10

 岩肌を削ってつくられた階段を上がっていくと、見はらしのいい丘に出た。海上にぽつんとある浮島は、まわりが淡い水色になっていてそこだけ南国のようだ。

 陸地に目を向けると、切り立った断崖が勇壮な地球の歴史を伝えている。なるほど、漣の言う通り、なかなかのスリルだ。こちらは桃源渓谷の露頭と違って、素人目にはきれいに地層が重なっているようだった。

 

 理想郷の海岸線に切り開かれたトレイルは、適度な高低差があっていいハイキングコースだった。海岸の植生も一風違っておもしろい。トベラやツバキといった低木が多く、森林といっても空が広かった。

 腹いっぱいにうまい空気を堪能して、アメは踵を返した。幸がいるとすればどこだろう。あれから日も経ったことだし、おそらくこちらに移動してきているはずだ。アメはバックパックを背負い直して、断崖沿いを歩きはじめた。

 

 落下でもすれば死は免れないので、慎重に歩きながら時おり崖下をのぞいてみる。幸のあのピンクのテントなら、視界に入れば遠目でもすぐにわかりそうだ。

 何度かそうやっている内、その姿が目に入った。

 あの娘だ。幽霊のような少女。今日は浴衣ではなく、桃源渓谷で見たときと似た恰好だった。

 彼女は、海面とほぼ接する高さの、なだらかな岩場の上をゆっくり踏みしめていた。海は穏やかとはいえ、ときおり波頭が小さく打ち寄せている。もはや理解を超えた存在なのはたしかなのに、そんなところを歩いて大丈夫なのだろうか、とあらぬ心配をする。

 と、まったく別の方向からその胸騒ぎは現実となった。


 「……けて」


 潮風に混じって、かすかに声が聞こえた。


 「……誰か、助けて」


 耳を澄ますと、はっきりと切迫した叫びが耳朶を打った。

「どうしたんですか!?」

 大声で呼びかけると「こっち!」と返答がくる。たまらずアメは駆けだした。

 声をかけ合い、どうにか場所を割り出す。まさか、と冷や汗が浮いた。そこは緩い斜面から海へ落ちこんだ崖だった。声の主はその下にいるようだった。

 膝と手をついてのぞきこむと、そこには幸の姿があった。

「アメくん!?」

 幸はアメを認識すると目を見張ったが、すぐに苦悶の表情に戻る。岩壁に張りついて、なんとかそれ以上落ちないように耐えていた。

 どうすればいい? 手を伸ばしても届く距離じゃなかった。救助を呼ぶべきか。だが、それまで幸が耐えていられるだろうか。せめてロープのようなものでもあれば――

 立ち上がり、焦りともどかしさにアメは自分のからだをまさぐった。すると、手に硬い質感が触れた。これだ、ととっさにアメは閃いた。

「幸、掴まって!」

 アメはすばやくズボンからベルトを外すと、うつ伏せになって限界まで腕を伸ばした。幸との距離は二、三メートルほど。少し手を伸ばしてくれればぎりぎり届くはずだ。

 幸はおそるおそる片手を放すと、ゆっくりと持ち上げた。やがて指先がベルトの先端に触れ、がしっと握った。その瞬間、幸が「きゃっ」という悲鳴を上げると、からだが岩壁から離れた。壁面を欠けた石ころが転がっていく。だが、たしかな重さが伝わってきた。

「掴んだよ!」と幸が声を張り上げた。

 アメは「絶対に放すなよ!」と叫んで渾身の力をこめた。女の子のからだとはいえ正直重い。それでも、火事場の馬鹿力というのか普段ではありえないほどの膂力が出た。そして脚を最大限踏ん張りながら、慎重に立ち上がる。途中からはもう綱引きをしているような気分だった。

 幸の頭が崖の上に表れた。その手が地面をしっかり掴んだのを確認してから、アメはベルトを放した。その瞬間、はてしない疲労が溢れ、倒れこむように地面に尻をついた。



 水筒からマグカップにコーヒーを注ぐと、香りのいい湯気が立ち昇った。幸に渡すと、「あ、いい匂い」と言って口をつけた。深く味わってから、心底安心したように息を吐き出して「おいしい」と発した。

 アメは幸にキャンプ地まで招いてもらっていた。落ちかけていた場所から少し離れたところに崖下へ行ける急峻な階段があり、その先に小さい入り江があった。そこに例のピンクのテントを張っていた。

「いやあ、一時はどうなるかと思ったねえ」

 マグカップを持ったまま脱力して、幸は椅子に深くお尻を沈めた。まるで他人事のような言い方だが、命の危機に瀕したあとではかえって自然な反応なのかもしれない。

 なぜあんな状況になっていたのか聞くと、海にそそり立った岩壁をスケッチしていたところ、風に煽られてスケッチブックが崖下に飛ばされてしまったそうだ。どこまで落ちたのか身を乗り出すと、今度は帽子が落ちそうになって、慌てて掴んだ拍子に滑落してしまったという次第だった。

 よほど肝を冷やしたことだろう。大事にはいたらずに本当によかった。

「勉強はいいけど、ほどほどにね」

「うん、気を付ける」と幸ははじめてしおらしさを見せ、マグカップを両手で包んだ。だがすぐに顔を上げると、「じゃあ、これでチャラってことで」と言って不敵に笑った。

「なんの話?」

「この前の不法侵入のこと」

「まだ根に持ってたのか……」

 もちろん、場を和ませるための方便であり強がりだとわかった。「ならよかった」とアメは肩を竦めて苦笑した。

「でもスケッチブックは失くなっちゃったのか。ご愁傷様・・・・・・」

「もちろん、これから回収しにいくよ」

 てっきり海の藻くずと化してしまったかと思っていたが、落ちかけていたとき下にあるのが見えたらしい。そういえばそうだった。あの娘が歩いているのを見て、立ち入れる岩場があるのを知っていた。幸を助けていて埒外になってしまったが、結局あの娘はどこまで行ったのだろう。あるいは今回も幸のもとまで導いてくれただけなのだろうか。



 波の浸食で平らになった岩場を〝波食台はしょくだい〟というのだと、幸が得意げに教えてくれた。

 コーヒーを飲み終えてひとしきりまったりしてから、スケッチブックを回収しに二人はその波食台へと足を運んでいた。

 ここからだと断崖の地層が側面から間近にはっきりと見てとれ、「すごいな」とアメは感嘆した。堆積した地層が、少しずつ色を変えながら幾重にも折り重なっている。

「見た目は桃源渓谷の方と違うかもしれないけど、実はこの露頭も深い海の底でできたんだよ」

 歩きながら、幸が解説をしてくれた。

 向こうがしんしんと泥だけが溜まってできた層なのに対して、こちらは砂の層が多く混じっているのだそうだ。地震や海底火山などの影響で、浅い海にあった砂が運ばれ、かき混ぜられたためだ。そうなると、こうした壮観な縞模様の地層ができあがるのだという。

「同じ市内なのに、まったく違う地層を見られるなんてすごいな」

「そう! 浪越ってそういう点じゃすごい町なのよ。ちなみに地層とはちょっと違うけど、理想郷にある〝君ヶ浦きみがうら〟っていう入り江に〝月見岩つきみいわ〟っていう洞窟の入口みたいになってる岩があって、それなんか自然の力を感じられておもしろいよ」

 入り江自体もいい場所なので一度は行くべき、と幸が断言した。

 

 出発して十五分ほど歩いただろうか。波食台の上にスケッチブックが見えた。運よく、海水に浸る一歩手前だ。幸が安堵して拾いに近寄る。だが、直後に悲鳴を上げて戻ってきた。

「ちょっ、あたし無理だ! ごめん、アメくん取ってくれる?」

 どうしたんだ、と首を傾げて代わりに近づくと、その理由がわかった。スケッチブックのまわりに、小さいカニやフナムシが這いずっていたのだ。

 ――ははあ、そういうことか。

 アメはあまり抵抗がなかったので、難なく拾い上げ、幸に手渡した。彼女は端っこをつまんで変なものが付着していないか確認した。

「ありがとう、お礼にカニ捕まえて持って帰っていいよ」

「いらないよ、あんな小さいカニ……」

 どんなお礼だと呆れると、幸は「わかってないなあ」と小馬鹿にしたように言った。

「小さくても意外に食材として使えるみたいよ」

 イソガニといって、小さくとも出汁は取れるそうでみそ汁などに使えるのだという。

「でも、網とかバケツもないし……」

「あたしのテントにならあるけど、取ってくる?」

「さすがにそこまでして、欲しくはないかな」

 とはいえ、せっかくの機会なのでアメは磯遊びがてら捕獲を試みてみることにした。

 幸に応援されながらイソガニを追いかけるが、動きがすばやく岩の間にすぐに隠れてしまう。指を挟まれる恐怖もあるので、やはりなんの道具もなしに捕まえるのは難しかった。

 早々に諦めながらも岩の影をのぞくと、干からびたヒトデを見つけた。その瞬間、アメの頭に奸智かんちがはたらいた。

 アメは「捕まえた!」と言って幸を誘き寄せ、ふり返り様にそれを投げつけた。絶叫する彼女を、アメは愉快そうに眺めていた。

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