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 ひい、という小さい悲鳴が隣から聞こえた。ワンピースの中年女性がハンカチで汗を拭いながら、苦渋の表情を浮かべている。

 音をあげたい気分なのはアメも同じだった。口にこそ出さないが、すでに脚に疲労が蓄積して息が上がっていた。


 はれた食道を出たアメは予定通り鏨山を訪れていた。

 漁港からほど近い距離にある鏨山たがねやまは、浪越を代表する観光スポットらしい。展望台からは海と山麓、浪越の街を一望でき、ハイキングにも最適とあって町の内外から観光客が絶えないという。

 

 ロープウェーで山頂駅まで一直線、そこから展望台までは階段を上る必要があった。生い茂る木々が囲む石段はなかなか急だったが、登頂への意欲を高めてくれて軽快なスタートを切った。だが数分も経つとまだ続くのかとへばる心が占拠し、重くなった足を懸命に上げている自分がいた。

それでもアメには支えがあった。テンポのいい曲が脚を鼓舞してくれ、なんとか山頂へと登り詰めることができた。

 展望スペースは思っていたより広く、なだらかな丘陵が欄干で囲まれていた。こんなところにも雪男が、まるで登頂を喜んでくれるようにバンザイのかっこうで立っていた。

 欄干から半身を乗り出して風を感じる。火照ったからだにはそれだけで心地よく、疲れも目の前の絶景に一瞬で吹き飛んだ。

 濃緑が広大な裾野を描いている。海は水平線でぼやけ、白く霞んだ空と交わっていた。浪越の町も一望でき、トリコットはあの辺だろうかと想像する。港から海水浴場となっているビーチをたどり、その向こうに目をやると削られた断崖があった。さらに先には岬が突き出ている。

 三六〇度の大パノラマだ。ここのところずっと天気はよかったが、この日ほどそれを感謝したことはなかった。


 展望スペースの向こう側に、突き出た岩場が見えた。どうやらそこが最高地点らしい。近づいてみると、急傾斜が立ちはだかり思わず息を呑んだ。階段はなく、手すりを頼りに登るようだった。滑落でもすれば怪我は免れないだろう。それでも、臆するなと自分に発破をかけ、アメは足をかけた。

 途中、足を滑らせて真っ逆さま――という妄想に襲われヒヤリとした。

 無事登りきると、狭い岩場が欄干で三角に縁取られていた。思っていた通り一番の特等席だ。そのスリルと全能感にも似た気分が心を沸かせた。視覚だけじゃなく耳や鼻でも堪能する。風が運ぶ木々のざわめき、潮が入り混じった複雑な匂い。

 まわりに人がいないのをいいことに、両手を広げて解放感に浸った。「クァッ」と意図せず変な声が出た。気にしない。果てしない世界に自分ひとり、失くした記憶なんて小さい。


『タイタニックごっこは二人でやるものだよ』


 背後から声がしてぎょっとした。即座にふり返ると、いつのまに来ていたのか、青年の姿があった。変な声を聞かれていたんじゃないかと思うと、途端に気恥ずかしさがこみ上げた。

「た、タイタニックごっこ?」

「この場所、船の先端みたいだから、よくカップルが手を広げてやっているんだよ」

「へえ……」

 言われてみればたしかに舳先のように見えなくもない。映画を見た記憶はなかったが、かの有名なシーンくらいはさすがに知っていた。

「もちろん、ひとりでやるのも構わないけどね」

 にやりと笑って彼はアメの横に立った。

 よく見ると歳の近そうな人だ。髪をぼさっと無造作に伸ばしていて、どこか飄逸とした雰囲気を放っている。ひょろりとした体躯に、アメと同じくマウンテンパーカーを着て、バックパックを背負っていた。

 胸元には、タンブラーみたいなレンズのついた一眼カメラを提げていた。それを顔の前に構えて、シャッターを切っている。その合間に「観光?」とさりげなく問いかけられた。

「いや、浪越に住んでる。ちょっと前に事情があって暮らすことになってね。ここへも今日はじめて来たんだ」

「ふうん……いいところだろう、浪越は」

「ああ、ほんとに。この眺めを見て改めてそう思ったよ。きみも浪越の人?」

「まあね」

「俺、鏨山登るのはじめてなんだけど、きみも?」

「まさか。もう何度目かわからないよ」

「そんなに!?」

 一瞬驚いたアメだったが、たしかにこの絶景なら何度も見たくなる気持ちはわかった。

「よければ案内しようか? この山の魅力は、この景色だけじゃないから」

「いいの? ぜひお願いするよ」



 れんと名乗った彼は、鏨山を案内する道中、様々なことを教えてくれた。

 鏨というのは、金属を加工するときに使う〝のみ〟のような道具のことらしい。それによって刻まれた、曲げたり折ったりするための痕のことも同じように言うのだそうだ。この山の正式名は別にあるが、採石された跡がその鏨で彫ったように見えたことから、いつしか鏨山という名前が定着したのだという。

「採石は江戸時代にはじまって昭和まで続いたそうだよ。良質な石材が採れるってことで重宝されてたらしい。石切場は山の中に大小いくつもあって、一部には産業遺構として当時使ってた機械が残されてるところもあるんだ。大自然を感じられる一方で、人の営みの歴史も垣間見れる。僕からすれば一石二鳥なんだ、この鏨山は」

 相変わらずカメラを向けながらだが、漣はどこか楽しそうに説明してくれた。浪越は現在では漁業の町だが、かつては鉱業の町としての恩恵も賜っていたようだ。

 連れてこられたのは、ほぼ垂直に切り取られた石切り場の跡だった。頭上高くまで平行な岩壁が続いている。断面は、遠目では凹凸もほぼなくなめらかに切り取られていた。

「ここはまさに、鏨山って名前に相応しいスポットだよ。道具でつけた痕みたいにきれいだろう?」

「本当だね。しかも今みたいに機械がまだない時代なんだよね? 昔の人ってすごいな」

「まあね。でもエジプトのピラミッドだってあれだけの岩を切り出して積み重ねたんだから、時代に関係なく人間の技術ってすごいものだよ」


 緩い石段を下っていくと、今度は仏像が鎮座するエリアにたどり着いた。

 岩壁の洞に、石製の羅漢仏像が数えきれないほど並んでいた。それが何カ所もあって、全体でみると相当な数にのぼるようだった。立っているものや座っているもの、表情やポーズもまちまちだ。どれもまだ保存状態は良好で淡い光沢を放っている。

「鏨山は採石場として拓かれる前からお寺があって、修験者が修行する霊場としても知られていたんだ。その威光を今世まで伝えてくれているわけだね。浪越は海の町だから、今じゃ海難事故や災害の慰霊・息災の祈願もされているようだよ」

 アメはじっくりと仏像を眺めてみた。これだけあっても、不気味さより崇高さが勝っている。

「仏像のご尊顔は一つとして同じものがないらしいから、もし自分と似た顔のものを見つけることができたら、それに拝むと自分に降りかかる災いの身代わりになってくれるって言い伝えもあるよ」

 そうは言われても、この中から自分と似た顔のものを探すのは骨が折れそうだ。というか正直、違いはあまりわからない。漣のように何度も訪れていれば、いずれ見つけられるのだろうか。


 歩いていると、仏像は寄り集まっているだけじゃなく、一体だけ離れてぽつんと小さなくぼみの上に置かれているものもあるのに気付いた。ふと親近感が湧いた。もし自分と似ているとしたら、きっとああいうものだ。アメはその仏像に手を合わせた。

「ありがとう、いい勉強になったよ。めちゃくちゃ疲れたけど」

 山頂駅まで戻ってくると、アメは膝を震わせながら礼を言った。

「どういたしまして。脚は大丈夫そうかい?」

「明日もしかしたら動けないかも……」

 鏨山の散策コースはアップダウンが激しく、完全に脚が棒と化していた。

「でも嫌な疲れじゃないだろう?」

「もちろん。いい運動にもなったし、楽しかった」

 もし明日筋肉痛に苛まれたとしても、きっとその痛みは今日見た景色を思い起こさせてもくれるだろう。

「ところで、アメくんて神社とかお寺が好きだったりする?」

「え? うーん……どうだろ。どうして?」

「なんだか熱心に仏像を見ていたから、もしかしてそうなのかなと思って」

 言われて思い当たる。仏像を見ていると、その威光にやすらぎ、意識せずとも合掌したくなるような心境になっていた。もともと信心深い性格だったのだろうか。

「そうなんだろうな、きっと」

「なら、もしよければ、次の休みにとある場所に一緒に行かないかい? 鏨山もいいけど、個人的に気に入ってるパワースポットがあるんだ。

「それって、もしかしてまた山登る?」

「いいや。あっても緩い坂くらいかな」

 それなら願ってもない申し出だ。


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