一章 第二話
「言ったっけ」
幾ら首をひねってみても、ちっとも目当ての物が出てくる気配は無い。それに、蚊帳は身の程をよく知っている。家の仕事もある上に、勉強に打ち込める方でも無い。だからと言って、埜谷が蚊帳の為に受ける学校のレベルを下げるとも思えない。にもかかわらず、そんな無謀な約束をするだろうか?
「言っただろ」
「いつ?」
「十一の誕生日に」
「埜谷、凄いね。そんな昔のこと覚えてるんだ」
口を半開きにして、蚊帳は関心した。
(さすが埜谷だ)
「覚えてるけど? 悪い?」
腹立たしげに埜谷が怒りの眼差しを向けてくる。
(埜谷はプライドが高くて、かっこいい)
けれど蚊帳は憧れこそするが、そういう回路が全く理解出来ない質なので、何が埜谷の気を逆撫でしているのか、わからない。
「埜谷はどこの学校に行くんだっけ」
「それすら覚えてないのかよ。茨ヶ崎に行くって言ったろ。真面目にやってればお前だって行けたのに」
「行けるかなぁ」
ぼやくように言って明太子のフランスパンを取り出した。一拍、妙な間を置いて何か言いたげに蚊帳を横目で見ながら埜谷はちいさくいきを吐く。
「俺たち付き合わないか」
「うん」
「だよな、ありえないよな。俺とお前がとか……って本気で言ってるのか」
驚く埜谷をよそに蚊帳はフランスパンを頬張る。
「うん」
「パン食うのに夢中になってる訳じゃないよな」
「うん」
また、蚊帳はくぐもった声で頷く。
「後で無しって事ないよな」
「うん」
(なんとなく)
蚊帳は昔の一ページを見ていた。
いつも外の全てに怯えていた子夜は、蚊帳に何度も助かり方を教えてくれた。特にここは海が近いから、水場での動きは子夜の怯えに比例して脳にすりこまれている。数年経っても骨髄まで染みこんだ子夜の教えが、するすると抵抗なく蚊帳の体を動かす。
蚊帳は反射的に車の扉を開けた。扉が開いたまま、車が海に飛び込む。次にいそいでシートベルトを外す。埜谷を見ると、埜谷は目を閉じたまま、逃げようともしない。蚊帳は埜谷のシートベルトを外すと、火事場の馬鹿力で埜谷を掴み、海面に顔を出した。
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