楽園のイエティ
ヒマラヤの山の奥に、コンという少年が住んでいました。
ある日、コンはお母さんと木の実をとりに出かけていました。ところが、夢中になっていたせいか、気付けばお母さんとはぐれて一人ぼっちになっていました。
辺りはどんどん暗くなっていきます。コンが焦りながら歩いていると、目の前にほら穴が現れました。興味が湧いて中をのぞきこんでみると、足を滑らせてしまいました。
穴の中に転げ落ちてしまったコン。光はずっと高いところにあって、とても登れそうにありません。
もうダメだ。きっと自分はここで死ぬんだ。
コンが立ちつくしていると、穴の奥から何かがのしのしとやってくるのが見えました。
現れたのは、毛むくじゃらの生き物でした。
コンはもう生きた心地がしません。それが〝イエティ〟だとわかったからです。
山にはイエティの住処があって、彼らは人間の子どもをさらうのだと、大人たちがいつもおっかいない顔をして言うのです。ほら穴からそこへ通じているので、決して入ってはいけないのだと、今になって思い出しました。
イエティがどんどん迫ってきて、コンは泣き叫びました。すると、イエティは反対に慌てふためき、目や頬をつり上げて変な顔をしたり、地面の上を転げまわったりしました。
いつのまにかコンは笑っていました。
よく見るとイエティはやさしそうな目をしています。不思議なことに、コンはイエティの言葉がわかりました。
イエティが片方の手を出してきたので、コンは握り返しました。とてもあたたかくて大きな手でした。
手を引かれて歩いていくと、やがて広い場所に出ました。大きな岩の壁に囲まれて、見たこともないカラフルな建物がいくつも立っています。それは美しい街でした。
街には他のイエティや子どもたちがいました。大人の姿は見あたりませんでした。
コンに気付いたイエティたちは、コンのからだを何度も空中に浮かせて喜びました。コンは目がぐるんぐるんまわりましたが、不思議と嫌じゃありませんでした。それからすごいご馳走でもてなしてくれました。
コンはたちまち、その村のとりこになりました。そこでは、イエティが作ったパンやチーズ、野菜や果物がたくさんあってお腹が空くことはありませんでした。
イエティたちはとても力持ちで、子どもや大きな岩を軽々と持ち上げることができました。その力を使って一日中、遊んでくれました。遊び疲れると、温泉で疲れを癒しました。楽しい日々でした。
けれど、たまに星空にお母さんの顔が浮かぶこともありました。
コンは他の子どもたちともよく遊びましたが、特に〝リラ〟という女の子と仲良しになりました。
あるときリラが、とっておきの場所に連れていってあげると言うのでついていくことにしました。そこは見たこともない色とりどりの花が咲くお花畑でした。リラは自分が見つけた秘密の場所だと胸を張りました。
コンはリラと、仲良くなったイエティと三人でよくそこで遊びました。リラはよく花輪を編んでコンにくれました。
わたし、山に捨てられたの。
いつものように花を編んでいたリラが、あるときそんな話をしました。
でもやっぱり、生まれた村やお母さんに会いたくなると悲しそうに言います。
そんなわけない、お母さんがリラを捨てるなんて。
コンは否定しましたが、リラは本当だとゆずりません。
なら、リラの村に行って確かめてみようとコンは言いました。すると、それはできないとイエティは焦りました。それでもコンが何度もお願いすると、しぶしぶみんなには内緒だと言って許してくれました。
イエティに連れられて、コンとリラはほら穴を抜けて久しぶりに街の外へ出ました。
リラが自分の住んでいた村の方向を指さすと、イエティは二人を肩に乗せてすごいスピードで山を駆けました。どんどん景色が変わっていきました。
そして、いつのまにか目の前に家が立ち並んでいました。あっというまにリラの村まで来てしまったのです。
リラはおそるおそる村へ入りました。コンとイエティは遠くで見守ります。きょろきょろしていたかと思うと、リラは何かを見つけたようで走りだしました。そこにいたのは、赤ん坊を抱いた女の人でした。きっとお母さんなのでしょう。リラと会えて喜ぶに違いないとコンは思いました。
ところが、リラがなにやら話しかけると、その人はおびえるみたいに後ろへ下がりました。そこへ、家の中から男の人が出てきました。その手には鉄の棒が握られていました。
男がリラに近づきます。コンは思わず目をふさぎました。
おおぉぉぉーーーんー!
となりでイエティが雄叫びを上げました。そしてあっというまにリラのもとへ駆けつけると、そのからだを抱えました。
イエティが逃げようとすると、大きな音が響きました。はじめて聞くのに、コンはそれが鉄砲の音だとわかりました。
気づけば、どこからか軍服を着た兵隊たちが何人も出てきていました。
イエティはすばやく戻ってくると、コンもしっかり抱えて逃げました。しかし、コンが後ろを見ると兵隊たちが車に乗って追いかけてきていました。テェエンはさすがに疲れたのか、来たときよりも遅く、兵隊たちとの距離はどんどん縮まっていきます。
捕まったらたいへんだ。コンはイエティの背中を何度も叩いて急がせました。
途中、見たことのある景色になっているのにコンは気付きました。そこは自分の生まれた村の近くでした。ふと、女の人が歩いているのが見えました。
それはお母さんでした。コンは久しぶりにお母さんの名前を呼びました。はっとしてお母さんはふり向いたようでしたが、イエティはどんどん先へ進んだので、すぐに見えなくなってしまいました。コンは悲しくなって、なおさらお母さんと会いたくなりました。
兵隊たちとの距離は、もうほんの少ししかありません。
もうダメだ。
コンがそう思ったとき、イエティがまた叫びました。すると目の前にほら穴が現れて、イエティはすぐにその中に飛びこみました。たちまち入口が塞がります。
これで一安心、と思いきや、後ろからズドンというすごい音がしました。壁を突きやぶって現れたのは戦車でした。
さらにもう一発、戦車が大砲を撃ってコンたちのすぐ横の壁に当たりました。
イエティは走りながらまた叫びました。すると、駆け抜けたところからたちまち壁や天井が崩れていきました。戦車は何度も大砲を撃っていましたが、少しずつその音は聞こえなくなりました。
やっとほら穴を抜けてイエティの町に出ると、出口はすぐに岩に塞がれて見えなくなりました。
コンとリラは、ほっと安心して地面に足をつきました。
またお花畑で遊ぼう。
コンがリラを元気づけるために言いました。
イエティはへとへとで、もう一歩も動けないようでした。そこへ、またリラの村で聞いたあの嫌な音がしました。イエティが辛そうな声を出したので、見ると肩の白い毛がどんどん真っ赤に染まっていました。
崩れた岩の隙間から、ぼろぼろになった兵隊が一人はい出てきました。その手には鉄砲がありました。
やっと見つけた。
そう言ったように、コンには聞こえました。
イエティは痛みに苦しみました。コンがどうすればいいのかわからず、途方に暮れていると、突然リラが雄叫びを上げ、兵隊に向かって走り出しました。
コンは驚きました。一歩進むごとにリラのからだから白い毛が生えていくのです。そして、あっというまにイエティの姿になってしまいました。
驚いた兵隊はまた鉄砲をかまえました。しかし、撃たれるより前にリラはそのまま兵隊に体当たりしました。兵隊は高く飛んで、どこか遠いところへいってしまいました。
気付けば、騒ぎを聞きつけた街中のイエティたちが集まってきていて、コンたちに喝采を浴びせていました。
リラだったイエティはコンのところまで戻ってきました。その瞳はどこか寂しそうでした。
ふと、コンは強い眠気に襲われました。自分はもうここにはいられない。なぜだかそう感じました。
お母さんが自分を呼ぶ声がします。懐かしい声に、コンはゆっくりと目を閉じました。
成長したコンは木の実を集めていました。そうしていると、たまにあの楽園を思い出すのです。
あのあと、目をさましたコンは自分の家で寝ていました。隣にはお母さんがいました。
山の中で倒れていたのだと教えられました。お母さんは自分がいなくなってから、ずいぶん長い間、毎日のように探してくれていたのでした。
それから少したったある日、家の前に美しい花が置かれていました。それは、あのお花畑で見た花とそっくりでした。
コンは枯れることのないその花を、今でも瓶詰めにして大事に持っています。
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