水と器

靑蓮華

プロローグ

 かんかんと音を立てて階段を降りる。階段の下には、蚊帳かやの伯父が経営する町工場への入口があった。暗いと言ってもまだ八時前。作業する音が蚊帳の耳にも届いている。


 一番上の兄、暗夜に家に届いた葉書を渡すよう頼まれただけの蚊帳に、工場に入る用は無い。


 これまで何十回と工場の敷地を跨いでいるが、工場の中に入ったのは、数える程で、それも夜遅く、小学生の頃暗夜と共に伯父と話をする為に中へ入ったのが最後だ。


 蚊帳が工場に足を踏み入れる時はいつも暗夜が一緒だったが、暗夜が伯父の元を訪れるのは休日か、夜遅くだったので、作業する所を見た事は未だ無い。それを気にした事も、その事実に気付いた事も、無い。


 そんな蚊帳がちょこちょこと作業場の方を気にしながら階段を降り切る頃、一台のセダンが敷地内に入ってきた。最後の二段と言う所で、蚊帳は足を止め、ぼんやりと車が入ってくるのを見守る。


 完全に車が停車すると、運転席から埜谷のやが降りてきた。茶髪の前髪を無造作に掻き上げた後、振り払うように頭を振る。その粗野な感じが、なんだか埜谷らしくないな、と蚊帳は思った。


 声を掛けずに立っていると、後部座席から荷物を取り出した埜谷が先に蚊帳に声を掛ける。

「蚊帳。来てたのか」

「うん。どこかに行ってたの?」

 ぴょんと二段飛ばして階段を降り、蚊帳は埜谷に訊いた。

「他にどう見える?」

 試すように埜谷が軽く言った。いつもの埜谷だなぁと蚊帳は思った。


 高校生の時からここでアルバイトをしている埜谷は、荷物を持って工場に入っていく。

 工場で働いていると言っても、荷物を運んだり、お茶を出したり、埜谷の仕事は雑用係だ。周りから羨望の目を集める、なんでも出来るすごくてかっこいい埜谷が雑用係って勿体ない。そう蚊帳は思っているものの、思うだけで口に出す事は無い。

 そもそも蚊帳が横から口を出すという考えが無かった。蚊帳より頭のいい埜谷が自分で考えて判断した事、なのだから。


 雑用係も五年目となると板につく。

「ついて欲しくないなぁ……」

「何一人でブツブツ言ってるんだよ」

 戻った埜谷が呆れ声で指摘する。独り言なんてしょっちゅうなのに、一々諦めず呆れてくれる埜谷はすごい、と蚊帳は思う。


「コンビニ行くけど、お前も行く?」

「仕事は?」

「今日は終わり」


 車の助手席に座り、蚊帳は足をふらふらと揺らす。蚊帳の家には自家用車が無い。ほんのちょっとの距離でも、車に乗るのは楽しい。運転席に座った埜谷は普段の埜谷とは違って見えた。キリッとした、真剣な表情をしている。


 埜谷は本当にすごい、と蚊帳は助手席で体を丸めながら思った。


 ――周りからいっぱい声を掛けられるし、みんなと仲良く出来るし、やさしくてかわいい彼女もいるって、偶然会った同級生が言ってた。


 ――頭が良くてしっかりしているし、スタイルも良くて、顔も綺麗。努力も出来るし、車の運転まで出来る。


 埜谷はすごいなあ! と蚊帳はぼんやり口を開けて運転席の埜谷を見た。


「あんまりじろじろ見るなよ」

 言われた通り、蚊帳は視線を外して正面に顔を向けた。


 顔を向けるのと車が道をそれるの、どっちが先だったのだろう? 


 普通に道を走るみたいに橋から車が飛び出して、蚊帳と埜谷は海に車ごと飛び込んだ。

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