第10話 愛

 砕け散るものは夢の欠片なのだろうか、ふたりだけの儚い場所、世界から切り離されたそこはひと言で表すならば現実の夢だった。

 ふたりの本音はどのようなものだったのだろう。本当の愛の形は噛み合わないパズルのピースだったのだろうか。確かめたくて、でも既にこの結界は破れていて。

 闇が溶けて空に掻き消されようとしたその時、触手は手早くヴァレンシアの右手首に巻き付いた。右利きだと見てのことだろう。事実であることには違いないものの。

「それで人の手を封じたつもり」

 触手が強く深く肌に噛み付くように締め付けられて、それでもヴァレンシアの表情は崩れない。悪魔に向ける表情など何ひとつなかった。

「甘い、とても美味しいことだね」

 言葉と共に空色の線が現れる。どこから湧いてきたのだろうか、どこから飛んできたのだろうか。全く分からなかった触手はただうねりながら空色の運命の歩みのままに断ち切られ、離ればなれ。ヴァレンシアに巻き付いている方のものは力を失って干からびたように縮んで潤いを失うものの褐色の手首に絡まったまま。

「そう、それならいいの、ついておいで」

 ヴァレンシアの両手にはいつから握られていたのだろう、二振りの剣、空色の輝きが居座っていた。

 森の闇は薄まりつつ、しかしながら何故だか結界の外にまで広がり始める。

 もしかすると結界は結果として悪魔の住処を狭めていたのかも知れない。もしもそうであるならば、生きるために罪を重ねてしまったということ。

 そこまで思考を進めつつも突然思い改めた。もしもなどではない。確実に罪を重ねてしまっていた。その罪を拭い去るために今できることは現状の解消、魔の潜む世界の崩壊に他ならなかった。

 悪魔の企みの全てを終わりにしよう、何もかもを平和そのものへと導いてみせよう。薄らとしつつもしっかりと根付いた闇はその手を広げようとしている、創造主たる人の身を魂を喰らうことで領土の拡大を行おうとしている悪魔を絶ちに、絶望の夜空を振り払い晴らす希望の青空の輝きを携えて、進む。

 森を抜け、騒がしく愉快な野菜の姿を持った悪魔たちの合唱を聞きながら平らな地、間違いなく何年もの時を過ごしてきた大地を進む。心地よいと思わせる程度に耳障りな不揃いの合唱は、まさにこの世界に人々を呼び込むとしている音の連なり、最も人々の心に違和感なく入り込むタチの悪い誘惑と成り果てていた。

 この空は滑り込むように落ち着きを澄み渡らせる。妖しき誘惑の演出に目を奪われそうになりながらもこの幻想に現実を塗りつけて無理やり前を向く。

 空色の瞳は地から上空を、闇色の空を見上げる。

 大きな触手は今にも大地に触れようとしていた。山羊の悪魔の本体は上空から顔を出し、世界に魅惑の穢れを、程よい居心地を空気に漂わせていた。

「あれを倒すなんて」

 届かない、その手に収まるちっぽけな青空では決して追いつくことが出来ない。分かり切っていた。

 このまま絶望に沈んでしまうのか、両手に握り締められた空に影が走ろうとしたその時、その手から力が抜けて腕が振り子のように揺れようとしていたその時、聞き覚えのある声が響いてきた。

「まだ、諦める場面じゃねえぜ」

 顔を上げたそこに立つ人物。右腕を包帯で覆い隠しておきながらも堂々とした佇まいを見せつけるやつれた男。彼の年齢は幾つなのだろうか。顔に刻まれた数々のシワや潤いを失い白い粒のような髭が残された姿。どう少なく見積もっても五十もの年は生きてきただろう。それだけの年期がそこにはあった。

 鈍色の目が年の経過をも上回る生気の輝きを纏って鋭く射し込む。その目がヴァレンシアの心をしっかりと希望へと導いていた。

「妹が大事なのだろう、失ってはいけないモノへの想いは失っていないか」

 堂々とした声、刹菜を思い起こさせる発言、きっと刹菜の父親なのだろう。仲良い人物の父というだけで、その事実ひとつだけで、説得力のないはずの説得感が力を帯びてくる。

「悪魔は俺が引き受ける、悪魔憑きの掃除屋の俺がな」

 大した力を感じさせない身体、心だけが立派でやはり信用に値しないはずのモノ。立ち向かえばすぐにでも崩れ去ってしまいそうなはずの彼には不思議な気配が宿っていた。

 気が付けば根拠の無い考えに寄り添ってしまっていた。

「大丈夫だ。俺はここ二十年以上、毎日死に損ないだからな」

 それはいいことなのだろうか、生きていると言えるのだろうか。言葉だけでは伝わらないそれは、あの瞳の輝きあってこそ完成されるもの。

 あの男は間違いなく生きていた。正真正銘自らの足で生の道を歩んでいた。

「今日もまた死に損なってやる。殺せるものなら殺してみろって話だ」

 そう述べた直後、男は、刹菜の父親の満明は、右腕に巻き付けていた包帯を外し始めた。ゆるゆると落ちるようにたるみ、外される包帯。そこにある腕は人の姿をしていなかった。

「俺は〈山羊頭の魔神〉と立ち向かった末にこうなった、そして山羊の悪魔と闘う」

 次に足された言葉についつい笑い声をこぼさずにはいられなかった。

「共食いだな」

 そう語りながら悪魔の方へと走り行く姿はまさに男。堂々たる態度を崩すこと無く、曇りきっても尚眼の中に宿る鋭い輝きは睨みを利かせるだけで敵の意志を切り裂いてしまえそうな程の力を持っていた。

「殺せるものなら殺してみろよ、所詮は人に依存しなければ生きてけない幻想が」

 そう、相手は飽くまでも幻のようなもの、悪魔など、人の信仰なしにはそこにいられない。

 この世界の中に蔓延る闇を叩きながら地に転がる悪魔を踏み潰し、風と共に不快な声を上げながら舞う野菜の群れを右腕で振り払い潰しながら進み続ける。振るわれる右腕は風をも薙ぎ払い、己の動きにてもたらされる風こそが正当なる道だと主張していた。

 そこにある眼の鋭さは悪魔の絶望をも打ち壊すに至るものだろうか。

 トマトは頬に飛び散り、血の化粧を装った。カブは服に当たっては流され肌を叩いては仄かに赤い痣として残される。満明の顔は歪められ苦痛は男らしさを強調していた。

 そうした様を目にして数々の家よりも大きな山羊は満足感を表情と声にして迎え入れた。

「はっ、俺が苦しむ姿がそんなに嬉しいか、イケてるだろう」

 強がりなのか危機感の水準がマトモではないのか、分かりやすい形として現れた脅威に対してすら軽い言葉が口をついて出て来る。満明の中では男は苦しみの中でこそかっこよくなれる、永遠の不幸に覆われながらもそれを背負う姿こそがオトコという生き物の真髄なのだという信仰が焼き付いていた。信じて疑わなかった。

 きっとヴァレンシアは妹の場所へと向かっただろう。顔ひとつ向けるまでも無く判断を下す。彼女が至ってまともな人物であればこの会話の流れの中で未だにそこに立っていると言うこともないだろう。

 飛んでくるカブの破片がジーパンのポケットからはみ出した鉄を叩き、衝動は満明にまで伝わっていく。

 ヴァレンシアが結界を壊し悪魔と対峙した時、空色の剣を握ったとき、宙から落下し地を滑ったあのハンマーを満明はしっかりと拾い上げてポケットに仕舞っていた。何が役に立つか分からない状況では動きの妨げにならない限り多くの武器を備えておきたかった。そうした想いが生み出した衝撃が見事に満明を叩いて痛みは短い悲鳴へと変換される。

「あのオヤジの呪縛め」

 拾い上げたこと、自分の行いによってもたらされたことを持ち主に押しつける。この上なく格好悪いことだと自覚しておきながらも戦いの場では気持ちを吐き出すためにも咄嗟に口に出してしまっていた。

 鈍い痛みが熱となって気持ちの悪い感覚をもたらしながらも突き進む。野菜の群れは満明をご馳走だとでも思っているのだろうか。裂け目のような口を開いて飛びついてくる度に満明は食材としてあるべきモノ共を振り払って形を崩す。

「だれが食らう側だ、ヒト様に食われてろってんだ」

 軽い口は鳴り止むことなく魑魅魍魎の祭り囃子に似合わぬ旋律を奏でてみせた。こうした動きは悪魔の眼にはどう映っているのだろう。悪魔の耳はどのような響きとして捉えているのだろう。

 やがて満明の身は標的の悪魔の何歩手前か、目と鼻の先と呼ぶには違和感を抱かせるサイズ感と距離の認知の歪みの中で、しかしながらそうとしか言葉を付けられない所にまで来ていた。

 どうにかこうにか苦しみを振り払って何だとどうだと言いつつも無傷を貫いていた満明の肩に突如鋭い痛みが幾つも連なって走り始めた。その痛みはひたすら蠢いて満明の肉を抉ろうと、血をまき散らそうとしていた。

 必死に噛み締めようとしている野菜に右腕の闇そのものとしか言えない色を、ヒトのモノではない拳をぶつけて鋭い笑みを光らせる。

「無理に食おうとするな、力が足りてないぜ」

 痛みによって意識は更に明瞭になっていく。勢いは更に増しては山羊の悪魔の方へと向けられる。

「よお元凶、俺を何年ここに閉じ込めた」

 それはどう足掻いてもせいぜい数ヶ月、その間恐ろしいことに栄養のひとつも奪われなかったということ。しかしながら悪満の呪縛による幽閉は十数年もの時の経過を錯覚させていた。決して許すことの出来ない苦痛に満明の拳は震えていた。

 山羊は高らかに鳴き叫び、畑にて愉快な様で踊り続ける野菜たちを集めて放り投げた。

 幾つにも纏められ、更に追加され、大きさは増していく。次から次へと勢いつけて足されることで野菜は更に加速していく。

 鈍色の眼はそんな様を見て、鋭く気取った笑みを飾ってみせた。

「力技は好きだぜ」

 言葉と同時に飛び出す拳は野菜の群衆を打ち砕き、視界を色とりどりの身体や汁で覆っていく。

「だが足りなかったみてえだ」

 そこで言葉は途切れ、右腕がうねりながら勢い任せの一撃を放つ。向かってきた何か、拳と対称にあるそれは人の目では見透かすことの出来ない闇の色を持った触手だった。

「はっ、やりやがったな」

 余裕は失われない。幾つの脅威が襲ってきたところで考えるよりも先に力でねじ伏せる。そんな彼に心理戦などという小手先は通用しなかった。

 右腕に山羊頭の魔神の欠片とも呼べる闇を宿し日頃は包帯で抑え込んでいる満明とこの世界に訪れて以来、この国に戻って以来ずっと同じ場に縛り付けられていた山羊の悪魔、ふたつの存在を見比べた上での満明の認識としては恐れる相手ではなかった。

「所詮はほぼここしか知らない悪魔だろ、しかも学んだことも戦績も大したことないようだしな」

 大きく出ることで悪魔よりも優位に出ることが出来る、その程度の考え方。確かに悪魔に屈しないことが大切ではあったものの、慢心は良くない。軽視する視線、軽い感情そのものが人々の心の中に芽生えた悪魔と化して襲って来ることも大いにあり得た。

 満明の眼はしっかりと山羊の悪魔を見ていた。しっかりと見定めているつもりだった。

 相手に向かって攻撃を仕掛けよう、そう思い足を動かそうとしたとき、己の中の不注意を自覚してしまった。

「まさか」

 動かない足、刻めない歩みは感覚をもたらさない触手によって形作られていた。固められたそれ、闇色、黒を通り越した色を宿した山羊は高らかに鳴きながら近付いてくる。

 喰らおう、消し去ろう、人の身はあ肥料に変えてしまおう、そんな想いを見て取ることが出来た。

「参ったな」

 両腕を挙げて弱き言葉を相手に吐き付け、沈黙に伏すこと三秒間を開いて閉じられていた口を再び開く。

「と、言うとでも思ったのか」

 至って冷静。あまりにも冷たい金属を思わせる感情の取り払われた声はもはや山羊の悪魔にさえ見透かすことの叶わない代物だった。

 満明はゆっくりと口を開き、呪われし声で黒い霧に覆われた言葉を放つ。

「目の前に聳えし濃厚なる闇よ、この世界に蔓延りし神聖なる闇の中に〈分散〉されよ」

 闇からのお告げ、この世で最も穢れしモノ、神を見下し踏みつけることの容易い民族、現在という時において信仰の残されていない日本人には容易い悪魔の否定。

 それがたかだかこの程度のひと言で執り行われていた。足元の触手は砕け散るようにボロボロと崩れては空気に溶け、目の前の悪魔は崩れゆく、かのように思えた。

 しかしながら〈分散〉の術式、現実という世界に幻想を帰す刃は途中で掻き消された。

「そうか、たりな」

 口にした途端、数々の触手が満明の身に纏わり付き、身を締め始めた。この世界において何者こそが優位に立っているのか、どのような人物こそが強く生きる権利を有しているものか、その示しを行うように、相手に恐怖という名の刻印を焼き付けるように、それは満明というか弱き命を奪い去ろうとしていた。

 動悸がする、身体が重い、鼓動は弱い、抵抗などもっての他。

 目の前の山羊に敵うはずもない。それは今まで遊んでいただけに過ぎない。今も尚本気ではない。悪魔の余裕に満ちた無表情がそう語っていた。

 ひとりでこの大物を闇に帰そうなど存在の強さを見誤っている。

 山羊の視線がそう告げていた。

 現実を思い知らされて打開する術を見失って、そこに残されたのは曖昧な意識と失われつつある意志のみ。身体の自由も得られなければ〈分散〉も行使することが出来ない。

 締め付けられて意識は更に朦朧とし、ただただ負けてはなるものかという想いだけが残されて。

 そんな時、満明の脳裏にある人物が浮かび上がった。意地の悪いニヤけ面、負けてなるものかという意志と紐付いた大切な人物。

 それは希望の象徴、可愛くもなければ美しさも佇まいの気品も感じさせない世界で一番可愛い女ふたりの内のひとり。

 もうひとりは目の前の椅子に腰掛け手帳を開きながら優しく微笑みかけていた。

 これは走馬灯なのか。

 ふと思った、死を想い始める。力は入らず己を地に縛る力は更に密度を増して、酸素すら取り入れることを許さなかった。

 そんな中、優しい幻影はすっと立ち上がり、その手を差し伸べて声もなくただ口を動かす。

 その動き、眼の中に宿る願望。満明には全てが手に取るように分かった。

 生きて帰ってこい、まだ死ぬ時ではない、それは寿命が尽きる時。

 打開策など殆ど残されていないそこ、満明のポケットからはみ出た紙がやがて身を離れてひらりひらりと舞い始める。それこそが満明最後の希望の一手だった。

 札は輝きを放ち始めて悪魔の存在を透かし始めた。闇はほどけて満明を縛るものは細くか弱く凡俗なものへと成り下がる。

 一瞬だ。

 この時はただの刹那。希望をつかみ損ねてしまえばそれこそ絶望しか待ち受けない。

 ぽっかりと空きつつも浮いている。隙間、自由に動けるようでありながらも解放されたわけではない。そんな曖昧な闇から手を抜いて、ポケットに収めていたハンマーを取り出してただ一度、素早い打撃を加えた。

 目にも止まらぬ速さと計り知れない希望の衝撃。

 それがもたらしたなけなしの自由は満明の身体を触手の呪縛から解放した。鈍色の瞳に宿る輝きは曇り、この時ばかりは決して明るみに染まることがない。

「死に損なうだけで精一杯みたいだ」

 討伐などと大きな欲に溺れることを許さずに動き続ける。その択は死を意味していた。

 目の前の悪魔に背を向けて、逃げ出す。それはっきっと悪魔の思うつぼだろう。山羊の顔の裏で人とあまり変わらぬ心で嗤い続けているだろう。心底心地の悪い存在。

 それでも構わずに逃げる。時たま枝を折り放り投げ、悪魔の降臨に際して壊れた家から飛び出したシャベルを投擲武具として扱い、ささやかな抵抗を見せつつ無駄にも見える駆け回りや触手の攻撃に対して悪魔の腕の一撃をぶつけることで極力悟らせないように逃亡を計る。

 悪魔はどのように考えているのだろう、どのような行動を取るのだろう。想像も付かせない。急に地面から野菜が生えてきたと思えばまさに悪魔の生誕の瞬間であったり木々の隙間からタコの如き触手、恐らくは植物の根のようなものが本来の形だろう。そうしたモノが彼の方へと向けられる。

 そうしたもの全てをただただ悪魔の右腕による一撃で防いだ後に更なる行動を連ねる。目の前の悪魔を倒すことなど到底不可能。ならば動きを封じ込めるという計画はどうだろう。己の中で展開される疑問を繰り返し、殆ど壊れた家から散った鎖を手にして残された壁に身を寄せ鎖の長さを確認する。そうした道具たちが人々の生活を物語るとは言っていたものの、見るまでもなく分かり切ったもの。田舎という風景と〈西の魔導士〉という名を冠した彼女への信仰だけで全ての過去の概要を手に取ることが出来た。

 きっと彼女を讃えながらも心の底では畏れ、尊敬という名の態度を偽りの色として塗り実際は村八分に近しい存在として扱っていたことだろう。

 これからそんな魔法から遠ざかって生きてきていた人々が扱っていた道具を魔法に関する戦いの為に用いること。死人に口なし眼も無し、悪魔に殺されてしまった以上はどのように扱おうとも見ない聞かない触れない。生きた者の自由と言うことだった。

 長さを自分の左腕基準で測り終えた満明は悪魔に向けて突き進む。相手も何を考えているのかさっぱり理解できないだろう。

 そんな中で接近を終えては鎖を悪魔の立つ位置に近いところで木の幹に打ち込み杭を突き立てヴァレンシアが持っていたあのハンマーでを打つ。悪魔が襲ってきたところで触手にさえ気をつけていればどうと言ったこともなく、満明の思い通りに事が運ぶ。

 しっかりと固定された鎖は始点を基準に伸ばされ引っ張られ、それでも悲鳴を上げることなくしっかりと着いてきていた。抜けてもらっては困る、ただその一心で視線を一瞬だけ傾けて、更にひとつまみの企てを加えて目を逸らす。悪魔のことなど何も視ていないように見えただろう。一瞬の不注意、ぽっかりと口を開けたつけいる隙だと思ったことだろう。山羊の悪魔は根の如き闇の触手を勢いよく突き出す。

「今だ」

 呟いて、集中の合図として己に叩き付けて。

 続けて鎖で触手を巻き付け思い切り引っ張った。悲鳴を上げるだろうと想像していたものの、なにひとつ痛くなどありませんよといった態度を堂々と示しながら悪魔は反応を示さない。

 もしかすると感覚が鈍い器官なのかも知れなかった。

 そこに繋ぐ手順、近くの幹に鎖を括り付けて小さな杭を打ち込みハンマーによる打撃を与える。木に傷を付けて満明の命に付くかも知れない傷を防ぐ。ただそれだけの意志で杭を打ち付けては触手の動きを封じて。

 更に鎖に縛られた触手たちにも丁寧に杭を、鎖の隙間に打ち込むことで鉄と謎の物質の混合を強要した。抜け出すことも叶わず凡人如きの戦法にも敵わない。人という一族が過ごした年月によって形成された知恵や思考、生活態度に適うにはあの悪魔がこの世界で歩んできた年月はあまりにも浅すぎた。

 満明は家の方へと戻ると共に更に鎖を拾い上げ、更に触手を封じにかかった。あの触手はどうにも勢いと人を貫く意志はあれども力はそれ程なく、おまけに精々木の幹と同程度の固さしか備わっていない。

 それを知ってしまえば安心感が羽ばたき始める。

 地面は悪魔が降り立つ際に飛び散った畑の土に覆われてしまっていたがために柔らかな層が出来ていることを確認して再び木の幹に杭を打ち付け結び付ける。

 そうして再び山羊の悪魔の触手を纏め上げて二つ目の戦力削減を行使する、同じ作戦が二度も通用していた。

 二本の木の幹に結び付けられた鎖、更に別の二本に結び付けられた同じもの、たったそれだけで悪魔の武器を半分以上封じた様が見て取れた。

 あとはアンナ、ヴァレンシアの妹、全ての元凶が悪魔を帰す儀式を行うか悪魔がこの地に留まるためのピンという役割を終わらせる、引き抜く、すなわち殺してしまうことで無事に解決することだろう。

 ヴァレンシアがどのような策をとるのか想像も付かなかったものの、きっと殺しはしないだろう。一体彼女に妹を説得出来るだけの話術が備わっているかどうか、全てはそれにかかっているようにすら思えた。

 満明の方もまだ油断は出来ない。抱いた慢心ひとつで場面が裏返しにまでなってしまう恐れがあった。悪魔がどのような力を残しているのか、残された触手で殺されてしまわないか、気を付けなければならなかった。

「俺は距離を取らせてもらうぜ、まだ充分に生きることすら演じきれてねえんだ」

 彼の言う生きるということ、朦朧とする意識と網膜に映された幻影の中に答えがしっかりと芽生えていた。

「真昼と刹菜との関係はお前なんかに壊されていいほど安いものじゃねえんだ」

 それは仲の良い家族という周囲から見てみればどこまでも安っぽい関係だった。当人や思い入れ、そういった色彩がなければそこに真の価値を見出すことは出来ない、そんな関係。

 満明は後ろへと下がる。足を引きずるように後ずさり、警戒と時間だけは稼ぐという想いを持って悪魔の瞳に入らぬ所を目指して。

 肝心の悪魔はただ死ぬこともなくかと言って動くことも出来ずただその地に縛り付けられるのみ。高らかに声を上げては辺りの地面を柔らかく、畑の質感へと転じてはみせるものの木々を揺らすには至らない。

 倒すことは出来なくとも、無力化には成功、後はただヴァレンシアの方へと向かうだけ。

 騒がしく淀み歪む空気に耳による警戒を奪われながら後ずさる。

 そんな彼の油断のつもりはなかった空白の隙、想定外の油断が足元の異様な感覚を生み出していた。

 妙に柔らかで腐った果実のような踏み心地。

 そんなものに足を当てて満明は驚きを覚えた。

目を向け、そこに潰れたトマトを見て。

 赤き身体から湧いて出るひび割れた叫び声を右腕で潰してみせた。

「ビビらすな」

 そうして満明は悪魔の中心地から姿を消し去ったのだった。


 満明が悪魔を引き受ける、戦いを担うと宣言してすぐさまヴァレンシアは駆けだしていた。最も心配な彼女、絶対に救いたい君は今どうしているのだろう。敵でありながら大切な妹、孤独と共に姉を待ち続けたひとりの少女を見捨てておくことなど決して出来ない。

 ガヤガヤと耳障りな旋律を奏で続ける悪魔たちの声に耳を叩かれながらヴァレンシアは進む。

 不快なメロディたちはどこまでもついてきて、しかしながら一度の遭遇もありはしない。

 これまでの人生、高校進学からのヴァレンシアと今のアンナ、自由に空を舞うように生きるヴァレンシアと親の言いつけで無理やりチカラを手にして、強大なチカラを持っても尚その地に縛り付けられるアンナ。状況はまさに正反対だった。

 このまま彼女をその場に置いていくのはあまりにも酷。きっと住民たちもアンナのことなど許してはくれないだろう。仲間を殺された恨みや憎しみは正義を強めて行動のブレーキをも殺してしまう。

 目の前にいるのが同じ『ヒト』なのだという事実も罪と正義という言葉を前にしては堂々と立つことすら叶わない。

 ヴァレンシアはその手を差し伸べるために進む。どう足掻いてもこの土地では不幸にしかなれなかった少女を、人のことを道具としか想うことの出来ない親によって無理やり与えられた役目である〈山羊の魔女〉の悪行を終わらせなければならない。始まりから今に至るまでの道のり全てが呪われていた妹のいる場所、きっと自宅だろう。動くことなど心が許さないままただただその場に立っているだけだろう。

 農地は遠ざかる、残り続ける家たちもヴァレンシアの視界に入り込み、近付いては後ろへと流れ去っていく。光景は例え変わりがなくても何もかもが過去、見つめた時点で、網膜に焼き付いた時点で全ての出来事は過去。流れを止めることなど決して出来ない。

 いつになく素早く駆ける。魔力を振り絞った疾走は学校の授業では決して教えてくれないこと、体育の授業中には決して振り絞られることのないチカラ。

 魔法使いは決してスポーツの世界に入り込んではならなかった。本気を出してしまえば筋力とは別のチカラを無意識に混ぜ合わせてすぐさま時の人へと変わり果てては不公平を栄光に変えてしまうのだから。

 向かうときは長く感じられた道も今では過去のもの。ヴァレンシアの目の前に立ちはだかるドアを開けて、すぐさま中へと身体をねじ込む。

 そこからはゆっくりと進み、台所へと向かう。

 彼女は食卓にいた。ヴァレンシアと同じ姿、同じ声、特殊な人物でなければ同じ瞳を持っているようにしか見えない彼女は赤い球体を、トマトの姿を持った悪魔をしっかりと抱き締めて腰掛けていた。

「そう、トマトちゃんもひとりぼっちだったの」

 何を語り合っているのだろう、耳を澄ますと共に柔らかな雰囲気を纏った鈴のような笑い声がこぼれ落ちた。

「私もしばらくひとりだったし、今もそうかも知れない」

 悪魔を可愛がりながらそこにいる姿はまさに悪魔に取り憑かれた魔女。そんな姿を見てなどいられなかったヴァレンシアはアンナへと近付く。

 一歩、また一歩、近寄ったヴァレンシアは風の乱れを感じて立ち止まる。驚きに動きを止めた彼女の喉元には闇色の触手の存在があった。闇の主張はヴァレンシアが近付くことを許してくれないそうで、ここでも闘うしかないのだと想いを無理やり引き締めた。

「悪魔め」

 空色の剣は両手に握られて振るわれる。戦いの音が静寂を打ち破っているはず。しかしながら一度たりともアンナが振り返ることはなかった。

 喉元の触手はすぐさま断ち切られ、山羊の悪魔の言葉なき悲鳴が響く。この存在は人の言葉を話すことさえ出来ないのだろうか。きっとそうなのだろう。

 山羊の悪魔、先ほど空の上に見たあの隕石を想わせる大きさのそれをヒトと同じサイズに縮めたようなもの。ミニチュアといえば響きは良いが呑気な言葉を被せていられるほど楽しい状況でもなかった。

 山羊の悪魔は耳障りな声を闇の霧とともにまき散らしながらただただ触手を伸ばしている。こればかりは立ち向かい払いのけるほかない存在。

 空色の意志を空気中に鋭く放り込み、剣は鮮明な跡を空間に残す。染まり行くこの場所、そこに立つヴァレンシアは山羊の闇を消し去る希望となれるものだろうか。

 剣を振るいながらヴァレンシアは太く低くしかしながら鈴を想わせる声で愛に満ちたその名を呼ぶ。

「アンナ、アンナ、気付いて」

 それは果たして見た目通りの距離なのだろうか。すぐそこにいるはずなのに、声は行き渡らず手は届かない。眼には映らない壁でも立ちはだかっているのだろうか、それとも立っている世界そのものが異なるのだろうか。

 何故だか遠く果てしない処にいるように思えていた。

 山羊の悪魔、あれを倒さなければ状況は進まないのだろうか。ヴァレンシアは伸びる触手を次から次へと切り裂き、飛んでくる野菜たちを薙ぎ払う。トマトは切られても尚肌を刺す液体となって降りかかり、キャベツは命果てても舞い続けて身体を蝕もうとする。

 山羊は闇色の身体を散らしながらヴァレンシアへと向かって突撃を実行した。

 その目には幾つもの山羊が重なりながら整列しているようにみえて、どうにか壁の方へと飛び退くことで回避する。

 焦りは思考を奪い去る。ヴァレンシアは空白の一瞬を後悔に使っていた。

 当たってでも斬っておけばアンナの傍に寄れたかも知れないというのに。

 それは真実か嘘か、若すぎるが故の過ちなのか。

 当たれば一撃死など分かり切っていることだった。

 全力を尽くした山羊は力を込めながらヴァレンシアの方へと再び突進すべく振り返る。あれを殺すことなどきっと出来ないだろう。出来るのであればそれこそ神の類いか余程人から離れた人。

 飽くまでも人の範囲内に収まるヴァレンシアに悪魔を完全に打ち破る手段などあるはずもなかった。エクソシストなどと呼ばれし悪魔と立ち向かうエキスパートたちですらいるべき場所へと追い返すことが関の山だというのに、そんな存在を魔法が使えるだけの一般人が軽々と狩る事など出来るはずもなかった。

 そこにいる、接近を開始する。立ち向かおうと剣を構えるものの、不可能なことなど見えきっていた。

 ここに対抗する手段、一閃の軌跡を浴びせるために目の前のモノに対してどのような動き方が必要だろうか。地面の方へと、山羊の直線上から離れるように飛び込んで突撃を躱す。

 その行動の時点でようやく戦術の扱いの機会を見つけ出した。

 悪魔は再び振り返る。その素早さは見事なもので、気を抜いてしまえばすぐさま居場所が地獄へと変わり果ててしまっていただろう。

 相手は人を超える存在とは言えど動きはあまりにも単純で、それこそ本来の動物以下の知能しか持ち合わせていないように見えた。それを今度はギリギリの位置で躱す。風はヴァレンシアの身体を薙ぐように強く吹き付けて黙ることを知らない。飛ばされそうな身で、二本の足でどうにか踏ん張って床が軋み続けることにもかかわらずただそこに立ち続ける。

 そうして耐えた永遠に見えた一瞬を経て、ヴァレンシア・ウェストの希望は勢いよく振り上げられた。

 空色の瞳が捉える相手、空色に染まる無、空に飲まれ夜が明け行く闇。空間はひび割れて、散っていく。しかしそこに繰り広げられた新たな空間の色彩は先ほどと寸分の変化も見られない。

 殺すことも帰すことも出来ないその一撃は悪魔の計らいを打ち破ることで精一杯、しかしその微かな輝きだけで充分だった。

「アンナ」

 再び愛するあの子の名前を呼び、抱き締めに向かう。きっと壁はない、そんな確信を込めてアンナの方へと飛びつきトマトの姿をした悪魔を抱き締める彼女を後ろからそっと抱いて言葉を向けた。

「無事で良かった。今から終わりにしよう」

 そんな言葉もアンナの心には響かないのか、冷たく燃える紅く沈んだ目を向ける。

「嫌だ、ヴァレンシアひとりで抜け出せばいい」

 そんな言葉にどれだけの効果があるのだろう。どれだけ鋭い切れ味を持つのだろう。アンナは更に言葉を吐き出し続ける。

「私は確かにアナタを愛してる、けど」

「嫉妬と憎しみが混ざってる」

「分かってるじゃない、だったら」

 続きは途切れて声にすらなっていなかった。大人だと思っていた彼女が今この時だけは子供のように見えた。同じ姿がどこまでも小さく見えて仕方がなかった。

「嫌だ」

 そんな妹に対して姉もまた、駄々をこね始める。

「愛がそんな綺麗なことじゃないってこと私は分かってる」

 いかに頭の悪い魔法使いとは言えどもその程度のことは既に分かっていた。

「でも、愛し合いたい」

「そんなのひとりでも」

 そんな言葉、心無き音色はこれ以上靡かせない。アンナが奏でる苦い響きを閉じてヴァレンシアは言葉を紡いでみせた。

「故人を愛することは出来ても、死人と愛し合うことは出来ない」

 このまま放っておいては先が長くないことくらいは分かり切っていた。このまま終わり、関係の綱は、運命の赤い糸どころか命を運ぶ道すら断絶寸前。

 そんなことをヴァレンシアが許すはずもなかった。

「だから、アンナを助ける、居場所がないなら私と一緒に来て」

 それは堂々たる告白、放っておけない相手に差し出した愛の言葉。

 アンナは沈黙に手を染めて立ち尽くす。トマトの姿をした悪魔を見つめ、蔕の帽子をなぞりながら空気の静寂に同調し、三秒を費やしてようやくヴァレンシアの瞳へと目を移して答えを口にした。

「ええ、ご一緒させてもらうわ。大丈夫、どんなに暗い感情に飲まれてもアナタのことは大好きだから」

 交わる紅色と空色。間を取った夕空さえ許さない対極の色合いだったものの、ふたりの間では何故だかとてもよく似ているように感じられていた。

 そんなふたりの目の前に触手がうねりながら近寄り始める。静かにしかし確かに。大きな脅威として気付かれてしまわないようにそっと。

「それで隠れたつもりか、気配がうるさい」

 空色は遠くへ、届くはずのない触手を見事なまでの美しさでふたつに裂いてしまった。

「アレは死なない、だからアンナが強くなるように契約し直して」

 言われるがままに動き始めるアンナ、返事など首を縦に振るだけ、ただ一度のそれで充分だった。

 歩き始めて家の外を目指して、身を家の壁の向こう側へと移して。進められゆく足は納屋へと向かって行った。そう、魔法関係の本の内、自分に関係しそうなものを選んで隠したのは他ならぬアンナだった。

 家の外に出ると共に腕の中で大人しくしていたトマトの悪魔が笑顔を浮かべる。闇の空の中に不自然にぽっかりと空いた昼空の色、埃っぽい空間から出られた開放感に嬉しそうな声を上げる。

 この子は悪魔の核となるアンナを見守るように、退屈を教えないように、この地に舞い立ったかのようにアンナの腕の中に収まり続けていた。

「アナタのおかげで退屈せずに済んだ、契約後もよろしくね」

 トマトは頷いてただそこにいるのみ。

 アンナは納屋へと足を踏み入れて農耕具を除けることで数冊の本と再び向かい合う。そこにある本の中から怪物、アヤカシや悪魔といったこの世ならざるモノとの契約について綴られた資料を手に取り、家に戻る。

 ページを勢い任せに捲ってはこれではない、それでもないと言いながら手早く素早く迅速に、速い以外の言葉を付けることを許さない勢いで目を通し手を動かし、この状況を切り開く一手を探していた。

 そんな彼女の後ろではうるさい音を立てながら駆けるヴァレンシアと空色の軌跡に染まりながらも己のチカラを誇示する悪魔の戦いが繰り広げられていた。決して死なない、人が疲れても尚彼らは平然とした顔で、今来たと言っても疑わないほどの余裕を持って襲ってくる。

 ヴァレンシアのこれまでの生活、田舎で過ごした幾つかの夜。そこで持ち続けた感情が顔の端に浮き出ていた。疲れに浸り、緊張があったのだろう。

 このままではヴァレンシアも長くはもたない。

 見たままの想いを描きながら資料を捲って行くものの、そこに手がかりなど書かれていない。かつてどこかに記した通り、タチの悪い召喚方法。神話や民話に書かれる程の名前すら持っていない悪魔であるがために誰かが記すことも無かった。そもそもアンナが人類史上初の遭遇という可能性すら残されていた。

 本を捲り続けてやがて辿り着いた固くて分厚い紙、先ほどの半分程度の展開しかされていないそれ。裏表紙を見つめながらアンナは大きな落胆をどこでも無しに見せつけるように解き放っていた。

「悪魔に関係する何か、そこに契約に必要なものを組み合わせて入れて」

 突然飛んできた鈴のような声を聞いて目を見開き顔を上げる。

 そこに立っているのは剣で山羊の身を切り裂き触手を受け止める姉の姿だった。

 苦しそうな顔に空色の輝きを歪めながらも言葉を響かせ伝え続ける。

「結界を破るために作った薬の余り、そこに契約に必要な成分を入れて」

「そんなものでいいの」

「やるしか無い。相手が理解できる形の成分に言葉や圧を込めた薬」

 迷っている時間など無かった。アンナの下腹辺りに得も言われぬ虚無感が走り始める。

 それと同時に山羊の悪魔が身を膨れ上がらせて、髭を伸ばしてヴァレンシアを壁に叩き付ける。

「早く」

 言葉に突き動かされるままにアンナは煮詰められた薬の隣に本を置いて悪魔との契約の基本情報のページを広げる。そこに綴られた数々の情報の中から、幾つかの薬やアロマ、混合液などを用いる契約法方に眠る共通項を探した数秒の後、アンナの指は本を閉じ、身体は台所へと向かって行った。

 向かった先に収まる品々をその手で探る。調味料やハーブティーたち、パセリやバジルと言ったハーブを手に取り鍋に中へと放り込むように加えてヴァレンシアの方を見る。腕に巻き付いたタコの足のような触手、服に付いたキャベツの破片たちを求めて近付いていく。

 空色の線と黒々とした触手の交わる戦場の線上に伸ばされる手は線状の横槍。

 ヴァレンシアがアンナの接近と目的に気が付いて悪魔を無理やり押し込むように力を加えつつ後ろへと飛び退いた。

 相手はなにひとつ痛みを感じていないのか表情の歪みひとつ見られない中でヴァレンシアは剣を床に突き立てて触手を剥がしてキャベツを差して地を滑らせる。

 アンナの方へと行き渡るのを確認した末にヴァレンシアは再び剣を手に取り悪魔の方へと肉薄を試みる。

 いつまでも澄んでいるあの剣は果たして何を用いて作られているものか、想像も付かせぬもの、きっと科学の世界に住む者たちが架空の物質だとか現実的で無いと嘲笑するようなもので構成されているのだろう。彼らの知らない神秘の世界は今、この場所で繰り広げられていた。

 ヴァレンシアの腕の動きは滑らかで、剣は空を舞う翼のように軽やか。

 そんな姿に見蕩れている場合ではないと己の心に叩き付けて鍋と向かい合う。入れるものは触手とキャベツ、それだけで足りるものだろうか。

 不安に駆られたその時のこと。紅い球体が跳ねながら鍋の縁へとよじ登り、口を大きく開く。

 続いて汁を、種子の混ざった独特なあの果汁を吹き出して鍋の中へと注ぎ込んでアンナの方へとすり寄る。

「ありがとう」

 疲れを隠すこと無く赤い悪魔は目を閉じ眠り始めた。よく見れば少しだけ萎れてしまっているだろうか。あとで水をあげよう。そう誓いながら鍋を火にかけて触手をぶつ切りにして四片入れてキャベツも放り込み、煮詰める。

 ヴァレンシアは今も尚闘いを続けている。アンナのことがそれ程までに大切なのだろうか。彼女はどこまでアンナの為に身体を張ることが出来るのだろうか。想いは無尽蔵のようにも想えていた。

 やがて煮込み終える。その瞬間の訪れと共に木のカップを取り出して注ぎ込む。もはや火を消すことすら忘れてしまっていた。

 湯気が立つ、紫色に色づき輝く湯気が昇り、天井にまで広がる。そんな姿を目にしながらアンナは怪しさ満開の薬を一気に飲み干した。

 熱は舌を焼くように己の温度を主張し、身体に干渉を企む。身体全体が震えていた。身体がヒクつく感覚は初めてで襲ってくる吐き気は内側からドンドンと叩いてきて止まらない。口という閉じられたドアを叩くノックのようであまりにも苦しくて、上がり来る全ての外出を今にも許してしまいそうだった。

 それでも耐えきりどうにか飲み込んで、身体の中を幾度となく刺すような感覚が次第に下へと流れ落ちる感覚に襲われて。

 ヴァレンシアは今はどのような闘いを行っているのだろうか、無事であろうか。気になって仕方が無いものの、見つめている場合でもない。自分の無事を、悪魔に連れ去られてしまいそうな意識を保つのに必死だった。刺激は更に下へ下へと進む。食道を通っただろうか、ここから胃や腸へと流れるのだろうか、どこを目指しているのだろうか、痛みはどこへ。

 考えで埋め尽くしてこれから強く感じられるかも知れない痛みに備えて心構えを作り始めたその時、突然痛みの流れはこれまでの道を無視して別の箇所へと移る。ヘソの下辺り、急激に増した痛みが暴れ回る。大量の棘を持ったそれがアンナを立て続けに痛めつけ始めた。

 人を産む為の臓器、そこで契約をも産むというのだろうか。

 腹を抱えてうずくまり、それでも痛みは増すばかり。顔を歪めて床をのたうち回る。痛みは叫び声を産みそうになるものの、それすらも通り越して声のひとつさえこぼすことを許さない。このままどうしろというものだろうか。時間が過ぎているのかそれすらも分からないが堪えることしか出来ないまま永遠に感じられる時は過ぎていく。

 痛みはひたすら彼女の内側に響いて、しかしながら強さは次第に引いていく。

 これで契約は結ばれたのだろうか。そう思いつつようやく生まれてきた余裕をこじ開けて前を見つめる。そこに立つのはヴァレンシアのみ。アンナの傍を転がっているトマトの悪魔も瑞々しさを取り戻していて、全ては解決したのだと知った。

 安心は安眠を呼ぼうとしていた。そんな時のこと。

 ヴァレンシアはアンナの細い手首を緩く包みながら立ち上がらせてしっかりと抱き締める。

「ヴァレ」

「ほら起きて」

 強く抱き締める彼女はアンナと同じ顔、同じ声、同じ体つきをしていて、それでも大きく異なるところが見受けられた。

「どれくらい時間経った、悪魔を抑え込むのに」

 にこりと笑いながら答えるヴァレンシア、ふたりの心はどうしても同じものと呼ぶことなど出来なかった。

「どうでもいいじゃない」

 そこからどのような言葉が紡がれるのか、アンナは楽しみで仕方がなかった。

 そんな表情を見て満足を得たのだろうか、ヴァレンシアはしっかりと答えてみせる。

「時間なんて、今は私たちふたりの手のひらの上にあるものだから」

 紅と空、ふたつの色は優しく混ざり合うように溶け込むように、しかしながらそれぞれを保ったまま色付いていた。


 やがて満明がふたりを見つけた後にすぐさま連れてバスに乗り、モーテルに泊まる。アンナは残されたトマトの悪魔を抱き締めたままヴァレンシアに訊ねる。

「私、これからどうなるのかしら」

 人の命を散々畑に散りばめてきた、その罪は命の裁断を持ってしても償いきれるものか分からない、というよりは確実に償いなどできるものではないだろう。

「これから来るあの人が全部誤魔化してくれるよ、きっと」

 ヴァレンシアの声を合図に訪れたのはニヤけ面を浮かべた女だった。

「母さんから伝言だけど、アンナは日本に連れてくってさ」

 アンナは瞳を潤いで満たしながらヴァレンシアの肩に自分の肩を寄せる。そんな様子を見つめてニヤけ面の女、刹菜は満足したのか、左肩に垂れている髪の房を撫でながら続きを告げる。

「私も賛成かな、ヴァレンシアは学力に不安があるし」

「ひどい人」

「お世辞すら述べさせないくらいの不安を持たせておいてそう言うか」

 こうしてこの出来事は未来から惜しむことも見つめることも許されないまま、無理やり幕は閉じられた。

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ヴァレンシア・ウェストの帰郷 焼魚圭 @salmon777

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