一章 第一話 知らぬ埜谷より馴染みの埜谷

 その日、蚊帳は学校を抜け出してパンを食べていた。蚊帳は、暗夜の作る薬膳料理よりも学校の給食よりも、パンが大好きだ。パンがあればもう、幸福いっぱいだ。


 お気に入りのパン屋の傍にある噴水の縁に腰掛けて黙々とパンを食べていると、埜谷が来た。

「蚊帳!」

 埜谷は眉根をぎゅっと寄せ、真面目な顔で蚊帳に詰め寄る。


「お前……何してんだよ! 探しただろ」

「パン食べてた」

 ほよんと間の抜けた表情で蚊帳が答えると、埜谷はしゅるしゅると覇気を失い、額を抑えてフゥーッと運動選手が吐くような長いいきを吐く。


 その間も蚊帳は遠くの物語を観るみたいにパンを食べ続けていた。

「見ればわかる。はあ、心配して損した」

「しんぱいしてくれたの?」

 幼子のような問い掛けを無視して、埜谷は蚊帳との間にパンの袋を挟んで噴水の縁に座る。


「あのな、俺の内申に響いたらどうしてくれる」

「埜谷は大丈夫だよ。埜谷だもん」


「お前は? 受験生の自覚ある?」

「私、難しいところ行かないもん。そこのだよ」

「なんで? 一緒のとこ行くって約束しただろ」

「そんな約束したっけ?」

 さすがの蚊帳でも、この言葉が埜谷を揺さぶったのがわかった。憮然とした顔で、埜谷はひざの辺りを見下ろしている。


「埜谷も食べる?」

 ぴく、と埜谷が神経質そうに眉を動かす。

「食べるけど? 当然だろ」


 言われた蚊帳はゴソゴソと袋をあさって、つ、と埜谷が好みそうなパンを差し出す。

「それは?」

「クリームベリー」

「じゃあ貰う」

 ひったくるようにパンを取ると埜谷は男子中学生らしい速度と食欲でパンを食べ始める。


(よっぽどパンが食べたかったんだなぁ)


 と蚊帳は整った顔で獣のようにガブガブとパンを食べる埜谷の横顔をぼんやりと見つめた。こういう場合、大体において、何見てんだよ、と言いたげな目で見られるのだけれど、今日の埜谷は食べるのに夢中で蚊帳の方を一度も向こうとしなかった。


(ここのパン、美味しいよね)


 ニコ、と蚊帳の口元が緩んでも、何笑ってんだよ、ととまどった声は飛んでこない。食べ終わった後も、空になった袋を見つめて食後の喜びにひたっている。

「これ美味いな」

 とってつけたように埜谷が蚊帳に話し掛ける。


「埜谷も学校抜けたの?」

「俺はちゃんと……」


 呆れたのか、蚊帳と話すのが嫌になったのか、埜谷は珍しく口ごもる。埜谷との縁は偶然の産物にすぎない。うっかり釦を掛け違って、さも関係があるかのように存在してるだけで、いつ切れても仕方が無い、と蚊帳は考えている。


(ずっと、埜谷はキラキラしてる。顔や、頭だけじゃなくて、人を魅了する埜谷だけの香を持っている気がする)


 蚊帳の前では、少し、言葉遣いが荒っぽいけれど。


 人を魅了する豊かな香のような空気、と言えばまず蚊帳の頭に暗夜が現れる。暗夜に育てられた蚊帳には、埜谷は本物だって一目でわかるのだ。奥底から絶え間なくながれる煙は血と一緒だ。


 弦誦家の客人が言うように暗夜を「オム・ファタール」とするならば、埜谷は人々をみちびく聖職者だった。


「同じところ行くって言っただろ」

 埜谷の言葉に蚊帳は現実に引き戻される。

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