第7章

第31話

 数刻のち、近くに人の気配がして、ハッと飛び起き…ようとしたのだが、あいにく体が動かなかった。重い瞼をなんとか押し上げて気配の方を伺うと、路上に倒れている僕の傍にしゃがみ込んでこちらを伺っている小さな人間の影がある。

 影は不躾に僕の顔を覗き込み、弱っているのを確認したのか彼方に向かって手を振りながら「お父さーん! 人、人!」なんて叫ぶのだった。大声が弱った体に障る。

 その時になって、その影がまだ十歳前後ほどの子どもであることに気づいた。目が霞んでいて人相までは読み取れなかったが、割と粗末な背格好をしているようでおそらく下層民の子どもではないかと思われる。


「なんだぁ? 行き倒れかい」


 子どもに呼ばれてひょこひょこと近づいてきた"お父さん"が、やはり僕の顔を覗き込みながら呟く。「ほっといてくれ」と言おうとしたが、口が渇いて喉が枯れているらしく、唇がぱくぱくと動いたのみであった。

 それをどう受け取ったのか、父親は「よしよし」なんて言いながら背負っている荷物からペットボトルを取り出し、中の水を僕の口に注ぐ。体が貪欲に生きようとして、その水を喉を鳴らして飲み干した。


 正直、助かった。

 先ほどから酷かった頭痛と眩暈がほんのわずかだが和らぎ、大きく咳き込む。父親が大きな手で僕の背中を、落ち着くまでさすってくれた。


「…ありがとうございます」


 さらに父親が差し出してきたプロテインバーを体を起こしてから齧っていると、徐々に元気が出てきた。相変わらずガンガンと頭が痛むが、これくらいは軍役時代に経験した銃弾を浴びる痛みに比べればなんのことはない。

 父親と子どもは黙って食料を貪る僕を見ていたが、やがて顔を合わせてニカっと笑い合った。


「お前さん、どこかで見た顔だなあ? この近くの街のもんかい?」

「あ、いえ、ちょっとした旅人というか…」

「ほええ」


 怪訝な顔をする父親の隣で、子どもの方は“旅人“というワードに目を輝かせる。


「世界を旅してるのっ?」

「うん、まあ。そんなような…」

「このご時世に旅なんて優雅だねえ。まあしかし、無理しちゃいかんよ、俺達が通り掛からなかったらここでのたれ死んでたかも知らん」


 あっけらかんとした声音で言われて、僕はまた人の優しさを感じて自分を恥じた。全く、僕はいつもいつも、自分のことばっかりだ。自己嫌悪やら自己犠牲やら自己憐憫やら。他人のことを考えているようで、常に自分が傷つかないように立ち回ってきただけ。

 ぼんやりしている僕に気づいたのか、父親はちょっと小首を傾げてから、よっこいしょ、なんて掛け声をかけつつ立ち上がる。


「よければうちの村に来るかい? タダで、というわけにはいかんが、多少なりまともなもんを食わせてやれるよ」

「えっ…でも…」

「大丈夫。何度も言うがタダではない。うちの村も労働力が足りておらんでね、なんでもいいから仕事していってくれると非常に助かるんだわ。どうだい?」

「…そう言うことなら…」


 夢の中のチェンがまた目の前をチラつき、僕は思わず人の好意に縋った。

 そうしてその日はそこから二、三キロほどの距離にあった村にお邪魔し、その父親と子どもの家で奥さんが作ったという手料理をご馳走になり、手狭ではあるものの十分に清潔な客間で横になった。

 眠ろうとしてもまた兵士に追いかけられる夢を見て近間隔で目が覚めたものの、朝方近くになると流石に疲れが出たのか、二時間くらいトロトロと眠った。やはりそこでも悪夢を見た気がするが、とにかくわずかでも睡眠を取れて多少回復した。


 外から鳥の鳴き声がして、端末を見るともう九時だったので布団からようやっと這い出す。居間に向かうと、昨日料理をご馳走してくれた奥さんが朝食の後片付けをしているところであった。


「あら、おはよう」

「…おはようございます。すみません、こんな時間まで寝てしまった」

「いいのいいの。どうせ昨日もよく眠れなかったんでしょ、目の下のクマが全然消えてない」

「はあ…まあ…」

「うちの男どもは早々に近くの畑に出かけていってね。朝ごはん食べるでしょ? 大したものはないけども」

「いえ、十分です、ありがとうございます」


 奥さんが出してくれたマヨネーズを塗った食パンと牛乳で朝を済ませ、軽く伸びをする。だいぶ体が軽い。


「ここで仕事をするという約束を旦那さんとしたんですが」

「ありゃ。あの人そんなこと言ったの。仕事…仕事ねえ…。今村の女衆で集まって井戸を掘ってんだけど、その手伝いでもしてもらおうかしら」

「わかりました、ぜひ手伝わせてください」


 奥さんーーズィーという名前らしい。旦那さんはイサナ、子どもはナカマドというと昨日自己紹介されたーーと一緒に井戸を掘っているという村外れまで行くと、なるほど女衆がボーリングの機械に取り付いてあれやこれややっている。村長らしき老婦人が、事情を聞いて大きく頷いた。


「村長のドーラと言います。この度は村のお手伝いをしていただけるとのこと、ありがとうございます」

「あ、いえ、こちらこそ一宿一飯の恩が」

「男手は大体出払っているので助かりますわ。今地質調査が終わったので、ここからはひたすら穴を掘って土を運び出す作業になります。あなたには穴掘りをお願いしたいのですが」


 まともな労働の経験などないので大変だった。ツルハシで岩盤を砕いてシャベルで土を退かすのだが、体全体を酷使する作業で久々の大仕事となる。しかし、一心不乱に手を動かしていると、この所常に目の前にチラついていた悪夢のことを忘れられてちょうどよかった。そうして二メートルほど穴を掘ったところで昼になり、女衆の持ち寄ったパンで軽く昼食をとる。

 現場監督としてその場の指揮をとっていた村長が、日陰に座って休んでいた僕の隣に立った。


「ありがとうございます、ずいぶん作業の進みが早いですわ」

「お力になれているようでホッとしました」

「見たところ、ずいぶん大きな悩みがあるようね?」


 言い当てられてぎくりとする。一方村長はのけぞる僕を見てふふ、と穏やかに笑った。


「あなたがいると助かりますし、しばらくこの村に逗留してゆかれるといいでしょう。…誰かのために汗を流すと、気持ちいいでしょう?」

「…確かに」

「何かに行き詰まった時はね、誰かの役に立ってお礼を言われるのが一番効くのよ」


 そうしてまた朗らかに笑う。僕はなんだか胸が詰まって、危うく全てを話してしまうところだった。

 そうか。僕は、誰かに必要とされたかったのか。


『よかった…』


 地球が小声で囁いて、僕もまた小声で「ごめんな」と呟く。空はよく晴れて青く、穏やかに風が吹いていた。

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