第24話

 それから二週間、僕は遮二無二歩き続けた。

 体から溢れるように力が湧いてくる。それでいて胸の辺りがぽっかりと冷たく、再びコーディネーターの船で日本を離れて、どんどん故郷から遠ざかるたびに心臓がキシキシと意味もなく軋んだ。

 この痛みを直視してしまったら全てが終わってしまう予感があって、ただひたすら前に足を踏み出し続けた。


 夜はどうせ一人だからと適当な場所で野営したが、一晩中眠れずに指先をナイフで軽く切って、地球となんでもない雑談に興じて夜を明かした。

 地球が何を考えているかはよくわからなかったが、どうやら気を使われているようで別れた彼らのことを話題にするでもなく、現状を振り返るでもなく、とにかく当たり障りのない天候や地形の話に終始する。


 気がつくと大陸中腹の、地図にも載っていない山腹に差し掛かっていた。


『…これからどうするの』


 久方ぶりに真に迫った様子で地球が語りかける。指先から滴る血を眺めながら、僕は無感動に返す。


「何も。ただ生きるだけだ。どうせこの体じゃ簡単には死ねない」

『フユキ。余計なことかもしれないけど、言わせてくれ。私は、君にも幸せになる権利があると思う』

「そうだな」


 喉の奥から乾いた笑いが漏れた。


「僕は、もう十分幸せだ。最後に友人たちにも会えた。たくさんのものを受け取った。だから、もういい。これ以上はいらない」

『フユキ…』


 地球がなおも何か言いかけるので、指先に意識を集中してさっさと傷を治してしまう。そうして止めていた足をまた動かし始める。今は、何も難しいことを考えられなかった。淡々と道のりを行くのみである。


 気がつくと空には暗雲が真っ黒に立ち込め、ちらりちらりと雪が降り出した。すぐに吹雪になる。

 しんしんと降り積もる雪と横殴りの風の中、雪原に足跡を刻みながら目的もなく進み続けた。雪が全ての音を奪っていった。




「あれ、お客さん、どこかで見た顔だね?」


 二百年後、欧州。気まぐれに立ち寄った露店の店主が、怪訝そうに僕の顔を覗き込む。


「前にも買っていってくれたんだっけ? 俺は客の顔は忘れないんだけどなあ」

「他人の空似ですよ」

「そうかね? いや、でも確かにお客さん、どこかで…」

「それよりこの果物を譲ってくれませんか。…見たこともない形ですね」

「ああ、最近品種改良された果実なんだよ。バナナとリンゴを掛け合わせたその名も“バンゴ“」

「安直ですね」


 軽く笑って返すと、店主はご機嫌になってそのバンゴなる果物の成り立ちを話してくれる。

 第三次世界大戦が形だけ収束し、結果あちこちが焼け野原となった大陸では、もっぱら植林と食物栽培に各国力を入れ始め、荒れた土地でも育つような食物が大量に開発されては食卓に並ぶようになった。家畜もより丈夫で効率的に育つ種へと遺伝子操作が為され、わずかな餌とスペースで大量の肉を収穫できるような体制が実現しつつある。

 結果、大幅に人口と国土を失った世界も、徐々に大戦以前の賑わいと穏やかさを取り戻しつつあった。そして現在はいよいよ差し迫ってきた資源の枯渇問題に対応するために、宇宙開拓の時代が到来しつつある。


 大袈裟な身振り手振りで話す店主の話に適当に相槌を打ちつつ、主要な情報を記憶に強く刻み込んだ。現在は人との関わりをなるべく断つ生活をしているから、たまにこうして得られる市政のよもやま話は貴重だ。


 まだ三分の二ほど残りがある宝石や貴金属を質屋で換金しーー現代ではそれら宝石類もすっかり貴重なアイテムに成り果てていたから、かなり高く売れたーーそれを食糧の支払いに充ててなんとか食い繋いでいる。


 日曜市の開かれている通りを出ると、急にガラの悪くなった朽ちた街を歩いていった。

 ある程度戦災復興が進んでいるとは言え、全体の半分以下に減った人口を賄う居住区以外はこの通りすっかり寂れてしまっている。しかもその人口のさらに半分以上は難民化しており、先ほどの露店の店主のように仕事にありついてそこそこの暮らしをしている人民は全体の実に四分の一を切る。

 ほとんどの人民は畑作業や林業の労働力として二束三文で駆り出されており、世の中にはようやく平坦になり始めていた貧富の差が再び深々と溝を刻んでいる。

 大戦以前の生活を続けられているのは各国のお偉いさんか、いち早く商戦を勝ち抜いた富豪たちばかりで、多くの人民は不満を抱えながら、体と精神を酷使しながらでなんとか生き延びているのだった。


 …結局、僕には何の力もなかった。


 大戦を収束させたのは西の大国が世界中にばら撒いた最新兵器の弾痕であったし、結果多くの命と国土が炎に飲み込まれ、呆気なく散っていった。僕は何も止められなかったし、何一つ望んだ結果を導けなかった。

 ただ、日本は島国としての性質をフルに生かし、現在鎖国状態にあるそうで、この寂れた世界の中では比較的まともな生活圏としての機能を保っているようだ。きっと、キジマとマコト、エンリとリグは、真っ当に寿命を迎えられたのだろう。

 それは僕にとって、ほとんどないと言える救いの一つだった。


「もうぼちぼち根城を変えるべき時期かもな…」


 僕の独り言を地球が引き継ぐ。


『…やっぱり人里で暮らす気はないの?』

「僕みたいなのが人気のある場所にいたら、また争いが起こる」


 二百年かけて肉体のミュータント化が進行した結果、傷を負い血を流さなくても地球の声が聞こえるようになっていた。


「もう誰かを傷つけたり傷つけられたりするのは、まっぴらだ」

『…そうだね』


 この二百年の僕の頑なな態度を受けて、地球もすっかり説得を諦めたらしかった。ただ、地球の声が聞こえるのは僕と、あのエンリに助けられた際の真昼の黄昏現象で呼び起こされた数十人だけであり、その数十人ももう寿命でこの世にいない。数少ない話し相手である僕を失うのだけはごめんだというように、やれ食事はちゃんととれだの、夜は無理せず休めだの、最低限の世話を焼いてくるのだった。


 とはいえ、あれから再生体質も進行していて、今や食事をとらなくても空腹に苛まれるだけで死にはしないし、多少徹夜を続けてもただ疲労が溜まるだけ、という状態になっていた。こうなるともう死にたくても死ねない。

 以前選択肢にあった、窒息死や心臓を一息について死ぬなどの手段も実際に試してみたが、苦しいだけで命を散らすには至らなかった。こうなるともう嫌でも生きていくしかない。


 それでも、この数十年は人と最低限しか関わらないようにして、世界の情勢にも努めて無頓着を貫くようにしてきた。心は凪いでいて、今はただ淡々と惰性で生き延びている。


 いつからか安らかに死ぬ方法を求めて彷徨うようになっていった。

 もうこの世界には僕の心を繋ぎ止めるものは何もない。今は、ただただ、この永遠に続く退屈に終わりが欲しい。僕が生きる意味は、もう、ない。

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