3
全身が沸騰したように熱い。頭は重く、ベッドの上で倦怠感に苛まされている。意識の境界も曖昧だった。
雨が降っていた。しとしとと水滴が地面を打ちつける音が聴こえる。でもそれは外からではなかった。窓の外は晴れているようで、白い光が漏れ、レースのカーテンがほんのり風に揺れている。
それは鍵盤からだった。部屋の中央にあるグランドピアノの前に女性が腰かけていた。背中に垂れた艶やかな髪が、小刻みに動いている。
虚ろな視界の中で、その人はまるで絵画のようだった。雨音は、他ならぬその女性の指から生まれていた。
爽やかに運指されて奏でられた曲は、たしかな静謐を伴った雨のようだった。その雨はこの苦悶を押し流してくれるようで、心がほどけていくのを感じた。
ただ心地よく、ずっとこの雨の中にいたいと思った。
アメが目を覚ますと、かぐわしい香りが鼻をついた。
澤井がコーヒーを淹れていた。こちらが起きたことに気付いて「おはよう」と声をかけてくれる。
「すいません、寝ちゃってましたね」
開店準備を手伝っていたあとで、カウンターでコーヒーを飲みながらまったりしていたはずだが、いつのまにか眠ってしまったらしい。
「かまわないよ。それよりコーヒー淹れなおすかい?」
すっかり冷めてしまったコーヒーを見下ろしながら澤井が言ってくれたが、申し訳ないので断った。
「夢を見てました」
「どんな夢だい?」
「それが憶えてないんですよね。なんとなく、いい夢だった気はするんですけど」
「それはよかった」
「よかった……ですか?」
予想外の言葉にアメは面食らう。
「夢は心地いいほど、覚めなければよかったと名残惜しくなるからね」
「それはそうかもしれないですけど……」
もしかすると失った記憶の破片かもしれないのだ。ただの夢でも、思い出せないのはもどかしかった。
「それより、今日は『
「はい、問題ないです。登る前に『はれた食堂』で腹ごしらえもしてくつもりですし」
「いいね。それなら早めに出た方がいい。あそこはうちと違って人気店だからね」
「マスターのコーヒーも十分おいしいですけどね……」
自嘲する澤井にそう返すのが精一杯だった。現に、とっくに開店時間は迎えているがお客さんはまだ一人も来ていない。
アメはコーヒーを飲み干して、澤井の言葉にしたがって早々に出ることにした。
トリコットから海の方へ少し行くと坂道になる。漁港まで斜面に沿って形成された地区で、暮らしている人からすると不便もあるのかもしれないが、アメからすると趣があって好きだった。なにせ、坂になっているおかげで家屋の間から海を臨むことができるのだ。
この日も日本晴れのいい天気だった。蒼々とした海を眼前に、セミの合唱を一身に受けながら坂を下る。
はれた食堂は漁港の目と鼻の先にある定食屋だった。こじんまりとしたお店だが、浪越じゃそこそこ有名らしい。澤井に教えてもらって以来、何度も訪れていた。立地的に当然かもしれないが魚介料理が絶品なのだ。
店の引き戸の前にも雪男がいた。誇らしげに両手に大きな魚を載せている。そいつを横目に青い暖簾をくぐった。
扉を開けると、すぐに三角巾をした女将さんが「いらっしゃい」と迎えてくれた。それなりにお年を召しているだろうに、店主のご主人ともども矍鑠としている。
お品書きは日や季節によって変わるため、その日出せる料理は奥のホワイトボードに掲載されている。煮魚や天ぷらといった魅力的な料理が並ぶ中、アメは〝はれた定食〟をチョイスした。その日の新鮮な刺身を味わえる定番メニューだ。
うきうきした気分で待っていると「これ、サービス」と言って女将さんがアメの前に皿を置いた。網焼きしたハマグリだった。大ぶりのものが三つ並んでいた。
礼を述べて、まだ湯気が立ち上るハマグリを殻から掬い上げた。口に放ると、弾力のある肉厚な身から汁がじゅわっと染み出た。香ばしい醤油の風味が旨みを引き立たせている。
「ぅんまい」
その旨さに脳天を貫かれていると、注文した品も配膳された。ご飯におみおつけに小鉢、そして真ん中にマグロやかつお、鯛やブリといった刺身が丁寧に皿に盛られていた。
まずはまだ湯気の立つみそ汁に手をつける。このみそ汁もまた絶品なのだ。出汁が抜群に旨く、一口飲むと上品な風味が舌いっぱいに広がる。磯の香りが鼻を抜ける。これだけで何杯もいきたくなるような代物だった。
次いで、刺身に手をつける。厚めに切られた刺身はどれも味が濃く、甘い脂が舌の上で溶けていく。思わずご飯をかきこまずにはいられなかった。
「若い人はおいしそうに食べてくれるから、こっちも嬉しくなるね」
「本当においしいですから!」
澤井に多少の申し訳なさを感じつつ――箸を休めることなく、あっという間にアメはたいらげたのだった。
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