚だ。


 ――あの娘に逢いたい。


 強く焦がれる。その思いだけが、いまは心の支えだった。

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