第9話 決壊

 優しい時間、呑気を濃縮したような昼ご飯の後に訪れた片付けの時間、皿を洗いながら実験室から持ってきた試験管で薬を掬い、己を救う希望、巣くう悪魔を片付けるための一手としてその手に収める。ぴっちりとしたパンツのポケットに収め、ヴァレンシアにかけられた魔法の封印が無事に解けるかどうか怪しさ満点疑いに塗れた視線で見つめる。

 その視線も今は意味を成さないのだと開き直り、薬に希望を託して視線だけを向けて押し黙っていた。

 そんな想いはしまっておきたかった。出来れば彼女には知られたくなかった。その顔を憎悪の曇り空などと言うもので充たしたくは無かった。

 気が付けば皿を洗う手の動きは止まり、耳が痛くなる程の静寂が辺りを覆っていた。

「ヴァレンシア」

 アンナが呼ぶ声が聞こえてきた。

「ヴァレンシア」

 アンナの声は再び耳に届いてきた。

「ヴァレンシア」

 アンナの声がみたび響いて来る。

「はあい」

 洗いかけの皿を手にしたまま返事を靡かせながら振り返ると共にその返事に悲鳴が繋ぎ止められていく。彼女の余裕ある心の色は絶望色の闇色一色へと変わり果ててしまった。

 目の前に立っているモノ、視界に分かりやすく映り込む闇は山羊そのものの姿をしていたためのこと。

 四十八の長針のカウントはとうに終えていた。元々どこにいたのだろうか。視認できるようになってからこの場所へと向かった、ただそれだけの簡単な事実。

「悪魔」

 つぶやくと共に正体を改めて確かめて頭の中に叩き込む。

 純粋な黒よりも更に深くて見通すことさえ許さない純粋なる闇の色。瞳では捉えることの出来ない真っ暗闇が山羊の姿を取っていた。背中から生えた翼はコウモリのような姿をしていて髭が生えていなければ竜に見違えてしまったかも知れない。

 そんな存在を目にして取り乱して、足は震えながらも一歩二歩と後ずさり、壁に背をつけていた。

 そんなヴァレンシアの抱く感情になど興味が無いのだろうか、態度になど構うことなくアンナは余裕を右手で弄びながら口を軽く開く。

「私、ヴァレンシアが大好きなの」

 その口が奏でる響きを信じることが出来なくてヴァレンシアの目は大きく見開かれる。

「でも同時に大嫌い」

 あの紙に書かれていたとおり、日記の記述は素直な心情を綴ったもの。果たして今も尚そう思っているのか、怪しさしか残っていなかった。

「どうしても想うことをやめられないの。でもあなたの扱いや魔法使いとしての立場」

 それが彼女をここまで陥れてしまったものだろうか。本当にそれだけなのだろうか。分からない見通せない。

「例え愛のない親でも羨ましかった。憎くて仕方がなかった」

 それはもはや真っ当な状態で迎え入れられる感情ではなかった。直に聞かされることで、生の声を耳にすることで、改めて生々しい心情を刷り込まれていく感覚を知った。

「どうして普通に愛せないの、どうしてこんなに胸が苦しくなる板挟みに」

 黒々とした心情、純粋な愛などではない独白、毒を吐く愛しの妹。ヴァレンシアの心まで痛みに刺されて傷だらけに成り果てていた。

「痛め付けられなきゃいけないの」

 その問いに対する答えなど持っていなかった、愛する人の手を取るための言葉の花束など未だに咲いていなかった。ここで立派に咲かせるにはヴァレンシアの心の土壌は貧相で未熟で雑草まみれでごちゃごちゃだった。

「ねえどうして」

 アンナの強い声が飛んでくると共に山羊の悪魔は嘶いた。耳障りな声で吠えるように鳴く様はヴァレンシアの耳を殴るような圧を持ち込み立派に響く。

「答えてよ」

 答えなど用意出来ない。今の彼女の中ではどのような言葉も正解にも納得にも変えられないのだから。アンナの想いに共鳴するように山羊の悪魔の脚の付け根から幾つもの触手が伸び始めた。そのどれもがアンナが抱いて離せない絶望であり、ヴァレンシアが抱いた絶望の姿を取っていた。

「私はいつまで苦しみ続ければいいの」

 怒りに満ちあふれた声の響きと共に触手は伸びて勢いよくヴァレンシアに叩き付けられた。もはや抜け出すことは出来ないのだろうか。繋がってどこまでもついてくる心の苦みはアンナに憑いているようで仕方がなかった。

 そうした弱みこそが悪魔にとって最もお手軽な感情。そこに寄り添うような態度で近付いて、望みを叶えるような顔をして好きなようにその手で扱うことが出来るのだから。

 ヴァレンシアの身体を再び触手で叩いて振り払うように真横の一撃が飛んでくる。そこでようやくヴァレンシアの身は自由と大きな痛みを得た。痛みがあるということは生きていることだと見てよかったのだろうか。ヴァレンシア・ウェストの感情など隅から隅まで薄っぺらなモノに想えて仕方がなかった。それ程までにアンナの心の圧は分厚くて濃くて深い闇のよう。

「ヴァレンシアには死んでもらう」

 その言葉はあまりにも単純、簡単なモノだったはずなのに、そこに込められた想いは簡単なものではなかった。

「愛というモノの真実の形を知れ」

 蠢く触手は心にまで揺らめき射し込む闇のようで、撫でながら忍び込んで何食わぬ顔で居座っていて、どこまでも手触りも心地も悪くて嫌悪感ばかりが蔓延っていた。

 敵の姿を、分かっていたとは言えども恐ろしいまでに残酷な戦いを、目の当たりにしてそれでも覚悟を決めることは強要されて。

「悪魔のやつめ」

 強がりな態度、偽りの姿勢は立派な姿をしていた。

 うねりながら伸びる触手は再びヴァレンシアの方へとゆっくりじっくりと迫り来る。殺そうと思えばすぐにでも実行出来るだろう。思わなくてもただ純粋なだけの巨悪が相手であればすぐに命を持って行かれていただろう。幸運と言うよりはタチの悪い相手。完全に人の心でもてあそぶという悪魔の所業が板についていた。

「はあどうしろというか」

 それでも危なくなればすぐにでも殺しに来るだろう。相手はどうすればヴァレンシアにより大きな絶望を与えられるのか、そのようなことに思考の限りを尽くしているのだろう。

「身も心も人の味を覚えただけのヒトデナシ」

 その言葉に対してアンナが顔をしかめる。悪魔は勢いよく触手を打ち付けた。

 言葉にならない悲鳴を上げながら、声にすらならない苦痛の情を内側に灯して、ヴァレンシアは床に転がっていた。

 試験管が割れてしまっていないだろうか。

 それだけを気にかけながらパンツのポケットに手を触れて無事を確認して立ち上がる。包丁を台所の道具、ヴァレンシアが洗っていた数々の道具が散っていた。その中から皿を取り出して黒々として実体が見えるようで見えない、そんな触手に叩き付け、ドアを開く。

 向こうの闇はどのような影響を受けたものだろうか。表情の歪みひとつ無く、理解に苦しみながら進む。相手の表情が見えないとなれば状態も実態も分からない。今がチャンスなのかピンチなのか、それすら分からなくて。

 山羊の悪魔に履かせたスカートのように伸びる触手たちは途中で枝分かれしている。目に映っているモノがうつつか偽りか、立派な現実か幼き幻か、それすら理解できないままに安っぽい鞄へと向かって走り始めた。床に叩き付けられて不規則なリズムを刻み込む触手。その内のひとつがヴァレンシアに向かって勢いよく迫り来る。

 鞄に乗せられた塩とマッチ、ハンマーの三つだけを即座に手にして鞄を投げる。うねる蛇のようにゆらゆらと蠢きながら迫り来る触手は鞄を貫いて出来上がった刹那の隙、そこに身を滑り込ませるように勢いよく駆け出し外へと繋がるドアを勢いよく開いた。

 一瞬だけ後ろを向き、家の状態を確かめて触手が飾りのような様をしていることを確かめて恐怖を覚えた。家の壁が無力であれば人の身体を壊すことなどあまりにも容易いだろう。骨の柱も肉と脂で塗り固められた壁も、あの生命体からすればあまりにも容易く殺せてしまう。脆弱という言葉がとてもよく似合っている存在で、そんな彼女は怯えながら目的地を目指すことしか出来なかった。

「アンナ」

 彼女の名をぽつりと呟き、意志を向ける。決して届かない、家の壁に阻まれて痕跡までもが掻き消えてしまう小さな声はもはや伝えるつもりすら持っていなかった。

「ゴメンね」

 言葉にして、様々な感情からどうすることの出来ない状況、生い立ちの全てにまで苦しく分厚い雲の情を込めながら謝って。再び振り返り触手が伸びていることを確認して素早く駆ける。

 これから先どこへ向かうか、一番近い像はどれか、最もリスクが少ない像はどれか。

 相手を撒きながら進むという事情を抱えている以上、最も相応しいのは森の方だろう。

 何もない平地を走りながら色濃く刻まれた感情のひらひらとした揺らめきに顔を歪めながら進む。

 触手が追いつこうとすると共にハンマーを勢いよく振って。

 殴りつけられた触手はすぐにでも悲鳴を想わせる縮み上がり方をして地面へと落ちていく。

「あまり丈夫じゃないみたい」

 気が付いてしまった。今のままではきっと無限に湧いてくるだろう。ヴァレンシアの体力が尽きても平気な顔をして襲ってくることだろう。相手の体力や動く権利、何もかもに差し支えがない状態とみて間違いなかった。

 あまりにも開けたこの場所でどのように悪魔の攻撃をやり過ごしながら進めば良いだろう。分からない、見通すことが出来ない。走りながら考えを巡らせて。

 迫り来る触手の気配を背中で受け止めて勢い任せに振り返る。急に止められた足は地面をガリガリと摩擦の証を奏でながら滑り、身体はそれさえも生かしながらねじり後ろを向いていく。行動から生まれた勢いさえもハンマーに乗せて、ヴァレンシアが乱した空気、生まれ出た風を切り裂きながら大きく振られたハンマーは見事に相手を捉えて、勢いに身を任せて示されたチカラは触手の表面を無事に捕らえて、相手に闇に変形をもたらしながら弾き飛ばしていく。

 このくらいの気持ちであり続けなければ生き残ることなど叶わないだろう。このまま運命の在り方に身を任せて破滅するなどまっぴら御免だった。運命は感情を込めず誰にもひいきなどしないまま平等に針の動きを、日の進みを与えていく。もはやここまで無干渉を貫かれてしまえば信仰など失われてしまうことだろう。実際ヴァレンシアは既に運命、出来事の流れに対して明るい印象を持っていない。そこに甘えた感情など持ってきてはいられない。生き残るために必要なものだけを背負って進む。

 地面にて垂れるように地面にへたってピクピクと震えているというあの光景を目にした先ほどを思い出し、いつまたここにまで、ヴァレンシアの背中を地獄の方向へと押しに来るのかと危機感を持ちながら進む。

 これから目指すそこはまだまだ遠い。いつもならばとっくに着いているような感覚であるものの、今はそうも行かない。感覚が時間をどこまでも引き延ばす。緊張感が脚を震わせて上手く動かない。ハンマーを握り締めるその手が湿っていることが手に取るように分かる。

 キモチワルイ、この感覚。

 心に留めた言葉が中を漂うことすら許されないままヴァレンシアの心の中をぐるぐると回りながら反響を繰り返す。

 声にしたところで結局は空を巡って濃さを増して跳ね返って戻ってくるだけなのだから決して口にしてなど堪るものかという固い意志を持って進み続ける。

 こうして歩き続けることどれだけの時を経ただろう。何故だか直線が入り組んで感じられる。ただ進んでいるだけなのに盛大な冒険をしているように感じられる。

 時たま現れる触手を振り払い、大きなため息を浴びながらも心は落ち着くことが無い。

 進み続けることいつもの三倍ほど、正常を見失ってしまった体感でも分かる程度の距離の違いをひしひしと感じていた。

 その違和感が正しいのだと示す物体、ヴァレンシアの家の近隣の建物がようやく顔を出した。

「もしかして、結界が乱れているか」

 満明がいつまでもこの場所へとたどり着けない原因、結界の内と外の境界線に囚われてしまった彼、そう思っていたものの、ヴァレンシアは彼と今ここにいる己を重ねて考えていた。

「結界の中、永遠の距離に囚われているようね」

 そう、あの男は結界の中に忍び込むことに成功しながらここにまで入ることが出来ずにといって出ることも叶わず、この場所で永遠の無を強いられながら無理やり生かされ続けているのだと、ようやく気が付いた。

 一旦家の中へと入ろうとドアを開けてみせる。相手に居場所を悟られない為には身を隠すことが重要、そう思って進もうと目を向けて、その目はそのまま大きく見開かれることとなった。

「アンナ」

 そこに立っていたのは愛しの妹。堂々とした顔はヴァレンシアに似ていながら陰を帯びていて、どこか大人びた笑みを浮かべていた。その紅い瞳は周辺の空気はわずかに紅が差していて、危機を抱かせるには充分すぎる程に分かりやすい有り様をしていた。

 アンナが持っている表情、迸る大人の気配を色濃く纏った仮面、背後から伸びる幾つもの触手。

 戦わなければただやられるだけ。

 そんな事は分かり切っていた。

 やがてアンナは手を伸ばし、ヴァレンシアの手首をつかみ思い切り力を込める。

「私の話を聞いて」

 ヴァレンシアとお揃いの声が響く。

「私は次から次へと人を殺していった」

 その事実、現状の欠片を繋ぎ合わせるまでも無く分かり切った簡単な事実。

「山羊に生け贄を捧げながらあなたを待った」

 待っていた、死の誘いを舞いながら。これは全ての人物から裏切られた心情の滲み出た紅い目で見つめ続けられた苦しみの物語。

 それを分かち合うことを許されたのは憎しみのこもった愛の証だろうか。

「お願いだから、ここで死んで」

「アンナ、しっかりと」

 しっかりとしていない、それはヴァレンシアの方なのだと思い知らされた。

 今ここに立っているアンナの姿を見て気が付いた。

 足がない。膝より下が透けているようだ。否、そこには何かがあるものの、認識できない。そこにあるのは見通すことの出来ない深い闇、それは空間の輝きにまで広がって。

 この結界の内は、この上なく明るい昼の姿を持って、人の目では分かることの出来ない色で塗られた鮮やかな闇。

「アンナはどこ」

「私はここ」

「違う、アナタじゃない」

 ヴァレンシアの大切な人は、この程度のことで本音を語らない。殺すときでさえ事実だけを語って心の底の感情は奏でようとしない。ヴァレンシアが思うよりもずっと大人なのだとあの文字の束が教えてくれたのだった。

「なんだ、分かってたの」

 アンナは顔を崩す。アンナだと思い込んでいたものは崩れて溶けて、幻覚が溶ける狭間で同じ声を奏でてみせた。

「その弱みが、この結界を作る意志まで形作った」

 ヴァレンシアは勢いよく右腕を振って自由を得ようとするものの、抵抗は虚しい結果を生むだけに終わってしまう。右手に握り締めていたハンマーを左手で奪い取り、目の前、かつてアンナだったモノ、見えているのに姿すらつかめない山羊の悪魔の方へと勢いつけて振り回す。

 そこからの流れは必然なのか変わった光景なのか。目の前の何かは歪みをもたらしながら震えるように動いていた。力は緩み、右手はようやく自由を得ることが出来た。

 この場所にはいられない、事実を突きつけられたヴァレンシアに許される行動などもはや分かり切ったものだった。

 振り返り、駆け出す。先ほどまで辿っていた道の続きを進むことだけ。

 どれだけ引き延ばされた道だろう。

 駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて。

 やがて空は暗くなり始め、それ程までに時間が経ったものかと驚きを見せたものの恐らくは敵の意志によるものだろう。

 体感時間がどうしたものもこうしたものも言うまでもなく明らかに時間の経過にしては早い暗闇。

 やがて闇に覆われ染め上げられ始めた空、開けた大地、結界の天井から大きな触手が現れ始める。触手の姿は如何にも大空の大海原を泳ぐタコのよう。霧にでも覆われてしまえば日本にて真昼がテレビの紹介と共に点けた映画のよう。

「これから他の種まで現れるわけじゃないだろうか」

 不安は暗闇の空を色も無しに覆い隠す実体無き雲となる、根拠も無いが空色の目を細めさせるだけの力を持ちつつも空色の瞳の輝きを薄めるには至らない。

 今では見えても仕方のないと思っていた足元が見えるだけでもありがたいと思えていた。その分相手から居場所を把握されると言うこと。暗闇に潜みながらも目を光らせるネコを思わせる。

 そんなヴァレンシアの頬を突如何かが掠めた。風と共に並んで走ったそれは触手では出せないと思しき速度。そもそも伸びてくる触手であれば根元から伸びているはず。それすら無いという事実がヴァレンシアに絶望となって囁きかける。

「ああ、主よ、望まぬモノを現してくれたね」

 それは恐ろしいまでに黒塗りの絶望。見返したくもない感情。現在進行形で流れ続ける避けたい感情の形や色そのものだったのだから。

 味わう絶望は更に膨れ上がる。びちゃびちゃと湿り気のある音に何かを地面にぶつけるような音が規則正しく聞こえ始めて辺りは静寂を破り続ける。

 それは目を背けたくなる事実。見えなくても分かり切っている魑魅魍魎のセカイ。

「早く行かなきゃ」

 アンナが無事かどうか、恐らく利用されているとは言えども悪魔の契約主。殺されることは無いだろう。

 想像でしか無い。九割の確信しか持つことの出来ない予測に過ぎなかった。

 急ぎ足で駆け抜けて、距離の長い地面を走っていく。風になるように過ぎていく中で気が付いたことは今地面を跳ねる悪魔たちはトマトやカボチャといった農作物の姿を取っていた。ヴァレンシアが目にした情報。直接取り入れた事実に間違えようがない。

「おぞましい、人々の血に染まりし悪魔め」

 そこに込められた情を理解できる人物など他にこの場にいるものだろうか、ひとりだけが抱く感情はヴァレンシアだけが結界の中の異物なのだと笑いかけていた。

 走りながら作物を踏まないように気をつけながら、森の方を目指す。

 自然と言うだけでも敵の生産地かも知れないものの、血を撒いた地でしか芽生えない可能性に賭けて駆ける。

 この地の特産品とは如何に罪深いものだろう。愉快にはしゃぐ悪魔たちはあまりにも楽しそうで、ヴァレンシアにも敵意など向けていないようで。

「もしかして、ただ生きてるだけ」

 そう、ひとつひとつが命。それらが全てヴァレンシアに恨みなど持つはずもなく、ただただ楽しそうにはしゃいでいた。耳障りな笑い声が木霊するように響いて耳を叩き続ける。不快な音が幾つにも重なり不揃いに響くあまり、思わず耳を塞いでしまったものだった。

 悪魔たちを野生の野菜生物だと思いながら踏み潰さないように進む。敵だと思われない限りは思わせないに越したことはない。そんな簡単で明瞭なる判断の成せる業だった。

 やがて畑が見えてくる。畑に挟まれた小道を歩く。辺りにはトマトやキャベツが生えているのだろう。微かに瞳の輝きに照らされたものたちの質感がそれを物語っていった。

 やがてひとつ気になり後ろを振り返ってみた。

 途端に絶望を心に居座らせる羽目になり、後悔しつつも気を抜く事が許されないと知って心に色濃い闇の染料として塗りつける。

 真っ暗闇、純黒の空、星の飾りひとつない闇の中に一際濃い闇がその手を揺らめかせながら地面へと向かって伸びている様を見た。

 急ぎつつも安全に気をつけながら進む。そこら一帯に広がる野菜たち、時には進路を妨害するかのように地面に転がって笑い声を上げるものもいた。

「まだ敵だと思われていない」

 敵対行為のひとつも起こさない限りは事情も知らない悪魔からすれば人ひとり単なる他人でしかないと言うことだろう。

 進みながらヴァレンシアは現実での時間の経過が気になって仕方がなかった。もしもこれがわずか一日の出来事、ひとつの日付を跨ぐまでに過ぎ去った三日間だとすれば。

「なんて濃い最悪」

 この一言がすぐさま飛び出してきた。しかしながらそれを考えるだけの出来事は起こっていた。明らかに現実ではアンナが呼び出して数ヶ月、結界の内での三日目、しかし境界線の中では既に数年が経過しているのだという。何故だか時計が一切残されていないセカイ。アンナは世界と結界の時間差を知っていたのだろうか、悪魔にでも教わったのだろうか。

 やがて身体は森の前へとたどり着く、これまで触手が襲って来なかったのは奇跡だとしか言い様がなかった。

 大きく息を吸って目の前に広がる闇の中で微かに形を取る森を見つめる。心臓の鼓動は早まり手が震えている。緊張、敵地の真ん中、四面楚歌。魑魅魍魎の跋扈する世は目に入れていられない耳にしてなどいられない。触れてはならない世界は恐怖という名を付けるに相応しい香りを、野菜の草っぽさの混ざった独特な香りの中にそれ以上の独特なモノを織り交ぜて主張している。

 その唯一性こそまさにこの世界の中の異物。これ以上はそこにいたくない、ニンゲンとしての己が危機を響かせ続ける。

 そうした声の数々を背中で受け止めてヴァレンシアは森の中へと足を進める。闇の中の更に深い闇は分厚い形を持っていて、好きなはずの自然たちがどこまでも恐ろしく感じられる。

 森の中ではそんな悪魔たちも声を上げることなく、歩けば歩くほど静けさが帰ってくる。緊張は体感時間をどこまで引き延ばしたのだろう、心というものは果たして幾つの出来事を拾ったものだろうか。静寂がひどく遠くからやってきたような、そんな懐かしさを引き連れてきていた。

 これから歩くだけで済むだろうか、身は無事でいられるのだろうか、それだけで目的地へとたどり着くことが出来るだろうか。

 草を踏む音だけが妙に響く。他に物音は何ひとつなくて、異様な心地を覚えていた。

どうしてだろう。結界の媒体の周りに監視や護衛を置かないのはどうしてだろう。

 実は何かが音も無しにこの場にいるのだろうか。

 そう考えたところでのこと、風を切るような音が、葉のざわめきや木々を揺らしながら叩くような音が響き始める。

 耳で捉えるのがやっと、目にも止まらぬ速さで近付いているようで次第に大きくなる音は空気に悲鳴を上げさせていたためにどうにか聞き取る事が出来た。

「そこ」

 近くの木に飛びついて今立っている場所から離れる。それでも迫り来る何か、きっとアレだろう。それが曲がりながら近付いているのを耳にした途端、肌の表面に痛みを感じた。

 抑え潰されて声にもならない悲鳴と力が入って形を崩す顔、細められた目で見つめる痛みの先にあの触手を、山羊の悪魔の存在の証明を見て取った。

 ヴァレンシアの鼓動はますます早まる。冷や汗が身体中を巡って吹き出て薄っぺらな服が背中に胸に張り付いて気分に悪質な動きをもたらす。つまるところ、敵の脅威と気分の悪さはひとりの少女の命を支配しようとしていた。その手で弄ぶように好き勝手に殺してしまおうという動きやこの場所に相応しくない空色の輝きを消し去ろうという意志や同じ血の流れたあの子の嫉妬や憎しみが辺りを支配していて。

 そんな辛くて苦くてツラくて苦しみに満ちあふれたそこで、ゆっくりと動き始める。

 触手はいつ来るだろう、どこから来るだろう。

 不安は身体に早く行くように、速く行くようにと急かし続ける。

 恐ろしいまでに不快な鳴き声がめえめえと冥々と鳴り響く。この場において明々としているのは闇の暗さを誇るこの事実ただ一点。

 絶望という感情こそが今ここで最も明るいものだった。

 このままでは死んでしまう。

 確信を持った情が湯気となって視界の中の幻となって深まり始める。

 アンナを助けたい、一緒に居たいだけなのに。

 それは余程贅沢な願いだったのだろうか、それはどうしても叶わないほど、あの空よりも遠い高望みだったのだろうか。

 このままでは本当にただの高望みで終わってしまう、それだけは避けたい、願いを抱き締めて、心で唱えてそれは自然と口から溢れて。

 様々な情が複雑な模様を作り上げていて吐き気にも似た気持ち悪さを主張していた。

 叶わない願いなど作り物の世界の中だけで満足、ふたりは実在する人間、この結界などと言う安物のセカイから抜け出さなければ。

 そんな意志を持って重く動きの鈍い足に鞭を打つ想いで進み始める。

 その時を狙っていたのだろうか、急な風音と共に勢いが伝わってくる。ヴァレンシアは根拠のひとつも無しにその場で身を捻り、身をかわす。遅れて到着した触手は空気を捕らえ、ヴァレンシアはそれを捉えて。

 勢いよくハンマーは振り上げられた。

 その目に迷いなど無く、この場で最も輝く色はハンマーによる一撃、その残像がヴァレンシアになけなしの安心感を提供していた。

 そのまま進み、触手が絡まりながら迫り来る度にハンマーを振り、手応えの跳ね返り、その手に伝わる衝撃に顔を歪めながらヴァレンシアは進み続ける。このまま結界を壊すだけの力を振り絞れるか分からない程の余裕のなさで抵抗を加えてどうにか生き延びて、照らすことの許された範囲、得られた狭い視界の中に例の案山子の如き像を目にした。

 結界ともうひとつの術式、破壊は同時に執り行わなければならない。

 やり方はしっかりと記憶に刻み込まれていた。間違うことも無く、歪みや破片のひとつも無く。

 手始めに魔女のまねごとの如き仕草で煮詰めて作った薬、結界の打破のために作った希望を像にかけて他の作業に移る。

 塩を札に振りかけてマッチに火を灯し、アンナが滾らせる瞳の輝きにも似た炎を、希望を持った色を札に乗せて。

 ヴァレンシアはその手に握り締めたハンマーを見つめる。

 そこにはどのような想いが巡るものだろうか。

 親が施してくれた数少ない親切な世話の象徴、それはヴァレンシアの手にしっかりと握り締められていた。

 炎が札を焼き続け、やがて像を蝕もうとしたそこでようやく動き出した。

 ハンマーを掲げ、その目の裏に様々な過去を思い描く。どうしても得られなかった閉じられた自由。親の態度はどう足掻いても変わりなく、諦めるほか無くて。

 そんな親の顔を、数々の蛮行を、書庫の脚立を作るために木に釘を打つあの姿を目の前の像に重ねて。

 空色の瞳の揺らめきは暴れていた。アンナのことを見捨てた親への濃厚な恨みを込め、ハンマーを握る手に思い切り力を込める。

 思い出と共に現状を打破して明るい未来を作ろう。

 彼女との新しい思い出は笑顔に満ちたものにしよう。

 いつも一緒に居られるように、あの紅い輝きに希望の火を灯すことが出来るように。

 そんな想いを込めて、ハンマーは振り下ろされた。

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