一章 第七話
虚ろな顔で俯く埜谷を、牛乳を飲みつつ覗き見る。埜谷のラフなTシャツ姿を蚊帳が見たのは、中学生の時が最後だ。子供の頃から私服は大抵、シワの無いYシャツを着ている。それなのに堅苦しさが無く、けれどどこか品があるのが埜谷だった。
グラスの下の縁をすりすりと人差し指で触るだけで、埜谷は牛乳に口を付けようとしない。
(飲みたくないのかな)
そう思った時、身を乗り出すようにテーブルに肘を付き、
「別人になったつもりで生きてみたら」
狐目を糸のように細くし、暗夜は微笑んでいる。暗夜なりに埜谷を気にしているらしい。
「どうして」
反応の無い埜谷に変わるように蚊帳が答えた。
「抜け出す為に」
釣り針に掛かるよう、誘うように暗夜は微笑んで小首を傾げる。
「埜谷は埜谷でいいんだよ、兄さん。どうしてここじゃないどこかに行くのに別人になる必要があるの。埜谷のままでどこにでも行ったらいいじゃない」
純粋な眼差しで蚊帳は暗夜を見る。そんな蚊帳をいとおしそうに暗夜は見返している。
「さぁ。知らない。一般論だよ。俺は落ち込んだりしないからね」
「兄さんの心臓は合金で出来ているから」
「成金みたいで嫌だな」
気付くと埜谷の話に勝手に受け答えする蚊帳の隣で、埜谷は静かにグラスの牛乳を飲み干している。二人のグラスが空になったのを見計らって、暗夜が「今日は早く寝なさい」と言った。蚊帳はうん、と頷いてグラスを片付けると埜谷と部屋に戻った。
部屋に一緒に戻ろうと言った訳では無かったが、蚊帳が動くと付いてくる。蚊帳も気にしなかったので、蚊帳のベッドの隣に布団を敷いて、同じ部屋で眠ることにした。埜谷は蚊帳を光の無い目でぼんやりと眺めているだけで反対も賛成もしない。
けれど電気を消してベッドに潜ると、埜谷も素直に布団に潜った。やっぱり埜谷は埜谷だ、と蚊帳は思った。だから蚊帳は少し聞いてみたくなって、ちいさな声でまだ布団に潜ったばかりの埜谷に声を掛ける。
「どうして死のうと思ったの」
「理由は無い」
案外早く答えは返ってきた。低く、くぐもってはいるが予想の十倍、しっかりした声だった。
「無いの?」
「死のうと思ったから死のうとしただけだ」
んーと少し考えてから、蚊帳は聞き方を修正する。
「悩みは?」
「全部上手くいってる」
「だよね」
困ったように蚊帳が苦笑すると、埜谷は何も答えなくなった。
眠ろうとすると、
「柄にも無い事するなよ」
と埜谷が言った。いつもの、蚊帳の知っている埜谷に近い声だった。
「ごめん」
情けない声で謝ると、今度こそ何も聞こえなくなった。
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