第5話

 その翌日は都合よく土曜日、休日であった。昨晩はよく眠れなかった。キジマと話してある程度覚悟は決めたものの、そのキジマだって本当に本心から僕の言葉を信じてくれたのかはわからない。ただ、彼の言うように声の主に問いただしてみるのが一番の近道であろうことは僕にもわかった。

 キジマが「俺も一緒にいようか?」と言ってくれたものの、この友人の前で声と会話ーーつまり、キジマにとってみれば独り言をぶち上げるのもなんとなく居心地が悪い気がしてしまい、自分一人でやってみるよ、と応えた。ほっとしたように頷くキジマを見て、やはりこれ以上この友に厄介をかけてはなるまいと思い直した。


 そうして家に帰り、その日の夕飯の当番だった父親の飯を喰らい、床に着いたわけである。

 だが、先述のように結局大して眠れず、僕はあくびを噛み殺しながら風呂場に向かった。朝起きてとりあえずシャワーを浴びるのが日課である。


 ぬるい湯を浴びながら手のひらを眺めてみれば、もう一昨日の傷はほぼ完治しようとしていた。瘡蓋を剥がしてもまたあの声が聞こえるかどうかは怪しい。となれば、やはり自分で自分に傷をつけるしかないか。あまり気は進まないが。


 風呂場を出て寝巻きを洗濯機に放り込み、部屋着に着替えてのそのそと自室に戻る。工作用のカッターナイフを手に取って、それを徐に手首に当てた。

 …いや、手首はまずいか。キジマはともかく他の人間に見られた時に言い訳が立たない。本当の自傷だと思われたら結構な騒ぎになることが予想されるし、自分ではうまく言い逃れる自信もなかった。

 指先に刃を当て直し、幾度かの逡巡ののち力を込める。「ぷつっ」とごく小さな音を立てて指先の皮膚が裂け、そこからわずかに血が滲んだ。


 …声は聞こえない。


「おい。聞こえるか。聞こえてるなら応えてくれ」


 一昨日はあそこまで会話を拒んだのに、都合が良すぎるかもしれない。すぐにそう思い直して、


「この前は悪かった。できれば応えて欲しい」


 と言い直す。


『…怒ってないの?』


 数泊おいて、恐る恐るといった風のあの声が頭の中に響くのであった。


「怒ってるというか、戸惑ってる。お前はなんなんだ? 僕はどうなってる? 他の人間にこの声は聞こえないのか?」

『いっぺんに色々聞かないで…』


 思わず捲し立ててしまった。反省する僕に、声は鷹揚に告げた。


『今んところ君以外に私の声が聞こえてる人間は見ないね。他の動物だともう少し感度が高いんだけど、そもそも会話するほどの知性がないものが多いから…いいとこ犬や猫やイルカとたまに単純な言葉を交わすくらい。それである程度私も知性を得たんだけど』

「…結局、お前は何? 神様なの?」

『君たちのいう“神“ってものがうまく理解できないんだけど、違う。私はそんな曖昧な概念的存在ではない』


 考えてみれば、神ならば僕の心中すらも見通せる能力を持っていて差し支えないはずだ。こうして声に出して会話するのはほぼ初めてであるが、この声に内心の動揺はずっと感じていたから、本当にこいつが神ならもっと早く僕という「声が聞こえる」存在に気づいていてもおかしくない。何よりも、この声からはなんというか、妙な幼さを感じるのであった。神というものに抱く、老獪で成熟したイメージとは真逆だ。


『私は、星だ。君たちのいうところの“地球“かな』

「じゃあ、本当に星が僕に話しかけてきてるっていうのか…」

『どちらかというと私の独り言を君が受信してしまっているという方が正しいけれど。君は話す内容を選べるけれど、私は頭の中の内容がほぼ丸聞こえだし。不便だね。わざわざ嘘をつく必要なんかはないけども』


 いきなりの情報の大渋滞で混乱する頭の端で、何かの第六感が確かにこの声のいうことを肯定していた。理屈や理性ではなく、ただただそれが「事実である」と生き物としての本性が理解している。


「…わかった。大体思っている通りだった」

『理解が早くて助かるよ』

「いや、なんというか、もう状況からしておかしいんだから今更変に疑ってもしょうがないという方が正しいけど。なんだか嘘を言ってるようには思えないし」

『まあ、それが生き物としての本能だからね』


 こいつ、存外に色々よく話すな。そんな感情を抱き始める僕に、声は相変わらずなめらかに語りかける。


『君たちはいわば、私の血であり肉であり骨だ。私の体の一部なのだから私の考えはどこかで共有している』

「なるほど」

『で、私からも色々と聞きたいことがあるんだけど、いいかい』

「僕ばかり質問するのもフェアじゃないしな…答えられることなら答えるよ」


 その返答に、声は珍しく逡巡する気配を見せた。山のように聞きたいことがあるうち、本当に問いただしたいことを厳選していたのだろう。


『君たちは、というか君は、でいい。私のことをどう思ってる?』

「私を、っていうのは、この星をどう思ってるかってことでいいんだよな?」

『そう。君たちは随分私にひどい振る舞いをしてきた。自分たちのいわば生みの親である私に、だ。その本心を知りたい』


 なんだか大変な質問を受けてしまった。この返答次第でまたへそを曲げられて、黄昏現象や、まして空の穴現象なんかを引き起こされるとたまらない。推し黙る僕に、声はちょっと苛立ったようだった。


『本来なら君たちをさっさと滅ぼしたんだけどね、私も』

「いや、それは待ってくれ。そもそも僕の一存でそんな大変な返答、できない」

『まあ、そうか…君たちにしてみれば連帯責任だもんね。じゃあ、君の考えを聞かせてくれないか? 個人的な見解でいい』

「ううん…正直に言えば、そんなに深く考えたことがないな。地球は当たり前にそこにあるもので、意思が宿ってるって知ったのも今が初めてだし、他の人間も似たようなもんだと思う。だから平気で環境汚染やなんかができるのかもな、そこは申し訳ないと思う」

『なるほど…』


 ちょっと突いた程度の傷だったために、ここまでの短い時間で出血は止まり、傷が塞がりかけていた。それに気づいた声が慌てて付け加える。


『これからも時々話し相手になってくれるかい? 人間と話せること、本当に、その…嬉しいんだ』


 その気持ちはわからなくもない。「まあ、いいよ」と答えると、本当に嬉しそうに『ありがとう』と応じる。こいつが母なる地球だからかもしれないが、次第に僕にもこの声の主に対する愛着が芽生え始めていた。

 こうして思った以上に穏やかに、僕たちはファーストコンタクトを果たしたのである。



 そして、その夜、事件は起きた。ネットの第一報で、西の大国がこの数年敵対していたもう一方の大国に軍事遠征を開始したことを報されたのである。

 世界が、戦乱の渦に巻き込まれようとしていた。

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