一章 第八話

 朝になり蚊帳が玄関先で出掛ける準備をしていると、誰かが階段を降りてくる音がした。暗夜は午後近くまで起きてこないので、十中八九埜谷だ。


 埜谷は、直ぐには蚊帳の所まで来なかった。身なりをある程度整えてから、玄関にやって来る。

「何処行くんだ」

 仄暗い声の中に不機嫌さを感じる。


「朝ご飯食べるの……外で」

 蚊帳は昼食も夕食も暗夜が作るが、朝食だけはいつも一人で作って食べるのだと伝えた。まだ埜谷は眠っているのだと思って声を掛けなかったが、声を掛けた方が良かっただろうか、と蚊帳は不機嫌そうな埜谷を見て思った。


「埜谷も食べる?」

「……上着取ってくる」


 踵を返し、埜谷は部屋の方へ戻っていく。蚊帳はもう一組食器をキャリーワゴンにしまうと、保冷バックを持って台所に向かった。冷蔵庫を開けて、厚いハムと卵を取り出す。それから食パンとジャム。水は朝水筒に入れたのが、既にワゴンにしまってある。ドリップバッグ珈琲も。


(長居するならジャグに入れてもいいなぁ)


 準備が終わり、台所を出ようと振り向くと入口で埜谷がアンニュイな表情で立っていた。埜谷は、蚊帳の自室の壁に掛けてあった栗色のジャンパーを着ている。埜谷が着ると野暮ったいジャンパーもスマートで上質に見えた。


「行こ」


 声を掛けると埜谷は無言で眠そうに玄関へ歩き始める。

 外はまだ少し暗かった。けれど丘に着く頃には明るくなっている筈だ。キャリーワゴンの取っ手を掴み、人の少ない住宅街を並んで歩く。


 丘は、そんなに遠い所ではなく散歩コースにある。閑静な住宅街の一角にある、小さな森と言った風貌の小高い丘だ。


 金網の前に立ち、上着から取り出した鍵で錠前を開ける。

「ここ、お前ん家だったんだ」

「うん」

 人が歩けるよう雑草が抜かれた土の上を、キャリーワゴンを引っ張りながら登る。登ると言っても緩やかな道だ。


 丘の中腹より少し上にある平地に、昨日、蚊帳が泊まるつもりで設置したテントが、昨日のままの姿でそこにあった。

「テントで休んでていいよ」

 うん、と埜谷は答えた。何か手伝えることがあるのかもわからないし、蚊帳は好きなことは一人でしたがる。何より埜谷は疲れて動けそうになかった。ここまで来たのも、出掛けるより一人で家に残される方が堪えるからで、一晩眠って元気になった訳ではない。


 テントの入り口に座り、埜谷は蚊帳が着々と慣れた手つきで朝食の準備をしていくのを見守る。蚊帳を見る時間が増える程、埜谷の目は暗く、重たくなっていく。蚊帳はあまりにもいつもとかわらない。蚊帳自身ではなく、埜谷と別の誰かとの間に起きた出来事と関わっているようなつれなさだった。


 朝食が出来ると蚊帳は埜谷に、折り畳み椅子に座るよう勧めた。テントの中の方が暖かいが、蚊帳は埜谷と一緒に、いつもの場所で朝食を食べたかった。


「美味しい?」

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