5
目の前に現れたトンネルに、アメは思わず立ちすくんだ。
車道にはなっておらず、人二人分の高さもない手狭なものだ。周囲には羊歯が這っていて、中は岩肌がむき出しになっている。トンネルというよりは〝
「雰囲気あるなあ」
「これくらい雰囲気がないとね。なんせ、このトンネルは『理想郷』の入口だから」
「理想郷?」
アメの疑問には答えず、漣は先に入っていってしまった。アメがあとに続くと、冷気に身を包まれた。薄闇に反響した足音が鼓膜を揺らす。
「都会じゃもう素掘りのトンネルなんてなかなかお目にかかれないだろうから、田舎に住むものの特権だよね」
「素掘り? ……ああ、手で掘ったってことか」
いったいどれほどの時間と労力が割かれたのだろう。鏨山といい、先人の苦労に平伏する。
隧道を抜けると鬱蒼とした木々から木漏れ日が降り注いでいた。
「ようこそ理想郷へ」
ふり返り様に漣が両手を軽く広げて言った。
「さっきも言ってたけど、ここ理想郷っていわれてるの?」
「そう。浪越は、昭和のはじめくらいまでは今よりもずっと賑わっていたんだよ。漁業は昔から盛んだったし、鏨山の採石場があったっていうのもあるんだろうね。東京から来る人も多かったから、この辺りを別荘地として開発する計画があったんだよ。理想郷なんて大層な名前を付けてね」
その方が人が集まると思ったのだろうと漣は言った。たしかに理想郷なんていわれると、大仰だが興味は惹きそうだ。
「どう? さっきまでと何か変わった感じがしない?」
「言われてみれば……」
空気の質が少し変化したような気もする。
「あ、じゃあ、もしかしてわかる人なのかな? 実は理想郷を心霊スポットとして捉えてる人もいるんだ。っていっても、一部の人だけで別にそこまで有名ってわけじゃないけど」
「ええっ……」とアメは若干引きつつ、しかし心当たりがないわけじゃなかった。あの女の子だ。やはり、いつのまにかそういった感覚に目覚めてしまったのだろうか。
「トンネルは境界でもあるからね。あの世とこの世、彼岸と此岸、別々の世界を繋げる」
言いながら漣は手の平を突き合わせた。
「怖いこと言うな……」
アメが怯えるのをひとしきりおもしろがって、彼は「ごめんごめん」と謝った。
「多分だけど、浪越の海は、沖合いに出るとすぐに水深がかなり深くなるんだ。深海ってのは冷たい世界だから、その冷気が上がってきて潮風が運んでくれる。だから浪越は比較的涼しい気候なんだけど、特にこの辺は海が近いせいかそれが顕著なのかも」
漣が種明かしをした。
「へえ、じゃあ夏は居心地よさそうだね」
それが理想郷と名づけられた所以でもあるのだろう。
理想郷は海の方へ行くと切り立った断崖を拝むことができ、知る人ぞ知る観光スポットなのだそうだ。
「東尋坊ほどじゃないけれど、崖の上から海を見下ろすのはなかなかスリルあって楽しいよ。いつか行ってみたらいい」
今回の目的はそちらではないらしかった。数分ほど歩くと、横手に畑があった。里山のようなのどかな風情だ。思わず立ちずさんで深呼吸したくなるような衝動に駆られていると、
「神社はこの中だよ」
漣がノックするように横の空間を叩いた。畑から舗道を挟んで青々とした林が囲んでいる。青葉の密度が濃く、中の様子はまったく窺えない。
「『鎮守の
「ああ、たしかにそういうイメージある」
林をまわりこんでいくと灰白色の鳥居が現れた。自然の中に急に人工物が現れるとなんだか不思議な感覚に陥る。
鳥居の上部には名前の描かれた表札が掲げられていた。
「なんて読むの?」
「
先導する漣の背後で、アメは鳥居をくぐる前に一礼した。作法をからだが憶えていた。参道の端を歩いていくと両側に灯籠が並んでいて、そこを抜けると二の鳥居と狛犬が出迎えてくれた。全体的に人工物はまだきれいで、厳かな雰囲気の割に古めかしさはさほどない。
境内では中央に木造の社殿がそびえ、
「おおー、まさしく神社って感じだな」
境内は神秘的なベールに包まれていた。照りつける陽光も溢れんばかりの枝葉に阻まれ、社殿の上だけ空が抜けているほかは、どこを見上げてもあまり眩しくはない。そのせいで境内は薄暗く、威厳があった。
「もともと神社ってのは神秘性を高めるために薄暗くなるよう植生を手入れしている場合が多いんだけど、ここは何百年もかけて自然に木々が入れ替わったんだ。ここまで緑に覆われている神社ってなかなかないと思うよ。自然が生み出したアートとすらいえる」
誇らしげに漣が述懐した。
龍海神社のこのような林を『
一口に樹と言ってもそこには様々な区分がある。その中で、陽光をいっぱい浴びないと成長できない〝陽樹〟と、少ない陽光でも育つことのできる〝陰樹〟という区分けがあるそうだ。成長が早いのは陽樹のほうで、陽光を浴びるためにぐんぐん伸びていく。しかし一方で、陰樹も負けているわけじゃない。陽樹の下で少しずつ育っていくのだ。陽樹は成長が早い分、外部からの影響で枯れたり倒れたりしやすいというデメリットもある。そうして生涯を終えていくと、待ちわびたように陰樹がとって替わって繁栄する。ひとたびそうなれば、再び陽樹がそこで生育するのは難しい。陰樹に陽光を遮られてしまうからだ。そうして陰樹が繁栄を極めた森林を〝極相に達した〟といって、しばらくその時代が続くのだという。
「でも、またいつか陽樹が繁栄する時代も来るのかな?」
「もちろん、環境の変化や災害でもあれば、今のこの木々もなくなって、生え変わる可能性はあるよ。自然のサイクルだね。ただ、長い間人の手が入ってない森林は珍しいから、結果的にこういう場所が貴重になる」
杉や檜のような利便性の高い樹木もいまや欠かすことはできない。しかし一方で、こういったありのままの植生を意識するのも必要なのだと漣は言う。
いわば、一味も二味も違う森林浴だ。パワースポットというのも頷ける。
せっかくだからお参りしていこうと漣が言い、社殿に面と向かった。賽銭箱に小銭を投げこみ、二礼二拍――何をお願いしようかと迷い、すぐに結論が出る。
――記憶が戻りますように。
最後に一礼を済ませてから、アメは改めて社殿の奥に目を配った。
社殿の板戸は開いていて、奥の台座の上で何かが蠢いていた。もちろん、それは錯覚だ。だが本当に、まわりの空気がぬらぬらと陽炎みたいに揺れ動き、妖しいオーラを放っているように見えたのだ。それは曲がりくねった太い枝の一部のようだった。中もまた薄暗いのに、不思議と形がはっきりわかった。
「あれって……?」
「御神体だよ、この神社の」
その正体は流木らしい。近くの浜辺に打ち上げられていたものを、御神体として祀ったのだそうだ。
「日本は八百万信仰だからね、万物に神が宿ると考えられた。木とか岩とか、この鎮守の杜みたいな領域そのものを御神体として祀っている場合もあったりする。でもまあ、一番多いのは『鏡』だろうけど。浪越神社は鏡だよ」
浪越神社は、港の近くにある町で一番大きな神社らしい。年に一度盛大なお祭が開催されているのだと、以前澤井から聞いたことがあった。
鏡が御神体として多い理由は諸説あるそうだが、三種の神器の一つに〝八咫鏡〟がある。太陽を象徴するので、その前に立つ者は本来の曇りなき姿でお参りできる、というのが
「なるほど、じゃあここは太陽が隠れてるから鏡を御神体にはしなかったのか」
アメが思ったことを口にすると、「おもしろい考え方をするね」と漣が目を見張った。
「その発想はなかった。でも残念ながらたまたまだと思うよ。龍海神社の歴史は、この極相林が形成されはじめた時期より古いんだ。それに御神体を流木にしたのもちゃんと意味がある。昔は、海の向こうには『
そもそも龍海神社は〝
手水舎に龍の蛇口を配する神社は多いそうだが、龍海神社では賽銭箱の手前にある甕にも龍が意匠されていた。石でできた大きな甕は、青々とした苔に覆われていてやけに存在感がある。社殿の屋根と龍海神社と描かれた額の間にも複雑そうな木の彫刻装飾があって、そこにも龍が踊っていた。それらのことを意識すると、御神体の流木もどことなく龍の形に見えてきた。
「港町だから、やっぱそういうのが大切なんだな」
「そう。さらに言うと、綿津見は七福神の豊漁の神である『ゑびす様』とも同一視されてたりする」
「ああ、じゃああの銅像ってゑびす様だったのか」
アメはさっき見かけた銅像の方に目をやりながら言った。
「ああ、あの像は大黒様――大黒天だよ。ゑびすは鯛を抱えている場合が多いけど、あれは米俵に乗って福袋を担いでいるだろう?」
大黒天は豊穣をもたらしてくれるといわれる神であるため、ゑびすとともに祀ることで双方のご利益を賜ろうとしたのだそうだ。そういった考えは別に珍しいものじゃなく、たとえば同じ七福神の中だと、ともに健康長寿にご利益があるという〝寿老人〟と〝福禄寿〟も一緒に祀られることがあるという。
アメは鳥居の外にあった畑を思い出した。漁業の町とはいえ、田畑も疎かにしては、社会は成り立たない。そう考えると理解できる気がした。悪い言い方かもしれないが、様々なことをこじつけて多くの縁起を担ごうとしたのだろう。多くの神社は主祭神を祀る本社の他に、摂社・末社という別の神様のお社を持っているそうで、この龍海神社にも稲荷や八坂神社の祠もあった。
「ちなみに、ゑびすは寄り神ともいって、浜辺に打ち上げらたものに宿っているとも考えられていたんだ。漂着物信仰を体現する存在っていうと、流木を御神体にしてるのも頷けるんじゃないかな」
「おいしい海の幸にありつけるのは、昔からそうやってちゃんとお祀りしてきたからなんだろうね」
鏨山の山頂で出会ったときは変な人かと思ったが、会話を重ねていく内に漣はいきいきとした表情を浮かべるようになっていった。自分の好きなことを語るのが楽しくしてしょうがないという調子に、アメも自然と笑みがこぼれることが多くなっていた。
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