一章 第四話
古い家の玄関戸を開けると、和服姿の暗夜がだるそうに二人を待ち構えていた。顔の広い暗夜のことだ。蚊帳が埜谷を連れ帰ろうとしているのは、既に誰かから聞いて耳に入っているのだろう。驚いた素振りを見せないまま、話を進める。
とは言え蚊帳は、親代わりの暗夜が驚いているところなんて片手で数える程しか見たことがない。他の人なら驚くようなことが起きた時程、けだるそうな顔をする。元々色っぽい暗夜の色気が陰のある若い男性から未亡人になる。
「はぁ、今日はまた凄いのを連れ帰ってきたね蚊帳。家では飼えないよ」
「これ、埜谷」
隣でぐったりしている埜谷は、肩を組んでいないと今にも前のめりに倒れてしまいそうだった。蚊帳はそんな埜谷を見ず、暗夜だけを見上げて答える。暗夜が蚊帳の頼みを断るとは少しも考えていない。ただ、暗夜の許可を貰うまでは家に上がらないつもりだった。
「埜谷? どっかで聞いた名前だね」
「子供の頃によく遊んでもらった。伯父さんの工場でアルバイトしてるの。今も時々会うよ」
「ああ、なんかそんなの居たねぇ。蚊帳の面倒を見てた子だね」
「大学生なの。忙しいのにいつもやさしい」
「へぇ……」
暗夜はあまり埜谷に興味がないようだった。昔から交友が広い割に暗夜は他人に興味がない。それを人前で露骨に晒すことはめったに無いが、それだけ埜谷がうっとうしいのだろう。
「暫く家に置く」
「返してきなさい」
「兄さん」
ここで初めて、蚊帳は暗夜に突っぱねられるんじゃないかと思った。
「兄さん、埜谷は」
「何があったの?」
やさしく、諭すように暗夜は冷たい目で言葉を遮る。蚊帳は人と話すのが上手い方じゃないけれど、本当のことを話すのはためらわれた。しかし、嘘も吐けない。
何が起きたのか知っている訳ではなさそうだったので、蚊帳は都合の悪い箇所は無視する事にした。
「埜谷は、ちょっと疲れちゃっただけだよ。疲れて、いつもの埜谷をわすれちゃったの。兄さんも兄さんをわすれちゃう事、あるでしょ?」
やっと暗夜はフム、と思考するような顔をした。
「あのね兄さん……」
「蚊帳、だからと言ってよその男を家に置くのは……」
「寒い!」
くしゅん、と青い顔で蚊帳はくしゃみをした。
「おっと……そこで待ってなさい」
そう言うと暗夜は家の中に戻る。二人でぽつんと暗夜を待つ間「わすれた訳じゃない」と低くしずんだ声で埜谷が呟いた。言葉はそれきり続かなかった。蚊帳が返事を考えつく前に、暗夜がタオルを持って戻ってくる。
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