第6章

第26話

 初めの百年間はとりあえず世界をぐるっと見て回ることにした。何せ時間だけは潤沢にある。

 この百年ほどは、落ちぶれた変わり映えのない日々を生きていて、自分の生にもほとほと飽いていた。それが、新しい土地に出向いて今まで見たこともないような景色、人、文化に触れるたびに、失ったと思っていた驚きや喜びの感情が沸々と湧き上がった。

 西欧諸国の昔ながらの石造りの街並みに、北欧の空にかかるオーロラ。山間部の遥先まで連なる雪を頂いた峰々、花の咲き乱れる都市郊外。


 しかし、それらを味わえば味わうほど、心の中にじんわりと虚無感が広がっていった。考えなくともわかる、隣に誰もいないからだ。


 どんなに美しい光景を見ても、美味しい料理を食べても、芳しい草木の香りを嗅いでも。それを共有できる相手がいないとこんなにも、虚しい。

 地球が絶えず僕の精神に干渉し、気持ちを読んで先回りしては色々と励ましてくれるが、血が通った生身の人間と関わりを持ちたいという気持ちが日々膨らんでいった。


 しかし、そんなこともう望んではいけないのだと、ただただ人恋しさに蓋をして顔を背けては楽しそうな、ふりをした。あれから随分精神的に成熟する気配を見せている地球にも、僕のそうした心情は計り知れるらしく、たまに悲しそうに言葉を切る。

 地球にとっては僕は、彼(彼女?)の体表上でほぼ唯一まともにコミュニケーションが取れる相手であるわけだから、かなりの信頼をおいているし好意も感じているのだと思う。しかし僕にとっては、地球はあくまで地球である。生物的に同じランクにいる生命ではないのだから、自分と対等だと思うことは難しい。

 そのような諸々の事情が理解できることから余計に歯がゆいらしく、たまに意地悪な発言を挟んでくる最近の地球なのだった。



「次は中東に行ってみようかな。あの国には嫌な思い出も多いけど、しばらくぶりにチェンの墓前に報告にも行きたいし」

『いいんじゃない。なんだかんだ三百年近くぶりだもんね、楽しんできなよ』

「…なあ。この二百年、お前を蔑ろにして悪かったと思ってる」

『何、いきなり』


 いつものように軽薄な態度を取り繕って応じるが、隣に地球がいるとすればギクリとした表情をしているであろうことが声色からわかった。


「僕はお前のこと、替えの効かない親友だと思ってる。そもそも今僕の過去を知ってまともに話してくれるのはお前だけだし」

『…うん』

「まあでも、どうしても種族差を感じてしまうのもわかって欲しいんだ。何せ僕はお前の細胞の数多あるうちの一つ、みたいな存在で、お前は僕ら人類全ての母なる星だ。同じ価値観の上では生きられない」


 核心に触れられて、地球が気まずく息を呑むのがわかった。本人もそりゃあ何度もこのことについては考えを巡らせたのだろう。このところの地球の精神の発達を見れば、人間の感情や精神の機微を事細かに把握できる程度には知性を得ているのがわかるし、それだけに僕の気持ちをあれこれ想像してそれなりに苦しんだのだと思う。

 地球にとって、最も恐ろしいのは僕という存在を失うことなのだとぼんやり理解していた。互いに愛着のある存在、というそれ以上の繋がりが僕たちを結んでいる。互いに相手がいなくなってしまえば、立ち所に孤独の淵に叩き落とされる。そういう恐怖と常に隣り合わせの生活。


『…わかってる。私も、君には真っ当に人と付き合って、真っ当に人生を謳歌して生きて欲しい』


 背の低い草木がずっと向こうの方まで生え広がっている草原に立ち尽くして、周りに誰もいないことを確認しながら僕たちはポツポツと言葉を重ねる。


『でも、君が誰かと一緒にいる喜びを再び手にしたら、いつか私のことを邪魔に思ってこの繋がりが切れてしまうんじゃないかって…最近、そんなことばかり考えるんだよ』

「お前もいよいよ思春期に突入かぁ…」

『冗談じゃなくて!』

「わかってるよ。わかった上で、僕からも言わせてくれ。僕は、もう人間と真っ当に関わりを持つつもりはない。そもそも不老不死の身になってしまって、僕の存在ももう人間と対等とは言えなくなってる。お前以外の存在に以降、情を感じることはないと思う。だから、心配するな。僕はずっとお前と共にいるよ」

『…』


 地球が啜り泣く気配がして、本当に晴れ渡った空から雨の雫が突然鼻っ柱を打つ。

 シトシトと降り注ぐ天気雨に打たれながら、僕はゆっくりと草原を歩いていった。


 この寂しさはきっと、人間で無くなろうとしている僕の人類に対する最後の未練なのだ。だったら、さっさと断ち切ってしまえばいい。これからは地球とずっと二人、生きていくのだ。


『ありがとう、フユキ』


 ポツリとつぶやいた地球の声を機に雨が上がり、空の向こうの方に鮮やかに虹がかかる。

 綺麗だ。人じゃない僕たちに相応しい、大雑把な感情の美しさ。


 道中買った果物を齧り取りながら、僕は隣にいる地球の存在を思って、笑いかけた。

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