プロローグ

「やっぱりいろんな国の人がいておもしろいな」

 言った側から、青年の横を欧米風の旅行客が通り過ぎていった。

「日本の空の玄関だからね。でも、向こうに行ったら普通の光景だから」

 向かいに立つ女の子が口を開いたその言葉は青年に対する配慮でもあり、同時に自身を勇気づけるものでもあった。

 成田空港の出発ロビーで、身軽な青年に対して、女の子の方は横に身長の半分以上もあるキャリーケースを携えている。ついさっきまで青年が引いてやっていたが、ここにきて手渡したのだ。

 重さのなくなった手は途端に空虚になったようで、同時に彼女を憂慮する気持ちが沸き立った。異国の人々の中で、彼女の華奢な心とからだが潰されてしまわないだろうかと。だが、ここまで来て不安を投げかけるような無粋な真似をする気はなかった。


「ま、せいぜい楽しんでこいよ」

 彼女の成長は他の誰よりも知っている。例え困難にぶつかることがあろうと、きっと乗り越えられると自信をもって見送れる。

「うん。そっちもお仕事頑張って」

 この四月から青年は社会人になる。職場も決まっていた。新しい世界に踏み入るという点では共通している。

「すぐ連絡してきたりして」

「しねーよ、そっちこそ」

 軽口を叩き合い、少しだけ空気が弛緩する。互いに連絡は重大なことでもない限りしないよう決めていた。頻繁にやりとりすれば、縋ってしまうから。

「マスターも来られればよかったんだけどな」

「ううん、わざわざお店休んでもらうの悪いし。みんなが見送りに来てくれただけで十分だよ」

 気丈に笑うと、青年の背後に向けて手をふった。少し離れた場所で、二人の男女がいた。彼らもあたたかい眼差しで手をふり返している。そちらとはすでに別れを済ませていた。


「じゃあ、そろそろ」

 腕時計に目を落とした彼女が、もう時間だと告げる。

「ああ、また帰ってきたら迎えにくるよ」

 まだ話し足りない気もしたが、搭乗時刻が迫っている。最後に何と言えばいいか互いに悩み、結局見つからず、

『それじゃあ、また』

 いつも通りの簡素なものに落ち着いた。

 もはや、言葉を弄さなければ気持ちが伝わらないような関係じゃない。それに、二人してここまで熱心に神様や仏様に祈願してきたのだ。自分も彼女の願いを後押ししたことだし、きっと届いているはずだ。

 それから彼女は深呼吸しながら目を閉じると、断ち切るように身を翻した。その背中には、もう迷いや不安はなかった。


 後ろで見守っていた二人が合流してくる。

「ついに行っちゃったねー」

 そう声をかけたのは、茶色い髪の現代いま風の女の子の方だった。彼女は名残惜しさを含みつつも、気落ちしないよう明るく努めてくれているようだった。

「でもちょっと残念だったなー、わくわくしながら見てたのに」

「なんの話だ?」

「最後に別れのキスくらいするのかと思って」

「するか、こんなとこで!」

 けたけたと笑う女の子の横で、隣にいた青年も口を開く。

「むしろこの場所だからこそだよ。現にさっきも抱き合って唇を交わしていたカップルがいたしね。二人とも海外の人だったけど」

「俺は生粋の日本人だっての!」

 たしかにまわりを見ると、海外の人は再会に喜びを爆発させるもの、別れに涙を惜しまないものなど、感情の表現がゆたかだ。様々な人のはじまりと終わり、喜びと悲しみが海を越えるこの場では、想いもひとしおなのだろう。

「淋しくなったらいつでもあたしに連絡しておいで」

「少なくともお前には絶対にしねえ!」

「意地っ張りだなあ……あ、そろそろ見えなくなっちゃうよ」

 言われてふり向くと、彼女は人ごみに埋もれ、保安検査場の中に吸いこまれていくところだった。

「会えない時間も、過ぎてしまえばきっと一瞬だ」

 うら寂しい気持ちで見送っていると、青年が元気づけてくれた。「会えない時間がなんとやらって言うしね」女の子の方も最後は茶化さなかった。

 別れが淋しいのは、それだけ幸福な時間だったからだ。またそんな日々を過ごせるよう前を向かなくてはならない。それでも今は浸っていたかった。

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