一章 第九話

 初めに厚いハムをかじった埜谷に聞くと、うんともああ、とも取れない言葉で肯定する。殆ど焼くだけだけれど、外で作って食べる簡単なご飯は美味しい。珈琲も温かいし、空気も綺麗だ。


 食事が終わると蚊帳はスケッチブックを取り出して、丘の植物を描いて回る。蚊帳なりに気を遣って、埜谷が見える範囲で軽くスケッチする。時々振り返ると必ず埜谷と目が合った。折り畳み椅子の上で居心地悪そうにしている。


 うっかり、スケッチに夢中で埜谷から離れた。


 描き終わってから気付き、あっとテントのある方を見ると、傍で埜谷が木に寄りかかって立っている。

「もう帰る」

 蚊帳が言うとわかった、と埜谷は言い、組んだ腕を解いた。


 家に帰ると、蚊帳は居間でスケッチブックを見直したり、色を付けたりした。埜谷は隣でテーブルに腕を置いて、蚊帳の描く絵をぼんやりと眺めている。退屈でも隣を離れようとだけはしなかった。


「今日も行って来たの」

 昼になって降りてきた暗夜が居間を覗き、口を抑えて欠伸する。


「昼は居るんだろう」

「うん、居るよ」

 もう十二時を回っているとは誰も言わない。大抵、弦誦家での昼食は午後一時よりも後だ。暗夜が台所の方へ歩いていくと、蚊帳はスケッチブックを閉じた。


「兄さんのご飯は美味しいよ」


 埜谷は隣でぼんやりと、埜谷を見る蚊帳の顔を見つめたまま、黙っている。


「元気が出るんだよ。兄さんは薬膳料理っていうのを作るのが好きでね、料理も上手で、伯父さん達も兄さんのご飯が好きなの」


 ふと蚊帳は、こんなに一度に埜谷に話し掛けたのは初めてじゃないかなと思った。いつもは埜谷が話してくれるから、蚊帳は聞いているだけでよかった。別の世界の話を聞いているみたいで、それだけで蚊帳は楽しかった。一人一人生きる世界は違うけれど埜谷の生きている世界の話を聞くのが好きだった。同じ物を見ても全然別の物が見えていて面白いなぁ、同じ空気を吸っているのに蚊帳から縁遠いことが確かに同じ地上で起きていて凄いなぁ、と埜谷の話を聞く時、蚊帳はいつも夢心地だった。


 蚊帳にとって埜谷はいつも凄くて、かっこいい存在だった。ちょっと無理しているのかなって感じる事もあったけれど、埜谷は凄くてかっこいい埜谷が好きなのだと蚊帳は思う。


(埜谷は凄い)


 教室の端っこに居るような蚊帳にもわけ隔てなく接してくれて、いつもクラスの中心だった。運動も勉強も一番ではないけれど、常に上の方にいて、だけれどそれ以上に、そんなに頑張っているのに一番に拘っていない所が一番凄いなぁ、と蚊帳は思う。


(一人でいっぱい話すのってこんなに難しいんだ)


 埜谷にとっての凄い埜谷を目指しているのがかっこよかった。蚊帳がとろくて危ないからって、中学校を卒業するまで殆ど毎日一緒に登下校してくれたのも覚えている。蚊帳にとって埜谷は凄くて、やさしくて、かっこいい。それは今この瞬間もだ。

「埜谷、死んだら勿体ないよ」

 ほろっと零れ落ちるように蚊帳は言った。


「だって埜谷は死んだら消えちゃうんだよ」

 足の爪先で爪先を触る。


「それはお前も同じだよ」

 やっと口を開いた埜谷は、他人事にするなと言っているみたいだった。蚊帳は一瞬ぽかんとした後、


「本当だ」

 と間抜けな声を出す。

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