9

 昼と夜が入れ替わる頃、陽が暮れなずむ空の間から現れた異界に街全体が包まれたようだ。

 祭へ来たのではなく、祭がやってきた。そんなふうにアメには見えた。頭上に整然と並んだ提灯、喧騒と祭り囃子、食べ物のいい匂い。どこか現実が遠い。

 

 祭の会場は鏨山たがねやまにほど近い街道だった。広い通りに出店が隙間なく並び、溢れんばかりの人出だった。熱気と興奮に包まれ、一様に浮き足立っている。

 街道を海の方へ抜けると波止場があり、そこに仮設の休憩スペースがあるらしい。澤井も知人たちとそこで卓を囲うと聞いていた。山河と電車の中で、出店で飲食物を確保しつつ澤井たちと合流することに決めていた。

「油断するとはぐれちゃいそうですね、先生。……あれ、先生?」

 言った側から隣にいたはずの山河の姿がすでになかった。直前まではたしかにいたのに。

 青ざめながら周囲を見渡すと、幸いすぐにその姿を発見する。彼女は手近にあったドリンクを売っている出店で財布を取り出していた。少しして用を足したようで、アメの元まで戻ってくる。手に持ったコップには、泡の立った液体が波々と注がれていた。

「さっそく買ったんですね……はぐれたかと思ってビックリしたじゃないですか」

「ごめんごめん、やっぱりこれがないとはじまらないからね」

 山河はにこやかに謝りながら、待ちきれないといった調子でコップに口をつける。ごくごくと子気味よく喉を鳴らし、一気に半分ほど飲み干した。

「ぷはっ、このために生きてきた!」

 アメはもう何も言うまいと決めた。いっそ清々しい。それが山河にとって日常を洗い流す術なのだ。日々の鬱憤を非日常の中に置いてくる。それが祭の一つの意義なのだろう。だからこそ、これほど人が訪れるのだ。

 山河はビールだけじゃなく、アメにラムネを買ってくれていた。礼を言って受け取り、栓を抜くとシュワシュワと泡が噴き出た。せっかくの祭だ。アメも山河にならって一気に瓶の底を天へと向けた。ビー玉が蓋をした。


 タンタンポンポン タンポンポン

 タンタンポンポン タンポンポン


 鼓の音がしていた。ドンドコという太鼓の音に混じって、耳のうちにいつのまにか聞こえていた。なんだか珍妙な叩き方だが、そのリズムはやけに心地いい。ごった返す出店通りは、ときに身動きも取れないほど窮屈だ。その中で一抹の癒しを与えてくれた。

 ようやく人ごみを抜けると、開けた空間にアメは大きく息を吐いた。鼓の音のおかげで多少緩和したとはいえ、慣れない環境に疲れが押し寄せる。山河も気怠そうに首をまわしていた。

「やっと出られたね。私も人ごみは得意じゃないから疲れたよ」

「先生が言っても説得力ないですけどね……」

 山河はすでに三杯目となるビールに加えて、焼き鳥の串を持っていた。

 休憩所は瓶ビールのケースに板を乗せて座席にしただけの簡素なものだ。それが広い波止場に敷き詰められ、賑わいで溢れている。親しいもの同士で輪を囲んで宴が催されている。酔客の哄笑がひっきりなしに飛び交っている。

 暗くなるにつれて、いっそう熱を帯びているように感じた。この中から澤井の姿を発見するのは、また骨が折れそうだ。それを口にすると、アメの思いに反して山河は楽観的だった。

「なあに、案外すぐ見つかるものだよ」


 はたしてその通りだった。見慣れた人の姿は目につきやすいらしい。すぐ隣には野崎の姿もある。二人は付き合いのあるご近所さんたちと寄り合い、酒を酌み交わしていた。

「おー、アメくん来たか! 山河先生もどうも」

 澤井たちはこちらに気付いて快く迎えてくれた。一様にすでに顔が赤い。飲みはじめてそれなりに経っているようだ。

「ずいぶんいっぱい買ってきたね」

 アメが持っていた二つの大きな袋に澤井が驚いた。中身はすべて出店で買い集めた食料だ。腹が減っていたのもあって、目と鼻を刺激する引力に敵わなかった。それに自分で選んだものばかりじゃない。

「先生が買ってくれたのもありまして」

 山河は若いからいくらでも入るだろうと、次から次へと比較的空いている店に並んだ。ほろ酔いになったせいか財布の紐が緩いようだった。

「それそれは、先生、どうもすいませんねえ」

「いえいえ、アメくんには一日付き合ってもらって若いパワーをもらったので、それくらい安いもんですよ。それより乾杯しましようか」

 アメも促され、ラムネはとっくに飲み干していたので急いで炭酸飲料の蓋を開けた。澤井や野崎も酒の入ったコップを掲げる。


『乾杯!』



 上の空でアメは大人たちの会話に耳を傾けていた。

 普段の仕事の愚痴や悪口陰口が主だったが、こういう場ではすべて笑い話に昇華するようだ。内容はどうあれ、みな自分の仕事をつつがなくこなしているのだ。立派だなあとアメは思う。養ってもらっている現状、そんな大人になれる未来が想像できなかった。みな流れ着いた先でただ生きてきただけなのかもしれないが、それさえ、すごく難しいことのように思えた。

 祭の食べ物は味が濃く油っこいものが多かったが、それゆえにするすると胃に収まった。気付けばあれだけあったパックもほとんどなくなっていた。

 満腹感に浸って膝の上で頬杖をついていると、

「アメくん、大丈夫かい?」

 澤井が気を遣って声をかけてくれた。大丈夫です、と無理やり上体を起こす。

「お腹いっぱいになってぼーっとしてました」

「でもちょっと顔が赤いような気がするね。もしかして酔ったのかな」

 野崎が茶化すと、またどっと笑いが落ちた。アメが自分の頬に触れてみると、たしかに少し熱を帯びていた。心なしかくらくらもする。まさか本当に酔いに当てられたのだろうか。

「さとやま公園でのこともあるし、人ごみにも慣れてないだろうから疲れたんじゃないかな。どこかで夜風にでも当たってきたらどうだい?」

 山河が言い、野崎も「そうだね、大人の話ばかり聞いていてもつまらないだろうから」と後押しした。

「そうですね。じゃあちょっと神社にでも行ってみます」

 どちらにしろお参りしにいかなければ、と思っていたのでちょうどいい機会だった。

御神輿おみこしもやっているはずだから、もし余裕があれば見てくるといいよ」

 浪越大祭の御神輿も他のお祭と同様に、大勢の担ぎ手たちによって盛大に練り歩いているのだということだった。街道の隣の通りから、この港にある御旅所まで来るのだそうだ。せっかくなので気分がよくなればそちらも寄ってみようと決め、撤収するまでは戻ると言い残してアメはその場をあとにしたのだった。



 出店の並ぶ街道からほど近いところに浪越神社はあった。

 市中にあってさすがに龍海神社のように鎮守の杜はない。瓦屋根のついた漆喰の塀で囲われていて、たどっていくと鳥居が現れた。鳥居の横には高くそびえた岩があって、その上に四つ足で立った狛犬がかまえていた。


 ライトアップされた浪越神社は、それは立派なたたずまいだった。思わず立ちどまって「へえ」と息が洩れる。あかを基調とした社殿はなかなか豪奢ごうしゃなつくりだった。黒や金鍍金めっきの意匠が施され、その濃淡がいっそう荘厳さを引き立てている。また、ところどころに月と太陽をそれぞれ象ったような紋様があった。

 庭園を模した池もあり、反り橋が架かっている。橋の中央に立って水面に目を落とすと、暗がりに蠢くものがあった。なんだろうとじっと焦点を合わせると亀だった。彼らは人の喧騒など露とも気にせず、涼しげに泳いでいた。呑気でいいもんだと、アメはしばし放心して亀を見入っていた。

 いつしか酔ったような気分も消え、アメは参拝するため拝殿に立ち寄った。今日は神様をお祀りする日なのだからと、願い事をするのは控え、日頃の感謝だけ伝えることにした。


 顔を上げると、御簾が開いていて中の様子が窺えた。拝殿はそれなりに奥行きがあるようで、神楽も舞えそうな空間だ。気付けば現実の祭り囃子に頭の中から響く楽の音が交差して、なんとも雅な情緒を演出していた。

 拝殿の最奥には丸い鏡がはめこまれている。あれが漣の言っていた御神体なのだろう。

 鏡はまるで月を反射しているように、神々しい白銀の光を放っていた。周囲の華美な装飾と相まって、アメは照魔鏡を連想した。龍海神社の御神体を見たときも感じた異様なオーラに、調伏されるような気持ちになる。アメは引きこまれたように鏡から目を離せなかった。

 不意に、背後に動くものが見えた。

 はっと息を呑む。ありえない。鏡までは距離があって、自分の姿すら辛うじてぼやけて映っているのだ。背後のことなどわかるはずがない。それでも認識したのだ、その存在を。


 ふり返ると、すでに彼女は背を向けていた。アメはもう何も考えずにそのあとを追いかけた。

 今日はお祭らしく浴衣姿だった。夜闇にぼうっと浮かぶ白地の浴衣は、どこか峻拒しゅんきょしているような潔白さがあった。

 鳥居を抜けると、出店のある方へと曲がった。

 不思議だ。普通人ごみの中を歩くと、人をかわして縫うように歩かなければいけないはずなのに、彼女はまっすぐ直進しているようだった。十戒のように彼女の前の人波が割れているように錯覚する。おかげでアメも、他人に迷惑をかけることなくついていけた。

 勢いそのままに、さらに混雑している出店通りに突き進のかと思いきや、彼女はそこはスルーして次の交差点を波止場のほうへ曲がった。そちらに何があるのだろうと思い、すぐに把握する。こちらの道も賑わっていて、はるか先に金色の屋根があった。

 半被はっぴには、さっき神社で見た月の紋様が背中に描かれている。大勢の大人たちがわらわらと群がって、押し合いへし合いながら練り歩いている。近づくほど空気が震え、熱狂が肌で伝わってきた。

 祭り囃子に沛然はいぜんと盛り立てられて、御神輿が上下左右闊達に揺れていた。

 期せずして御神輿を拝むことができたかたちだ。その担ぎ手たちの顔が目に飛びこみ、ぎょっとした。みな一様にほっかむりをして、ひょっとこの面をつけていたのだ。まるで、その本来の役目通り火をおこすがごとく、熱気を生み出していた。

 そんな中でも背後を通り抜けていく彼女のあとに続けるかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。いつのまにかひょっとこたちに囲まれていて、あれよあれよと騒乱に呑まれてしまったのだ。火がついたようにからだが熱くなる。目の前で星が散る。方向感覚を失い、天と地がひっくり返る。さながら、火の中にくべられた焚き木だった。


 どれほどそうされていたのか、我に返るとアメは輪の外に放り出されていた。竜巻に巻きこまれて生還できたような気分だったが、不思議と嫌な感覚じゃなかった。

 アメは自分で頬を張って揺れる視界を治めた。彼女はもうはるか先だった。うって変わって人のほとんどいない空間を歩いている。そこはもう波止場なのだ。先には湾が広がっているはずだった。大きく水を空けられ、アメは慌てて走り出す。だが、まもなくその姿は闇に呑まれるように消えてしまった。

 そこまでたどり着くと、バリケードに遮られた。海への転落防止として全体に設置されているようだ。アメはそれをひょいと跨ぐと、岸壁の下をのぞきこんだ。そこには仄暗い水面が静かに横たわっているだけだった。


「おおい、中に入ったらいかんぞ」

 不意に背後からしゃがれた声がした。どきりとしてふり向くと、恰幅のいいおじさんが見咎めて、バリケードから身を乗り出していた。ひょっとこの面はしていないが、半被を着ているので祭の関係者だとわかる。アメは即座にバリケードの内側に戻り、謝ってから訊いた。

「あの、今ここに女の子が来ませんでした? 白い浴衣を着た」

「女の子? いや、来てねえと思うが……なんだい、彼女と喧嘩でもしたんか?」

「いえ、そういうわけじゃなくて……」

「まさか海に落ちたのか!?」

「いや、すいません! ただの見間違いだと思います。失礼しました」

 おじさんはそれはたいへんだというように声を荒げたので、アメは慌てて否定した。

「だったら幽霊でも見たんかい? ……まあ、見てもおかしくはねえか。なんせこれから送り火だからな」

 そう言っておじさんはがっはっはと笑った。だが、アメはなんのことかわからずきょとんとする。

「なんだ兄ちゃん、この祭はじめてか? 〝灯篭流し〟だよ。神輿が着いたら一斉に灯篭を流すんだ」

 そういえば、街中に貼られていたポスターにそういう文言もあった気がする。

 ちょうどそのとき、後ろから会話する声が聞こえてきた。ふり返ると、ちらほらと人が向かってきていた。休憩所や出店通りから流れてきたようだ。

「おっと、こうしちゃいらんめえ」

 おじさんは、アメに再度バリケードから出ないよう釘を刺して去っていった。

 アメは脱力してバリケードに手をかけた。気が抜けて、しばらくそこから動けなさそうだった。


 そこからさらにぞくぞくと人が押し寄せてきた。そこに先刻までの騒々しさはなく、安穏とした空気に包まれている。熱気と興奮から冷め、みな心地のいい疲れに身をまかせているようだった。

 少しして御神輿が到着したようで、遠くで喝采が上がった。

 湾の方では、舟が何艘か心許ない明かりを照らして進んでいた。やがてぼうっと火が浮かんだ。「おおっ」という小さな歓声が波のように広がったのがわかった。火は一つ二つと分裂するように増えていく。流された灯篭は狐火のように揺らめいて、目が離せないほど幻想的だった。ふと、ひょっとこの姿を思い出す。まるで彼らが紡いだ火のようだ。

 アメの隣では、腰の曲がったお婆ちゃんが一心に合掌していた。その焔に誰かを重ねているのだろうか。そうしている人は少なくなかった。送り火のことはよく知らないが、その一つひとつが、帰りゆく魂の煌めきのようなものなのかもしれない。

 あの娘はこれを見せたかったのだろうか。

 なぜ――

 そんな疑問も灯篭と一緒に流されていく。いつしか祭り囃子は絶え、今にも途切れそうな琴の音色が余韻を運んでくれた。


 うたかたのような調べに夢心地、無心で見入る。

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