Chapter 4 決着

第8話 薬

 それはひとつの読み物のよう。アンナが人生の中で抱えてきた想いが、ありのままの心情がヴァレンシアを揺さぶり続けていた。愛と憎悪の狭間で揺れ続けてどうすれば良いのか分からなくなってしまっている彼女。

 分かってはいたものの、やはり愛のない親。

 正気ではいられないだろう、あのような環境と心持ちでは。

「アンナはずっと悩み続けてた」

 ヴァレンシアは知ってしまった。

「悪魔はそんな弱みにそっと入り込んで来た」

 それはもはやずる賢い侵略。

 アンナのことを想ってはいても立ってもいられずにヴァレンシアは早足に家に戻り、マッチとハンマーを鞄の上に置いて。

 夕飯の支度をしているアンナの背中をただひたすら見つめていた。愛しい背中に何を背負っているのだろう。ひとつの言葉などで纏めきれない複雑な味わいの果実だろうか。

 明日、悪魔に半ば乗っ取られた彼女がヴァレンシアの命をも肥料に変えてしまうのだろう。本当は好きで堪らない。その愛の果実はほろ苦くて、ヴァレンシアの抱える仄かなえぐみのあるだけの甘酸っぱいモノとは大きく違うものだった。

 台所で何を思いながら食材を焼いているのだろう。どのような気持ちと共に味を加えているのだろう。その時の想いの色はサイズは、この狭い田舎で育ったものとは思えない程に重ねられた経験を見せていた。想像するだけでヴァレンシアの中で日本に渡るべき人間は彼女だったのだと思い知らされていた。

 そんな想いを抱き締めながら待っていた夕飯もやがて完成した。アンナが出来たよと言う。ただそれだけの声も仕草も表情も、何もかもが可愛らしく映っていた。

「アンナ」

 口に出さずにはいられない。

「アンナ」

 声にしたい言葉。最も愛している響き。この言葉にこの発音。今までよりも深く知ることの出来たこと。

 愛があるのなら。

「ありがとう、大好き」

 言葉にして伝えては甘い表情を浮かべながらアンナを抱き締めて。

 自分とお揃いの身長、同じ肉付き、同じ顔、周りが教えてくれたことで分かった同じ声。瞳以外の何もかもがお揃いの身体の中に宿る全く異なる心に麗しい響きを、瑞々しい愛の果汁を絞り出して強く強く抱き締める。

 温もりを伝えて、憎悪の棘が刺さろうとも構うことなく裸の愛を見せつける。

「アンナ、愛してる。愛してるから」

 伝えなければならない。このままでは永遠に救われない存在へと成り果ててしまう。愛の匙で、ヴァレンシアの愛の大きさで掬い上げることが出来るかどうか見当も付かないものの、 それでも無理やりにでも腕を絡めずにはいられなかった。

「早く食べないと冷めるわ」

「この愛は絶対に冷めないから」

 もはや愛に溺れてしまっていた。彼女の中の罪悪感、ただただ褒められたものではないあの想いが文字となって胸の中を駆けていたものの、それさえもが彼女への愛のひとつなのだと心に焼き付けて、傷んだ果実を抱き留めて。

「この村では生きていけないだろうから」

 息を吸い、アンナの口から言葉が現れる暇さえ許さないまま続きをネコのようにたくましくも甘い声で告げる。

「一緒に日本に行こう」

「それが出来れば問題ないわ、それより早く夕飯を」

 そう、アンナがその手で作った料理。美しい手で作ったものを食べて明日も生きていこう。

 アンナは確実に明日を待ってくれる。歪んだ愛はきっと悪魔のことを告げずには証明できないと考えているだろう。

 これまでの出来事を語るのは、冷静を失った殺害という名の語り部、戦いと呼ばれし語り手が進めて行くことだろう。

 だから今は、互いにどうすることも出来ないこの時だけは。

「アンナが振るってくれた愛だもの、味わうよ当然」

 その愛の味を舌でひたすら転がすことにしよう。出来る限りいっぱいの愛を共にすることにしよう。

 悪魔をここに呼び込んだのは両親の罪。愛無き人々が子を利用しようとした結果、手綱を握り続ける事が出来なかった、ただそれだけのこと。

 食卓を共にする相手には選ぶ権利がなかった。そもそも黙っていてはおかしな儀式の生け贄にされていただろう。どこかの知らない魔女の権威を太らせる為の餌にされてしまっていたかも知れない。

 そうならなかったことを心の底からの感謝を捧げながら。天の神様と地に居座る愛しき人に対して目一杯の明るい想いを示しながら、アンナが作った肉と野菜のあんかけを口へと運ぶ。

 彼女は幸せにしたい。一緒に輝かしい味を噛み締めていたい。共にどこまでも進んでいきたい。

 そんな想いが巡っては爽やかに色づいていた。

「美味しい」

「そう、ならよかった」

「アンナの愛の味がする」

 あまりにも恥ずかしいはずの言葉が堂々と宙を舞っていた。

「やめて、はずかしい」

 アンナが目を逸らす。ヴァレンシアの中にも今更のように熱が湧いてきて心情を支配する。

 温もりと言うよりは心地の悪い熱だった。

「そうね、ごめんなさい」

 そんなことでさえも笑い話で済んでしまうのは今のふたりの関係だからだろうか。もっと深みに嵌まってしまったその時に待つものは、甘さを感じられない情かも知れなかった。

 ヴァレンシアの中に確信が宿った。外から訪れた色彩が無事に根付いていた。

 アンナは今でもヴァレンシアのことを愛している。未だに一直線とは行かないガタガタくねくねとうねる複雑な愛に悩んでいる。歪んだ愛の行く末が恐ろしい結末を迎えに出ようと今か今かと待ちわびて運命のドアを幾度となく叩き続けていた。暴風の如き激しく暗い結末を明るく優しいそよ風に変えること、それこそがヴァレンシアのやるべき事のように感じられていた。

「大丈夫、何があってもアンナのこと、愛してるから」

 熱々の愛はこの気温の中でもよく目立ち、大きな熱となる。

 アンナは夕飯を平らげすぐさま微笑みながらヴァレンシアのくびれに腕を回し、細い身体を抱き締めて熱を合わせて言葉を贈ってみせる。

「私、ヴァレンシアへの愛でおかしくなりそう」

 すでにおかしくなっている。山羊の悪魔は明日までは脅威に変わることはないだろう。既に恐怖ではあるものだが。

 目の前の彼女は正気か陽気か妖気に持って行かれてしまっているのか。分からない。契約が初めから成立しているように書かれていたものの、果たしてどのような条件で結ばれたものだろうか。悪魔は嘘をついている可能性もある。もしかすると契約すら成っていない身勝手を極めた果実の物語かも知れない。

 そんな事を思いつつ、頭の片隅にひとつの疑問が湧いていた。

 二日後とは如何なる基準で数えられるものだろうか。四十八の長針の動きを数えて待っているのだろうか。魔法には方位が絡むものもある、時間や物質の量などが単位で括られている事もある。果たして今回の場合はどのような基準に方位の針を当てて厳密な管理をしているのだろう。二日目の夜、日付で言う三日目を迎えた途端頭から丸呑みされる可能性も否定は出来ない。そうなってしまえば全てお仕舞い。ヴァレンシアに対抗する手段など無かった。

 それでもアンナを抱き締めて愛を分かち合う。小綺麗な感情などこの場所にひとつも残されていなかった。心の底から澄んだ情か濁りが底に溜まった翳りあるものか。どちらかだけだという極端なモノ。

 明日の朝は迎えられるだろうか。それが不安で愛をもふるい落とそうとする衝動へと変わり果ててヴァレンシアの心を揺さぶり脅し続ける。

 そんな想いを抱えながらも愛を落としてしまわないようにしっかりと持ち続けながらアンナと共にいただいた夕飯の跡でしかない皿を見つめてひとつの提案を持ち込んだ。

「片付けは私がやる」

 アンナが作ってくれたのだから当然、疑問を放ってくるアンナの紅い瞳を見つめながらそう答えた後に更なる言葉を覆い被せる。

「大好きなアンナの為だもの」

 大好きなアンナの為なら片付けも容易、悪魔の片付けさえもしっかりと執り行って見せようと思っていた。

 皿を洗って、乾かすために用意された台に立て掛けて。もたれかかるように映るその姿はヴァレンシアの甘い想いの形そのものだった。

「そう、私がやらなきゃ」

 振り返り、歩き出す。一歩一歩足を寄せ身体を近づけ、アンナの手をしっかりと包み込みアンナが抱える憧れを呼び出す。

「結界破ったらアンナも一緒に外に連れ出すから」

 それは愛の告白なのだろうか、それともヴァレンシア・ウェストの独りよがりな想いの暴露なのだろうか。

 手放しに褒めることの出来ない感情が一滴さえ混ぜられていないと言い張る事は出来るだろうか。その疑問に対して清々しく首を縦に振る事さえ出来る自信が無かった。正直に語ってしまえばそもそもヴァレンシアがアンナに対して好意を寄せているだけでしかなかったのだから。

「ありがとう」

 それでもそう答えてくれたのは情けか本音か。上手く読み取ることが出来ない。感情を汲むことの難しさを今になって思い知らされていた。

 まだまだ青い。瞳に宿る輝きの色と同じ若さを持つ心。罪とも取ることが出来る。いつまでも純粋ではいられない。純粋でいてはならない。

 山羊の悪魔に対抗すると共にそうした心の道も歩まなければならない、そう感じていた。現実の辛味がひしひしと伝わって、身体を充たしていった。

 そこにあるのは運命の時への心構え。この堂々とした夏の熱気にさえ寒気を感じてしまう。

 蔓延る不安、鳥肌を立たせる程の脅威はもうすぐそこに来ているのだと実感し、脅威を呼び出した張本人を抱き締め続ける。

 これから迎える夜が恐ろしくて堪らなかった。カウントの方法次第ではもう終わりと言うこと。仮に悲劇が達成されてしまったならその中でアンナはどのような表情を浮かべるだろうか。嬉々として舞うのだろうか、それともそう取り繕って涙を流すのだろうか。想像は決して確認することが出来ない。しようとも思わない。実現してはならない。

 アンナをしばらく抱き締めたあとで余韻を抱き温もりに浸りながらシャワーを浴びて就寝の準備を始めた。

 心臓の鼓動は早まり続けるばかりで、頭の中で形になっている血の巡りが気持ち悪さを呼び起こす。どうすることも出来ない。今は運命に身を委ねるしかない。抵抗の時は明日なのだから。

 外は既に暗闇模様、見渡すことすら叶わない、その目は環境に適わない。空色の輝きなど敵に位置を知らせてしまう重荷と化してしまう。その瞳が捉える夜闇の景色の真の姿はせいぜい手の届く範囲でしか無い。悪魔に見つかってしまえばきっと利点では埋められない程の不利が待ち受けている。

 戦う術を手に入れるのはどう見積もっても明日以降。明日の昼食を終えるまでは襲ってこないよう祈りに身を浸しつつ床に伏して目を閉じる。

 しかしながら眠りへと意識が向かう事が出来ずにただただ今を歩み続ける。眠りの間に弱き命が掻き消されてしまうかもしれない。抗う術がひとつたりともそこにない。

 最愛の彼女をまたしても人殺しにしてしまう。

 悪魔を呼び出してからのアンナは果たして幾たびの殺人を行いその度に己を罪で穢してしまったことだろう。これから何度彼女の罪は折り重ねられてしまうのだろう。この世の美しさから遠ざかってしまう。どこまでも禁断の深みへと落ちて墜ちて堕ちてオチテ。

 夜闇が最も似合う人格へとすり替えられ指の先まで心の奥まで罪のセカイに染め上げられてしまう。

 アンナがそんな姿へと変わり果ててしまうことを想像するだけで熱に冒された想いはどこまでもひとつの想いを強めていく。

「許せない、絶対に今は生きて、明日は絶対に」

 幸せをつかみ取るためにはどのような運命を選び抜けば良いのか。人々が軽々と語る結末こそが良いものとは限らない、何者かが決めただけの道筋について行くだけではいられない。

 その時に不満をまき散らしたとして、責任を取るのは誰なのか、後悔の行き場はどこなのか。

 救いたい彼女の事を想いながら、最後につかみたい道のりをくっきりと脳裏に描きながら、眠りへと入ろうとしていたヴァレンシアの瞳はただまぶたの壁に閉ざされて。

 そんな年端も行かぬ女の所へと何が訪れようとしているものか、遠くからひとつ、物音が響いてきた。

「アンナ」

 名前を呼ぶものの、そうではないことなど分かり切っていた。アンナが立てるような物音からはあまりにもかけ離れた禍々しさが感じられた。悪意だけで動いてるような錯覚を覚えていた。

 ひとつふたつみっつ。

 物音は立て続けに夜の静寂を、結界の中の平穏を打ち破っていく。この場所にはふたり以外の何者も存在しないはず。思考が其処に至り脳がたどり着いた結論はあまりにも不穏で深い絶望そのもの。

 目を開いて即座に立ち上がり、窓の向こうを視線で射貫く。情を読み取ることの出来る存在であるかどうか。分からなかったもののこのまま何もせずに運命に流されるわけには行かなかった。最大の罪は怠惰。この状況では間違いなかった。

 目の前は闇。人の目では詳細はおろか輪郭すら描くことが出来るか怪しいそんな純粋な黒。太陽の恵みが恋しくて美しくて今すぐにでも現れて欲しくて堪らなくて。

 しかしそれが叶うはずなどない。その程度のことは流石に分かり切っていた。

 ヴァレンシアの目は手の伸びる範囲を不自然なまでにしっかりと認識していた。全てが空色の把握を与えてくれた。

 外に居座るあからさまな異形はきっとヴァレンシアの位置を把握してしまうだろう。

 闇の中に浮かぶ空色の輝きが勝手に知らせてしまう。夜に隠れることさえ出来ない不便な特徴。一方でアンナは紅い輝きを瞳に宿している。ヴァレンシアとは正反対の色、空を駆ける姉と地に縛り付けられる妹。

 外にいる何かはそのような紅き輝きなど持っていなかった為に間違いなくアンナではない、耳でつかみ取った想像は見事なまでの正解を引き取って。確認は安堵をもたらすと共に大きな不安を生み出した。

 既に悪魔は闇の大海を泳ぐように動き回っている。存在を完全には認識できなくとも異物として何かがいるということには昨夜の時点で気が付いていると言うことだ。

 悪魔はこちらへと目を向けてきた。唐突に睨み付けるように、いるのは分かっているのだと脅しかけるように。

 心臓は動きを早める。波打つ鼓動は止められず、身体全体にけたたましい響きをもたらした。脳もまた脈を打つように警告を膨らませて脳に大量の血とともに警告を垂れ流す。膨らみ続ける暗い感情は悪魔の想いのままなのだろうか。

 相手は言葉も無しにヴァレンシアに脅威という言葉の意味を書き込んでいた。魂そのものに刻み込むような鋭さで刷り込んでいった。

 いつになれば立ち去るものだろう。

 山羊の姿は夜闇に紛れて確認できなかったものの、間違いなく今回唯一の敵。鎮めなければならない存在だった。狩ることは可能だろうか、悪魔にも死の概念は通用するのだろうか、そもそも地獄という死後の世界から訪れたモノは人でいうところの死を与えられたらどうなるのだろうか。不死であり追い返すことしかできないものだろうか。

 考えるほどに思考の糸が絡まって躓いて、上手く動くことが出来ない。排除すべき存在の姿を確認すべく足を動かそうとはするものの、震えて動かなかった。思考だけで無く恐怖までもが粘り気を持ち、身体に覆い被さっていた。


 頼む、頼むから来ないで


 心からの懇願、言葉にも出来ない命乞い。声にしてしまえば敗北。悪魔に立ち向かう時、悪魔と契約を結ぶとき、悪魔と遭遇した時、いずれの場合においても悪魔を優位に立たせる心情や悪魔の想うままの声や動きを見せてしまえばその時点で人間は敗れてしまう。


 隠せ隠せ隠せ隠せ隠し通せ。


 心の中で必死に念じる。丸腰のヴァレンシア、勝機のひとつも見いだす事の出来ないこの状況の中で正気を保つことなど出来ないまま。

 せめて平静を装うこと、それが今の彼女に出来る唯一の抗い。

 ゆっくりと粘り気のある視線を動かして、全てを見渡す茶色がかった黄色の瞳。琥珀とでも呼ぶのが相応しいだろうか。そんな美しい例えなど持ち込みたくもない相手ではあれどもそう記すことが適切。薄らと溢れる輝きはヴァレンシアに目だけで想いを伝える。


 人間如き殺すことなど容易い。


 存在そのものを見下すような目線、認識さえ定まってしまえばいつでも殺せるのだという確信と邪魔なモノはすぐにでも殺してみせようという感情が重みを増してのしかかる。分厚い雲のようなそれに潰されてしまいそうで今にも消えてしまいそうで。

 冷え冷えとする背筋と縮こまり速まる鼓動は生きた心地を与えてくれない。

 黒く不確かな脚を動かし、聞こえないにもかかわらず見なくても分かる鳴き声を、届かない耳に響かせて立ち去る。

 認識の乱れは存在の次元さえ異なるのだと思い知らされた。

 異様な気配が消えてもなお、しばらくは何も出来ないまま、その場にてうずくまるのみ。暑さと寒気を同時に浴びせられながら打ち震える身体は惨めなことこの上ない。

 闇の中、抱き締めるものも抱き締めてくれるものも何もないまま孤独という世界の真っただ中に放り込まれたままどうにか夢見におちて闇には身体が残るだけ。

 声なき威圧の余韻は身体に留まらず心の中にまで忍び込み、生きた心地を得ることをいつまでも許さないという意思をもって夢まで侵してしまった。網膜の中に見えていなかったはずの黒い山羊が焼き付いて離れない。人生の中で最もおぞましい夜、悪夢という言葉以上のものを感じてみてもそれ以上は言い表す言葉が人間の頭の中には存在しない、悪魔の世界にあってニンゲンの世にはない何かを感じた瞬間だった。


 柔らかな朝日、いつの間に目を開いたのだろう。小鳥のさえずりひとつ届かない不自然な田舎の光景にもようやく慣れてきたところだった。

 起き上がり、刹菜が与えてくれた服に着替えては辺りを見回す。アレは今どこにいるのだろう。何を考えているのだろう。

 震えは止まらない。この場所に、結界の張られた故郷、おかしな有り様を示しているためにヴァレンシアの知るそことは全くもって異なる場所。そこで行われるであろう何かが恐ろしくて仕方がなかった。

 この田舎を訪れて二度の夜を過ごしてしまった。昼の時点で三度目の同じ時間。これから数時間後には何が起きてもおかしくはない。言い訳は不要、弱音は敗北、人の高尚なる想いなど無力でしかない世界が大きな海となって瀬戸際にまで押し寄せていた。

 アンナは今どこにいるのだろう。無事だろうか、悪魔は何を企んでいるのかそれすら分からない。不安は分厚さを誇示し、ヴァレンシアをどこまでも困らせては得意げな笑みを向けては感情を自分色で支配しようとしていた。

 結界の外までも、世界中の全てまでも包み込む空の穏やかさがどこまでも不気味に感じられるのはどうしてだろう。空に感情などなくただただ大地を包み込んでいるだけに他ならないのに。

 やはり空はキャンバスなのだろう。見た者の心の色を正直に絵の具に変えて塗りつぶしていく様が見て取れた。

 そんな想いに足が竦んでしまうものの、伸ばされた手はアンナの無事という結末を欲してやまない。

 空色の瞳はその輝きに合った美しさを取り入れようと、幸せを見ていようと身体に対して動けと活を入れる。

 進んで行く。自然と動かされた足は部屋の外へと身体を持ち出してふたつ隣の部屋のドアへと持ち込んで。

 その手は自然とドアを二度叩いた。そこにいるとは限らない、そこにいて欲しい。気が気でない。不安はひたすら這いずり回って無事を祈る気持ちとぶつかり合って独特な気分の悪さをもたらして脳の随まで染め上げて。

 待つこと三秒ほどだろうか。返事がない。それから五秒を加えて。静寂はそこまで絶えずに続いていた。

 きっと部屋にはいないのだろう、結論を結び付けてリビングへと向かう。決して立派な家ではないものの、大きくは無いものの、ドアという名の仕切りだけはしっかりと取り付けられているがために一度に全貌を把握することが出来ない。

 心臓に悪い、家の造りさえもが今では忌々しい。

 そんな想いを抱きながら恐る恐るドアを開いて進む。

 目の前に悪魔が現れるかも知れない。アンナと共に立って嗤っているかも知れない。緊張感は正気をどこかに落としてしまったようで行動のひとつひとつが不審なものへと変わり果てていた。

 しかし、空色の瞳が捉えた光景はどこまでも優しい朝の色をしていた。陽の輝きが射し込む台所に立つ少女は明るみの中に薄らとした紅を染み込ませて顔を照らしてはそれに負けない明るい笑みを浮かべていた。

 ヴァレンシアは錯覚という言葉の本当の意味を今ここで覚えた。悪魔を呼び出した女は天使だったのだろうか。美しく澄んだ褐色の肌は、照りつけによっていつも以上の美しさを見せていた。

「アンナ」

 異なる瞳同士が交わる。輝きは異物となるだけの強さも持たずに景色の中にすっと入り込んでいた。

「朝ごはんならもう作ったわ」

 最愛の女が作ったもの、小麦を水で溶いて固めて焼いただけの簡単な主食にレタスやトマトなどその場で採れた野菜を挟んで。調味料は隣の家から持ち込んだ食塩と奇跡的に止まっていなかったらしい電気を用いて動いていた冷蔵庫に収められていたマヨネーズ。

 もはやこの世界の中、窃盗などと言っている場合ではなかった。

 ヴァレンシアは差し出されたサンドイッチに似た料理を受け取り、そのまま頬張り始めた。瑞々しさを保ったレタスは採れたて新鮮そのものなのだろうか。恐らくはあの悪魔の恩恵を受けて育てられたもの、人の命を沈める事と引き換えに大地の幸を保証してくれているという状態なのだろう。

「こんな世界でもここまで美味しいものがあるなんて」

 きっとそれは禁断の美味だろう。罪によって繋ぎ止められている命、人類の悪となることでどうにか生きることを続けて行けているのだと自覚を持って。

「そうね、これもきっと肥料のおかげ」

 穢れに満ちた肥料。たったひとつの命を、ここ最近になってもたかだかふたりの命をこの世界に宿らせ続ける為にどれだけの命が失われたのだろう。この田舎の四分の一程度の切れ端に住まっていたのは三十人程度だろうか。魔女のすみかに近いということもあって人口は少なめの区画。全体で百五十にも満たない小さな村で今の犠牲者の人数はあまりにも重たいのではないだろうか。どうしてもそのような想像が巡り回って主張を続けてきて仕方がなかった。

「敵だけど感謝しなきゃ」

 それはどれだけの屈辱だろう。己の命を奪い取ろうとする相手に生かされて殺害の予告まで示されても尚感謝の意を示さなければならないということ。

「昼はヴァレンシアが作ってくれるのよね」

 アンナが声に出してくれた。自ら譲ってくれた、そうして手に入れた機会を逃してはならない。瞳に宿る強い意志はしっかりとこれからの行動を予定として立ててくれていた。

「ええ」

 声に出し、感情を頬に色付けて、更にはっきりと述べてみせる。

「もちろん」

 それはきっと本当の目的や礼だけではないだろう。奥で渦巻く感情がひょっこりと顔を出して顔を染めていた。

「楽しみにしてるわ」

 本音は見通せない。悪魔と契約してそれなりに経過した時間の中で彼女の心はどう変わってしまったのか、変わりなど無いのか、死を目の当たりにしすぎて壊れてしまってはいないだろうか。大切な人だからこそ湧いてくる不安や気に掛かる暗い感情。どれもが一色では済まされない。陰影をつけて所々に小さな穴を開けて。

 ヴァレンシアの想いの方こそ今にも潰れてしまいそうだった。

「じゃあ、今から作るね」

 鞄の脇に置いていたスミレやハーブたちを手に取り台所へと飛びつくような勢いで跳ねて向かう。鍋をふたつ取り出して片方には水を加えて薬の材料を、もう片方には冷蔵庫から取り出した野菜たちを切って放り込む。

 スパイスを効かせたスープと薬。並べて作るにはあまりにも不釣り合いなそれを見ては顔を歪めて。

 やがて火の影響はしっかりと鍋にまで与えられていった。湯気が立ち始めるとともにヴァレンシアは包丁で指先に傷を付ける。鋭い痛みは小さな傷口とともに大きな顔の歪みを作り上げ、紅い滴が垂れ落ちる瞬間は空気に馴染み続ける空色の瞳に捉えられて。やがて薄らと紫色に輝きほんのりと黄色に色づいた液体の中に捕らえられて混ざり合い、薬としての姿を手に入れた。

 薬の方の火を止めて冷ましながら料理は続けられる。

 鍋で煮込んだスープの隣で小麦粉を練って作られた固体を焼きながら、冷蔵庫に仕舞われていたケチャップを取り出してパンの代用品と化した小麦粉の塊にかけていく。舌触りも滑らかさも何もかもが今の文明では考えられない程に劣悪な主食は何らかの味付けや具材といった工夫を重ねなければとてもではないが食べられたものではなかった。

 香ばしい香りが漂ってくる、生きるためだけに作られたといっても過言ではないその食事はまさに田舎の不便さをロマンと呼ぶ人物への反対意見としてどこまで通用するものだろうか。

 きっと彼らはその程度能力不足が悪い、わがままを言うのが悪いと語って終わりとするだろう。

 それでも構わない、これはあくまでも生きるためのこと。そのためならば今取ることの出来ない理想に手を伸ばす必要など無かった。

 十分ほどが経過しただろうか。ようやく並べられた料理を見つめながら紅い瞳は潤いを帯びた。

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