6

 川縁かわべりしつらえられた遊歩道をアメは歩いていた。

 青葉を映して翡翠に染まった川面を見下ろしながら清流を感じる。その下では鯉が優雅に泳いでいた。


 アメは浪越と隣町に跨る〝桃源渓谷とうげんけいこく〟へと赴いていた。桃源川という川に沿って形成された渓谷で、温泉も湧出することから観光地になっているのだとこの前、龍海神社からの帰り際れんに教えてもらった。浪越では鏨山に次ぐ景勝地なのだそうだ。

 温泉宿が軒を連ねる道路から少し入るとすぐに桃源川が現れ、アメはしばしハイキングを楽しんでいた。

 涼しげな情景に見入っていると、ふと目の前を何かが横切った。目で追うとトンボだとわかる。塩辛トンボというやつだろうか。陽光にそのからだが青く反射している。


 ――きれいなもんだな。


 川に目を落としていたので気付かなかったが、上空では無数に翔びかっていた。とまっていた一匹も羽ばたき、アメもまた歩を進める。途中ベンチがあってそこで翅を休ませたが、アメが追いつくとまた動き出した。まるで先導しているみたいだ。

 遊歩道は川に沿ってカーブに差しかかり、残念ながらトンボはそのカーブに沿うことなく空に溶けこんでいった。その自由さに羨みと名残惜しさを感じつつ、視線を遊歩道に戻すと目の前に人の背中があった。驚いて一瞬息が詰まる。人の存在にまったく気付いていなかった。

 その人は、ベレー帽を被ってショルダーバッグを提げていた。半袖シャツに足首の出たデニムパンツを穿いている。背中まで伸びた黒髪と、露出した白い手足――学校で見たあの女の子だとすぐにわかった。制服でなくともその後ろ姿ははっきり焼きついていたので、間違いなかった。

「あのときの――」思わず声に出る。

 

 自然とその背を追ってしまう。まるでストーカーだと思いつつ、やめられなかった。声をかけてみようか悩んだが、そのどこか弾んだ足取りは侵してはならないような神聖さがあった。

 やがて遊歩道が途切れると、彼女は砂利の堆積した河原へ下りた。そしてそのまま川へと入っていく。一瞬ぎょっとしたが、すぐに飛び石があるのだとわかった。小気味よく渡っていく彼女にアメもならう。ちょっとしたスリルが、子どもに戻ったみたいで楽しい。

 川を越えて板張りの階段を登り終えると、森の中に広い空間が現れた。

 あの娘はもういなかった。なんとなくそんな気がしていた。

 代わりに、視界の端にあるものが映った。テントだ。鮮やかなピンク色のテントがぽつりとあった。キャンプでもしているのだろう。興味をそそられ、アメはそちらへ近づいた。

 テントの横にパーコレーターの載ったクッカースタンドがあった。コーヒーの香りが鼻をつく。なかなかいい趣味している。

 ふと、テントのジッパーが三分の一ほど開いているのに気付いた。中の様子が窺えるほどではないが、そのわずかな隙間になぜだか強烈に引き寄せられた。中をのぞいてみたくて仕方がない。

 ダメだとわかりながら、強迫じみた衝動に突き動かされアメはジッパーに手をかけた。

 中では天井からランタンが吊り下げられ、床には寝袋が敷かれていた。そのまわりにはノートや難しそうな本が積まれているのと、よれた大きなバックパックが立っていた。化粧ポーチなんかもあって、どうやら主は女性なのだと知れた。だとしたらまずい。いや、男性でも十分まずいのだが。

 すぐに立ち去ろうとして、急に激しい睡魔に襲われた。ここへ来るのに早起きしたのと、疲れが出たのだろうか。子守唄のような儚いメロディが聴こえた。抗いがたい誘惑だった。アメは、その上に倒れこんだ。



 極彩色が視界を覆っていた。太陽が白く透けている。虚ろな意識に夢を見ているのだと思ったが、すぐにそうではないとはっとしてアメは上体を起こした。

 寝てしまった。どこの誰ともわからないテントで。どれほど経ったのだろう。とにかく、主が帰る前に立ち去らなければ。

「あ、不法侵入くん、起きた?」

 テントから頭を出すと声をかけられた。アメはすでに手遅れだったのを悟る。

 険を孕んだ若い女性の声だった。外の明るさに目がくらんだが、その人はアウトドアチェアに座り、マグカップを持っているのがわかった。とっさに「ごめんなさい!」と言って立ち上がると、急激な運動に足がふらつき、卒倒しそうになってしまった。

「大丈夫!? 椅子貸してあげるよ」

「いや、大丈夫、ごめん……」

 いくらなんでも、この状況で椅子を譲ってもらうなんて気が引ける。アメは額を押さえつつなんとか持ちこたえた。すると、「それじゃあ、ちょっと待ってて」と女性が言って、テントの中から何やら取り出して地面に広げた。ストライプ柄のレジャーシートだった。厚意に感謝しつつアメは尻をあずけた。


 光に目が慣れて、ようやくその姿をしっかり捉えられた。茶色く染めた髪を後ろでしばった、歳の近そうな女の子だった。白いバケットハットを被り、探検家みたいなジャケットにキュロットパンツ、レインブーツを履いている。恰好はなかなか本格的なレジャー仕様だが、顔には薄くメイクを施していて都会っ子っぽさもあった。

「もしかして具合悪かった?」

 椅子に座り直して、心配そうな顔を向けてくる。心に魔が差す。そう思ってもらった方が都合いい。だが――

「そういうわけじゃないんだ……こんなところでキャンプしてる人がいるんだなって思ったら興味が湧いて……ちょっとチャック開いてたから気になっちゃって……あ、でも中のものに触ったりはしてないよ!」

 アメは正直に打ち明けた。その場しのぎの嘘で逃げるのは自分が許さなかった。

「じゃあ、やっぱり不法侵入くんじゃん」

 じとっとした目つきで睨まれる。アメが言い返せず身を縮こませていると、彼女は一転してくすりと口元を弛ませた。

「体調が悪かったって言ってた方がよかったのに、素直だね」

「まあね……」

「あたしはゆき。あなたは?」

 アメは軽く自己紹介した。ついでに警戒心を解いてもらうため、記憶喪失のことや浪越の各所をまわることにしたことも包み隠さず話した。

「記憶喪失の人なんてほんとにいるんだ」と幸は驚いたが、すぐにまた訝しげな表情になる。

「ほんと? 素直に喋っちゃったから、やっぱり適当なこと言ってごまかそうとしてるわけじゃないよね?」

「本当だって! ごまかすならもっとまともなこと言うでしょ」

 弁明すると、疑念が拭いきれない様子ながらも納得してくれたようだった。

「ふーん、大変だね」

 抑揚のない言葉はとてもそう思っているようには見えなかったが、変に興味を示されたり心配されるよりはマシだった。

「へえ、喫茶店に住んでるなんて、なんかお洒落だね……あ、それで思い出したけどコーヒー飲む?」

「あ、いや――」断ろうとしたが、返事を聞く前に幸はパーコレーターからコーヒーをカップに注いでしまった。仕方なく、受け取って口を付ける。

「あ、間接キス」

「ぶふっ!」

「残念ながらちゃんと洗ってるから、心配しなくていいよ!」

 アメは咳きこみながら「勘弁してよ」と非難の眼差しを向けた。幸は「ごめんごめん」と謝ったが、その表情はしてやったりといった調子で悪びれていなかった。飲む前から苦い気持ちになりつつ、改めて啜る。

「まずっ」

「ひどっ!」

 決して意趣返しというわけじゃないが、思わず声に出てしまった。毎日澤井の淹れてくれたコーヒーを飲んでいるので、すっかり舌が肥えていたらしい。

「いやごめん、全然飲めるよ」

 慌てて取り繕いもう一口つける。それでも幸は機嫌を損ねてしまったようで、ツンと顔を背けてしまう。

「いいよ、まずいなら別に無理して飲まなくて」

「悪かったよ。おわびにこっちのコーヒーもご馳走させてもらえない?」

「なんだ、コーヒー持ってたんだ」

 澤井が朝つくってくれたアイスコーヒーを、水筒に入れて持ってきていたのだ。

 不服そうにしながらも、渡してくれたマグカップに注いで返すと、値踏みするように見てからこくりと喉を鳴らした。

「ん、おいしっ!」

 幸は目を大きく開いて、まじまじとコーヒーを見つめた。

「あたし、苦いコーヒーってちょっと苦手だけど、これはそんなに苦くないし……へえ、コーヒーってこんなに美味しいんだ」

「なんせプロが淹れたからね」

 自分の功績でもないくせに、アメはふふんと胸を張った。

「悔しいけど、これに比べたら、たしかにあたしのコーヒーなんてまずいわ……」

 溜飲を下げてくれたようで、アメはほっと胸を撫で下ろした。


 落ち着いたところで、アメはなぜここでキャンプしているのか訊いた。

「あたし研究者目指してるんだ。今はそのための修業中」

 いわゆる、フィールドワークというやつだと言いながら、幸はテントからあの大きいバックパックを引っ張り出した。

「ちゃんと道具だって揃ってるんだから」

 言いながら中から取り出して見せてくれる。定規やルーペ、方位磁針にシャベル、ロックピックハンマーなんかもあった。そういえばテントの中に学術的な本があったのを思い出す。彼女の雰囲気の印象にそぐわないと思いながらも、アメは感心した。

「へえ本格的……なんの研究してるの?」

「ここで説明するより、直接見に行くほうが早いかも。実はさっきもそこに行ってたんだ。そんで帰ってきたら、知らない人が寝てたってわけ」

 思い出したように幸は意地の悪い笑みを浮かべた。とはいえ、見ず知らずの男が突然自分の居住スペースに入りこんでいるのは、相当怖いはずだ。「ごめん」と再度アメは頭を垂れた。

「そんなに悪そうな人じゃなくてよかったけどね」

 それはお互い様だった。



 幸とともに、アメは桃源川のみぎわを歩いていた。遊歩道などないので砂や礫を踏みしめるのはなんとも歩きにくい。一方、長靴を履いた幸は慣れているようで、すいすい進んでいく。

 なんとなく男として敗北感を味わっていると、幸が「着いた!」と言ってふり返った。

「ここ?」とアメは辺りを見渡したが、特筆して何かあるようには見えなかった。変わらず浅瀬の川があり、周囲をゆたかな林が覆っている。すぐ横には、剥き出しになった岩壁がそびえているだけだった。

「これだよ、これ!」

 幸が指し示したのは、その岩壁だった。数メートルほどの高さのその岩壁は、上を見ると草木が茂っていて、巨大な力で削り取られたように露出していた。よく見ると、ところどころに拳大の穴が空いている。

「あたしの研究対象は、こういう地層なのよ。地層学とか地質学ってやつね」

 ははあ、とアメは率直に驚いた。テントの中の本に、たしかにそんな字が躍っていたが、実際にこうして連れてこられるまでは半信半疑だった。

「ここみたいに地層が露出した場所のことを〝露頭ろとう〟っていうんだけど、特にこの露頭は学術的にすごい貴重なんだ」

「へえ、地層になってるんだ……よくわからないけど」

 アメの目には、湿って黒ずんだ岩壁にしか見えなかった。地層といえば色の違う土が重なって縞模様になっているイメージだ。

「何から説明したらいいかな……この辺りって大昔は海の底だったの。ここ見てみて」

 幸が川面に向かって屈んだので、アメも隣で膝に手をつく。

「川って底に石とか砂だったり、砂利が溜まってるイメージでしょ? でも桃源川ってそういうのがあんまりなくて、こういうすべすべした茶色い岩盤に覆われてるの」

「そうだね。来たときからなんとなく気付いてたけど」

 それを泥岩層といい、海底で泥が固まってできたものだという。地震や風雨で山から削られた岩が川で運ばれ、流されている内に砂利や砂、さらには泥になって海へ出る。砂利や砂はそのまま河口近くに留まるが、泥は軽いので遠くまで流され、沖合いにゆっくりと積もっていく。そこから、太古はここが深い海の底だったということがわかるのだという。

「他にも根拠はあって、ここに白い模様があるでしょう? これ実は、海の底だったときに棲んでた貝の化石なんだよ」

「へえ、これが」

 幸の指の先には、引っかいたような白い線があった。言われてみればたしかに巻貝のよう形をしている。じっくり川底を観察すると、他にも当時の生き物の這いずった痕や糞などの化石があるらしい。そういうのを〝生痕化石〟といって、現在の海の生き物のものと照らし合わせるとよく似ているのだそうだ。


「これもおもしろんだけど、さっきも言ったけど本当にすごいのがこっちの露頭の方」

 幸は立ち上がると、その露頭に向き直った。

「そもそも地球って、大きな磁石なんだよね」

 たとえば方位磁針で方角がわかるのは、地球が磁石になっていて磁気を帯びているからだ。幸はバックパックから方位磁針を取り出すと、ちょうど針の赤くなっている方が北に向くようからだをくるりと回転させて見せてくれた。

「見ての通り、今は北極がS極で南極がN極になってるでしょ? これって地球が生まれてからずっと変わってないって昔は思われてた。ところが! 実は何度も入れ替わってるの。何十万年っていうスパンで逆になってることがわかってるんだ」

 つまり、北極がN極で南極がS極だった時代もあった、ということだ。

「なんでそんなことが起こるの?」

「それはわからない」

「わからないんかい!」

「あたしが知らないわけじゃなくて、まだ解明されてないんだよ。俗に〝ポールシフト〟ともいうんだけど、もし起こったらどうなるか予想もつかないのよね。ほとんど影響ないかもしれないし、もしかしたら世界がひっくり返るかも」

「何事もないといいね……」

「で、話は戻るけど、この露頭も同じように海底でできたものなんだよ。さっき言ったように泥が降り積もってできたんだけど、その泥には〝磁鉄鉱〟っていう磁石が含まれてる」

 ようは砂鉄のようなイメージだそうだ。

 磁鉄鉱は方位磁針の針のように、そのときのN極の方に向く。つまり、その粒の向きを調べることで、この地層ができた当時、地球の磁気がどっちを向いていたかわかるのだということだった。穴が空いているのは、それを調べるためにサンプルを採取した痕なのだそうだ。

 そこまで聞いて、アメは幸が言わんとしていることがわかってきた。

「そのサンプルを調べた結果、この地層のある部分から地磁気の逆転が起こったことがわかったの!」

「磁鉄鉱の向きが、途中から逆になってるってことか」

「その通り! わかりにくいんだけど、あそこにちょっと白っぽい筋があるのわかる?」

 露頭の上の方、幸が指差す先にたしかに薄っすら白っぽい線があった。

「あの層は火山灰が降り積もってできたものでね、何十万年も前に噴火した火山の痕跡なんだよ」

「じゃあ、その火山灰の層を境に磁気が逆転してるってわけか」

「まあ厳密にはちょっと違うんだけど、とりあえずそういう解釈でいいかな。地質学の世界では、時代の区分の仕方の一つに、地磁気の逆転が起こったときの地層を境にするってことが決まってるの。時代の区分っていうのは、大きいのだと白亜紀とかジュラ紀っていうやつのことね。その中でもさらに細かくたくさんあるんだけど、別々の時代の区分がはっきりわかる地層っていうと、世界でも限られてくるのよ」

 だから、この火山灰層のような目印がある場所は貴重なのだという。


 せっかく海底に流れてきた泥があっても、多くの場合、地震や海底火山などの活動で巻き上げられて、もっと浅いところにあった砂の層などが混ざってしまう。この場所はその混交がほとんどなかったので、地磁気逆転の痕跡が奇跡的にはっきり残ったのだと幸は語った。

「あ、でも、地層が混ざっちゃったのでも、露頭になるとすごい見ごたえあったりするんだけどね。きれいな縞模様になってたりすると、スケッチするのも楽しいし」

 もちろん、話してきたのはすべて本の受け売りだというが、知識を披露する幸の目は、漣と同じように輝いていた。学校とか行っていないのだろうかと思っていたが、その熱意の前では野暮な話だ。

 見た目に反して、彼女は同世代の人間より着実に将来に向かってオールを漕いでいるようで眩しかった。



「あー、癒される」

 脚を伝って上がってきたぬくもりに、アメは脱力した。向かい側に座る幸も、健康的に焼けた脚を伸ばして頬を上気させている。

 温泉街で〝足湯〟の文字を見かけていたので、お礼とおわびを兼ねて幸に入っていかないかと誘ったのだ。料金はアメが負担した。軒先には、こんなところにも雪男がいた。タオルを肩にかけて風呂桶を持った恰好で、その風呂桶が料金箱になっていた。


 屋根と壁の境が吹き抜けになっている檜の小屋は、管理が行き届いているようで清潔だった。湯は黒く濁っていて、ヨード泉というのだと幸が教えてくれた。

 湯煙の中でまったりと息を吐きながら、アメはなぜ幸が地層の研究者になりたいと思ったのか訊いた。なんでも、祖父がその世界では名の知れた地質学者で、遊びに行ったときによく話を聞いていたそうだ。といっても、子どもに難しいことはわからないので、専ら調査で赴いた地のことばかりだった。そこで見た景色や美味しい食べ物、珍しいお土産もいくつももらった。自分もいつか行ってみたいと思ったという。

「じゃあ、旅行に行きたいから研究者になりたいわけか」

「や、あくまでメインは調査だけどね!」

 まあ、きっかけはどんなものだっていいだろう。

 そんな自分でも、成長するにつれ祖父が研究していることのほんの基礎的な部分くらいはわかってきたそうだ。祖父の研究分野の目標は、災害予測だった。地層には、かつて起こった気候変動や地震、その影響の痕跡まで記録されている。日本は自然災害大国なので重要な研究だ。それに、もしポールシフトがまた起こったときにどうなるのか、ということも研究が進めばわかるかもしれない。そうなれば、対策もできるというわけだ。

「なるほど、たしかに誰かがやらないといけない研究だ」

「うん、けど今の予測って、何十年とか何百年以内にっていうのが多いのよ。地層って何万年とか何十万年ていうスケールだから、どうしても短期間の予測って難しいのよね」

 その予測の範囲を狭めることが課題ということだ。たしかに数年くらいならともかく、それ以上になると、備えておくというのはなかなか難しいだろう。

 ぜひともその研究を進めてほしい、と言うと幸は複雑そうな表情を浮かべた。

「お祖父ちゃんの後を継ぐかどうかはわからないけどね」

「そうなの?」

 てっきり、そのつもりなのだと思っていた。

 一口に地質学といっても、さっきの地磁気だったり、ガスや石油のような資源、鉱物や生物、恐竜の化石だって広い意味では地質学の一つなのだという。様々な分野が連動したり共有されてはいるが、研究の目標はどうしても変わってくる。今後の勉強次第では、別のことに興味が湧くかもしれないということだった。

「それ以前に、あたしめちゃくちゃ頭悪いし、ここに来たのも学校から逃げてきただけだしね」

 そもそも研究者になんてなれないかもしれないと、幸は不安は吐露して肩を竦めた。

「いいや、幸ならきっとなれるよ」

 どの分野に進むかは彼女次第だが、少なくとも方向は間違っていないだろう。露頭で説明している表情から、アメはそう断言できると思った。


 他愛ない話をしながら温まり、そろそろ上がろうということになった。

「ああ気持ちよかった。今度来たときは全身浸かれる方の温泉にも入りたいな」

「いいんじゃない? 残念ながらあたしは、多分もう少しで別のところに移るけど」

「そうなの? 次はどこへ?」

「海の方、理想郷って呼ばれてるところがあってね――」

「そこなら知ってる! この前、そこの神社には行ったんだけど、海岸の方には行ってないからまた行きたいと思ってたんだ」

「そうなんだ。じゃあ、そこで会うかもね。あたしは会いたくないけど」

「急に突き放すな!?」

 冗談、と幸はくすくす笑った。

「でもまたあたしのテントで寝ないでよ? ……まあでも、コーヒーくれたら許すかもしれないけど」

「そんなんでいいの? ……いや別に幸のテントではもう寝ないけど!」

 断固否定しつつ、また澤井に頼もうと心に決める。

 ふと足先に目を落とすと、黒く濁った湯がコーヒーのように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る