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 午後の授業を上の空で聞き流して、見事な夕景のもと帰路に就いていた。

 一日いっぱい学校にいるということはほとんどないくせに、アメはこの時間が好きだった。一時的に頭の音と現実の音が重なるからだ。

 定刻になり、防災無線からノスタルジックなメロディが流れはじめる。一日の終わり、帰宅を告げる定番の楽曲だ。喜びも哀しみも抱合して、あたたかさで胸を満たしてくれる。


 家の扉を開く前に、アメは斜向かいにある洋菓子屋〝ボー・シエル〟の軒先に立つそいつに「ただいま」と言って、握手をした。

 もちろん返答はない。雪男めいたその置き物は、ただつぶらな瞳でこちらを見上げているだけだ。

 三頭身くらいの雪男は、モコモコのからだに腕が太く、顔だけ毛がないのかベージュに切り取られている。何でできているのかわからないが、純白の毛は一本いっぽん精巧につくられていて、剥製のようなリアリティがあった。

 それが信楽焼のたぬきのごとく、この町のいたるところにあるのだ。それぞれポーズが異なっていて、ボー・シエルのそれは友好を求めるように片手を突き出していた。アメはたまに握手して挨拶していた。なんのキャラなのかは知らないが、はじめて見たときから妙に親近感があった。アメにとって唯一の友人だった。

「俺もイエティになってみることにしたよ。よろしくな」

 

 裏口から帰宅すると、馥郁ふくいくとしたコーヒーの香りに出迎えられる。それだけでいつも幸せな気分になれる。喫茶店に住むものの特権だ。

 笑い声が聞こえたのでこっそり店内をのぞくと、お客さんがいた。二人連れの品の良さそうなマダムだった。どこぞのアジフライが美味しかったとか、道の駅の海産物が安かったなど、カウンター越しに澤井さわいと楽しげに会話している。

 アメは忍び足で階段を上った。アメに与えられた二階の部屋には、ベッドと勉強机がある。それだけ見ると殺風景だが、もう一つ大きな存在感を放つものがあった。

 本棚だ。アメの背よりも高く横幅のあるそれには、本がぎっしり詰まっていた。自分で購入したものでなく、元からあったものだ。澤井とあまりその話をしたことないが、本が好きだったのだろう。残念ながら漫画の類はなかったが、絵本や児童文学などは暇潰しにちょうどよかった。


 私服に着替えてから、適当に本をぱらぱら捲っていると、微かにベルの音がしたのでアメは前かけをして下へ降りた。

「ただいまです」

「おお、おかえり。帰ってきてたんだね」

 店内に入ると、澤井が飲み干されたコーヒーカップとソーサーを下げているところだった。

「全然気付かなかったよ」

「盛り上がってるみたいだったんで、お邪魔しちゃ悪いかと思いまして」

「気を遣ってくれたのか。ありがとう」

 そう言って澤井は綻んだ。口まわりに鬱蒼と髭を生やしたその顔は、正直言って少し強面だ。だがその人柄を知っている身としては、むしろギャップがあってかわいらしく映る。

「あの方たちは東京にいたときの常連さんだったんだ」

「ああ、どうりで」

 澤井は、浪越へ来る前は東京で店をやっていたらしい。諸事情あってそちらは畳む決断をしたが、今でもその頃のお客さんが浪越を訪れた際、寄ってくれているということだった。アメがお世話になるようになってからも、何度もそういうお客さんが訪れていた。

「それだけマスターのコーヒーのとりこになっている人がたくさんいるってことですね」

「よせやい、お世辞言ったって、私に出せるのはコーヒーくらいだよ」

 謙遜するが、アメは半分本気でそう思っている。

 この店の名前『トリコット』とはフランス語で〝編み物〟という意味らしい。澤井の人柄が繋いできた関係があったからこそ、わざわざ立ち寄ってくれるお客さんがあとを絶えないのだろう。


 アメがシンクでカップとソーサーを洗い終える頃、店のドアが開いてベルが鳴った。

「いらっしゃいま――」言いかけて口をつぐむ。

 ボー・シエルの店主野崎のざきだった。

ブリーチした髪をオールバックにしていて、キリッとした顔立ちの凛々しい人だ。澤井と歳はほぼ変わらないと聞いているが、澤井よりずっと若々しく見える。

「どうも」とにこやかに入ってきた野崎にアメは会釈する。彼は慣れた調子で手に提げてきた紙袋をカウンターの上に置いた。

「いつも悪いね」と言う澤井を横目にアメが受け取りに行く。中身はおそらく、トリコットでコーヒー受け用に提供する洋菓子だ。野崎に頼んで代金を払い、切れそうになったら持ってきてもらうようにしているのだ。

「ついでに売れ残ったケーキも持ってきたよ。食後のデザートにでも」

「ありがとうございます!」

 フランスで修業したという野崎のつくる洋菓子はかなり評判で、完売することが多いらしい。それでもたまに売れ残ると持ってきてくれるのだ。

「わるいね、お代払うよ」

「いいよ、たまにはサービスしないとね」

 爽やかに言って、野崎は財布を取り出そうとした澤井を制した。これもまた、澤井が積み重ねてきた良縁だ。



「あー、うまかったあ――」

 浴槽に沈みながら幸福にのぼせる。

 夕食後にもらったケーキを食べたが、相変わらず悪魔的なおいしさだった。

 口まで湯に浸かってぶくぶくしていると、改めてイエティ倶楽部という言葉とともに、あの女の子のことを思い出した。そういえば結局何者だったのだろう。

 幽霊か、はたまた自分の脳がつくり出した幻影か。

 そもそも、自分が何者なのかもわかっていないのに、そんなことを考えるのはどうなのだろうと、アメは皮肉な笑いを浮かべた。


 記憶のはじまりは病室の天井だった。

 自分はこの浪越の砂浜で倒れているところを発見されたらしい。すぐ病院に運ばれ、検査がなされたそうだ。幸い命の別状はなく、意識を取り戻してからいくつか質問をされた。結果は頭も異常なく、精神面もいたって良好だった。

 だが、一つだけ大きな問題があった。

 記憶がなかったのだ。憶えていたのは〝アメ〟という名前だけだった。

 医師や看護師の困惑をよそに、アメの心は新しくこの世に生を授かったような、誕生の喜びに震えていた。新しい人生のはじまりに音楽が彩りを添えていた。比喩ではなく本当にそうなのだ。

 どうやら、自分は相当音楽が好きだったらしい。そのおかげで悲観的になることはなかった。常に音が癒しを与えてくれるからだ。

 自分の処遇をどうするか、病院に収まらず浪越の町としても検討されていたらしい。いろいろと情報提供を呼びかけてもらったそうだが、誰一人としてアメという人間に心当たりがあるという人は現れなかった。どうやら浪越の人間ではないらしかった。そんなときに、引受人として手を上げてくれたのが澤井だった。ひとりで暮らす彼は、トリコットの二階の部屋が空いているからと申し出てくれたのだ。

 その真意を計りかね、当初は単に労働力として引き入れたのかと邪推したが、そういうことはなく、まずは日常生活を通して浪越に慣れていけばいいと言ってくれた。何日かするとすぐに澤井が好漢だと知れた。そうなると逆に何もせずいるというのが申し訳なく、自ら店の手伝いを志願した。

 といっても、掃除や片付けといった雑事がほとんどだ。接客は澤井ひとりでも十分こなせるし、そもそも、それほど客は多くなかった。それで食べていけるのかというと、やはり厳しいらしく、主な収入源は近所に所有しているアパートからだということだった。

『学校へ通ってみないかい?』

 ある日、澤井がそう言ってきた。ツテがあるのでもしよければ、ということだった。

「行きたいです」と即答していた。正直不安や億劫な気持ちもあったが、厚意を無下にしたくなかった。

 いざ学校へ通いはじめると、多少なりとも張り合いがあった。担任となった澤井の知り合いという山河もよき理解者となってくれて、無理に登校する必要はないと進言してくれた。午前や午後だけなど自由にしていいと。あくまで、記憶を取り戻す一助にでもなってくれれば幸いだと。トリコットの仕事も苦ではなかったので、それなら両立できた。



 脱衣所で寝間着を着て、洗面所の鏡に向かってドライヤーを当てる。鏡の中にいるのは、素性の一切わからない男だ。仄暗い色をたたえた吊り気味の目、色素の薄いくせっ毛の髪。

 アメという名前も、便宜上使っているだけで、そもそも本当に名前なのかすらわからない。雨、飴、天――どういう字をあてるのかはわからないが、嫌いじゃなかった。

 いつもこうして鏡の前に立つと、自分ということ以外、自分のことがわからないというのは、不思議な気分だった。ふっと脱力し、なんの気なしに鏡に問いかけてみた。

「お前は何者なんだ」

 それは唐突に起こった。

 自分の姿に重なって、鏡にあの女の子が現れたのだ。ぎょっとして息が詰まり、危うくドライヤーを落としそうになる。慌てて両手で受け止めて、再び鏡を見ると、そこには当たり前にただ自分がいるだけだった。

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