第一部
1
いつのまに現れたのだろう。
いくら海を眺めながらぼーっとしていたとはいえ、まさに背後を通り抜けるその瞬間まで、人が近づく気配など微塵も感じなかった。
それでも軽やかな足取りや妙に透明感のあるオーラは途方もない引力を帯びているようで、アメはその後ろ姿に目を奪われていた。
その女子生徒は、何かがはじまりそうな期待とちょっぴりの不安を織りこんだメロディをまとっているようだった。無論、その音は自分の頭の中でだけ流れているものだ。にも関わらず、まるでハーメルンの笛吹き男に惑わされたように自然と足がそのあとを追っていた。
渡り廊下を抜けて彼女は西棟へと進んでいった。西棟は専門的な科目の教室や、部活動の部室が並ぶ。昼休みはあまり訪れるものがいないらしく、廊下はやけに閑散としていた。
階段を下りて一階まで来た彼女は、途中で歩をとめると教室の中へと姿を消した。アメが慌ててたどり着くと、そこには多目的教室Cと掲げられていた。
どくんと心臓がはねる。入ったことなどないはずなのに、無性に中が気になった。
好奇心や探究心じゃなく、純粋に必要性に駆られてアメは教室の扉を開いた。
中はカーテンが閉めきられていて薄暗い。壁際にはダンボールが積んであったり、学校の備品を載せたラックがある。中央には長机が四角く配置されていて、すぐに会議でもできそうだ。
そこに女子生徒はいなかった。
白昼夢でも見ていたのだろうか。狐につままれたような気分になりながら、アメが視線を巡らせていると、片隅にあるそれに目に入った。
「ピアノ……」
マホガニー調のアップライトピアノが、どこか寂しげなこの部屋において浮いたような存在感を放っていた。
アメはスツールを押しのけると、ピアノの前に立った。試しに鍵盤を一つ叩いてみると「キンッ!」という予想以上に甲高く無様な音が響いた。どうやら自分に演奏する能力はないらしい。何か思い出せるんじゃないかと多少の期待があったが、あてが外れた。
気を取り直して、アメは今度は長机の前にあったサテンの布を被ったものに関心を惹かれた。布をめくると、出てきたのはホワイトボードだった。
「イエティ倶楽部?」
中央上部にギザギザの吹きだしで囲まれて、そう書かれていた。
この教室を使っている部活動か何かだろうか。名前からはどんな活動をしているのかまったくわからないが。しかし〝イエティ〟という言葉には、思い当たる節がないでもなかった。
「こんなところで何してるんだい?」
アメが首を捻っていると不意に背後から声がして、心臓が口から飛び出そうになった。同時に照明が点く。ふり向くと、手に教材を抱えた女性教諭の姿があった。
「なんだ
山河はアメのクラスの担任であり、編入を取り計らってくれた恩人でもあった。
「たまたま通りかかって、ドアが開いていたからのぞいてみたらきみがいたんだもの。気になるじゃないか」
「暇だったんでぶらぶらしてたらここを見つけまして……なんの教室なのか気になったもので。もしかして入ったらまずかったですか?」
さすがに事実は言うのははばかられ、お茶を濁す。
「いや別にそんなことはないが……そうか、いわゆる探検というやつか。いいね、若者はそうでなくちゃ」
探検なんて子どもじみた表現は、それはそれで照れ臭かったが、とりあえずそういうことにしておくことにした。
「それより先生、このイエティ倶楽部って部活か何かですか?」
「うん? あー……そういえばそんなのがあったっけな」
懐かしむように、山河はホワイトボードを軽く撫でた。
「私はよく知らないが、たしかこの町の自然を観察して研究しようみたいな、そんな部活動だったような」
「へえ、おもしろそうじゃないですか。この町だったらやりがいもありそうですし」
太平洋に面し、山に囲まれたこの
「なら、きみが引き継いでみたらどうだい?」
「引き継ぐ……ですか?」
「うん。まあ、そう言うと大げさかもしれないが、ようは浪越のまだ行ったことのない場所を巡ってみたらどうかってことだよ。きみはなかなかこの町を気に入ってくれてるみたいだし、もしかしたらいい影響があるかもしれない」
たしかに、ここ最近は学校との往復ばかりで目新しい場所に行くということはなかった。与えられた環境に甘えて停滞していた。
「もちろん焦る必要はない。胸を預けるつもりで、浪越を堪能するといい」
改めてホワイトボードの文字を見た。胸が高鳴る。何かがはじまりそうな期待とちょっぴりの不安、そんな心象があの女の子から伝染したようだった。
門出を祝うようにファンファーレが鳴り響いた。
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