第7話 〈山羊の魔女〉

 私の名はアンナ・ウェスト、姉のヴァレンシアからは大切に育てられてきた。

 そんな私の数少ない話し相手で対等な関係を築いてきた身内ではあったものの〈西の魔導士〉などと呼ばれるヴァレンシアに対して越えられないほどの分厚い壁の存在を感じていた。羨望の想いが渦巻いていた。心の内に抱きながらも料理に入れる隠し味のスパイスのようにほんの少しだけの憎悪を潜ませた罪な妹。分かってはいるよ、いるけれども良い想いも悪い想いも止められない止まらない。

 両親共にヴァレンシアばかりを大切にしてそんな想いを思い、私の事など愛が創り上げた営みの残滓として隅に置くだけで心には何一つ触れようともしない。そもそもヴァレンシアの事もただ〈西の魔導士〉として大切にしているだけで想いを思う、そんな偽りを被せて飾り付けて事実真実本当の事は利用価値だけを見ているだけ。

 ヴァレンシア本人は気が付いていないだろう。姉はそれ程までに純粋な笑顔を咲かせる少女。

 両親の穢れ切った心を視て、この家には本当に良い親などいやしない事を知っていても尚そんな偽りの愛を心から受けるヴァレンシアの事が羨ましくて憎たらしくて妬ましくて愛おしくて。

 その時の私の頭の中は渦を巻く色鮮やかに彩られた想いに掻き乱されていて、そんな不安定な感情を抱いて生きていた。

 私が13歳の頃、ヴァレンシアは極東の国へと渡って行った。この辺りでは高等な教育など到底受ける事も出来ない。しかし魔法使いの世界というものも今のご時世ではある程度の学力は必要とされているようで、ヴァレンシアは〈西の魔導士〉として教育を受けに行かされたのだとか。

 私は今でもこの蒼い空に青い空想を広げる。もしも私がヴァレンシアの代わりに極東へと渡っていたとしたら。もしかするとこの人生の先に広い道、大空のように広がるそこで更に向こうを見渡す慧眼を得て天使のように輝く翼で気ままに飛ぶ事が出来たのかも知れない。

 しかし、現代において未だに魔法などという代物に手を染めて空よりもはるか下の畑を耕すこの一族には海の向こう、空の向こうのあの国へと人ひとりたりとも送り出す力など無いであろう。金など無いが〈西の魔導士〉は必要とされているから様々な魔法使いたちの援助を得てヴァレンシアは日本まで教育の翼をいただきに行ったのだ。

 空色の瞳で空を眺めて自由に舞うヴァレンシアに対して私はこの農地に縛り付けられて親と共に大人しく農地を耕して夜には恐らく〈西の魔導士〉の名声が引き寄せたのであろう本を読む、そんな生活を続けていた。本土の言葉と簡単なイギリス語だけとは言えども一応は読み書きが出来る事に感謝をしつつ、太陽に堂々と手を伸ばす事などせずに星が細々と輝く夜空の月の下でマッチに火をつけキャンドルに火を点して地に小さな星を作って細々と生きて行く。そうした輝きの中で物語に触れて度々ヴァレンシアが送って来た手紙の中に読んだ本の話を書き込む事が恒例の話。

 私の話が届けられるとヴァレンシアはいつだって天使のような微笑みを浮かべながら空色の瞳で私を見つめているのだと綴られていた。学校での事を話したり親には内緒でお土産のまんじゅうやもなか、だいふくようかんどらやきと言った和の菓子を買って来て2人で頬張ろう、などと微笑ましくも美しい約束を交わしていた。

 星の泡に充たされた夜空を見つめてあの日のことを思い出す。別れの日の夜。あの日もまた、晴れ晴れとした満点笑顔の満開星空だった。ヴァレンシアは別れの寂しさを訴えて心の底から熱くなるような想いを込めた抱き締め合いと額同士をつけて限りなく近い顔を見つめ合いながらお菓子よりも甘いキスをするのであった。

 ヴァレンシアは「モテない、大して可愛くないから」と言っていたが私はいつだって心の内で否定した。どうしてこんなにも可愛いヴァレンシアの魅力を世界の私以外の誰も彼もが理解を示そうとすらしてくれないのだろう、あまりにも大きな不思議がはっきりと不満という形で現われて、ひたすら巡って回って暴れ回って、止められない想いが膨らんで止まらなくて仕方がなかった。

 愛しのヴァレンシアと話す、ただそれだけのそんな時間が私にとっては華やかな花や暖かな風のように美しくて愛おしくて仕方がなかった。その裏でヴァレンシアに対して何も見せない夜闇や冷たい水のような嫉妬や憎悪が見え隠れしていて私はそんな私の事が時々嫌になる。


 どうして好きな人を憎まなければならないの?


 どうして手放しに喜ぶ事が出来ないの?


 そんな疑問に時計の針は答える事も応える事もなく周りの数字を示しながら回り続けているだけ。

 頭の悪い私には答えが出せなくて、心の底に溜まった澱はいつまでも心の海の底に留まり続けていた。

 そんな想いに対しての答えの一つとなり得るかどうか、ヴァレンシアはこの前の冬に雪と共に帰って来た時に私の言った事、宝石のように汚れ一つ無い心に対してこんな事を語っていた。

「宝石のように美しくて宝石のように汚れがない、私そんな言葉嫌い。大嫌い。宝石なんて硬いもの嫌だし汚れ一つないなんて嘘みたい」

 そしてヴァレンシアは好きなものを綺麗な口から出る下手な言葉で語るのであった。

「私日が昇って月昇る大地みたいに明るくも暗くもなるとこが好き。そして何よりアンナが大好き」

 そして私の肩を何度も撫でて艶やかで熱っぽい表情と生々しい吐息で私の心を惑わす。きっとこの姉は妹である私に抱いてはならない気持ちを抱いている、私もまたそうであるように。その証拠にあの時のヴァレンシアの空色の瞳には私の姿しか映っていなかったのだから。


   ☆


 窓から微かに日が差す家の中、目が覚めたばかりの私は仰向けに寝た姿のままそのような事を考えていた。乱れた金髪と寝巻きが膝まで捲れ上がっている私。こんな姿をヴァレンシアが見たらさぞ喜ぶ事であろう。私に対する想いを抜きにしてもあの子は女の寝顔とだらしない態度や姿が大好きなのだ。今この場に立っていたとしたら人前では晒せないような表情で褐色美人な顔を台無しにしながら可愛いと言うのだろう。私はそんなあの子の事を可愛いと思ってしまう事が悔しくて堪らないがやはり可愛い事は可愛いのでとても可愛くて堪らなくてそんなあなたが可愛いって言ってしまうのだろう。

 私は着替えて髪を整えて部屋を出た。食卓につくと共に父からとんでもない言葉を受け取る事となった。

「アンナ、実は近々魔女たちによるある神……いや、悪魔の召喚が行われるらしい。山羊の頭とカラスの翼を生やした非常に強力な悪魔だ」

 父は言の葉を撃ち続ける。

「お前も知っている通りうちは近年不作が続いている。豊かな方がいいよな」

 召喚されるのは恐らくサバトの牡山羊レオナールかバフォメット、あの悪魔たちに豊穣を司る力などあったであろうか。バフォメットならば有り得るかも知れない。私は悪い予感というものを久々に心の表面に浮かべていた。

「ただ手伝うだけの穀潰しの異端魔女アンナ、その穢らわしき生命に相応しき任務を与えて差し上げよう。召喚される山羊を別のものに変えて乗っ取ってくれないか? 『千匹もの仔を孕みし森の黒山羊』に」

 あぁ、それは無理不可能、到底出来る事ではない。なんて愚かなのだろう。無知なのか迷信すらも信じて病まない純粋な大人なのか。どうして文学小説の中の存在を引き出してくるのだろう。例えば錬金術師に物質をアダマントに変えてくれと頼んだところでそれは叶わぬお話であろう。何せそれは架空の存在なのだから。

 私はそんな無垢な大人である父を心の底から見下しつつも行けと言われたら行く他ないと諦めて支度を始める。我が家という小さな国の王様とお后様に言われたように出かけたのだ。決して叶わぬ任務を放っておいた魔女旅行に。


   ☆


 ローブを着た魔女たちが集まる森の奥で私は木々の隙間から零れ落ちてくる暖かな日を浴びて岩の上に座っていた。イスにしては固いが贅沢は言えないであろう。私の女にしては高い身長と長い脚を持つこの身体を休めるには程よく高いイスなどそうありはしないのだから。蝶が舞い、風は踊り、獣が遊ぶ。そんな景色をいつまでものんびりと眺めていたかった。自然に見蕩れて空を飛ぶ鳥に目を向けていた私はローブを着た魔女たちが一定の方向を見ていた事に気が付かなかった。

「あら、ローブを着てない。ウェスト家の者ね、その服装、一体どこの民族のものなのかしら」

 今の私の服装それは白い布一枚を身体に巻き付けたようなもの。左の腕から肩までもが一切包まれておらず、褐色の腕はむき出しになっていた。そんな服装、私の住む国の人々から見ても異邦の者としか思えないであろう。

「あなたは何者でございましょうか」

 そんな私の問いかけに白い肌の柔らかな少女は丁寧に答えてくれた。

「私はエミリー・フレイユ、火の使い手よ。魔女としては少しばかり実力が足りないけれども今夜の儀式で悪魔から力をいただいて〈焔の魔女〉になるの。楽しみで仕方がないわ」

 そのような言葉を述べるものの恐らくは親の受け売り。本人はどのような悪魔を呼ぶつもりなのか、どのような行為を以て契約を結ぶのか、それすら分かっていなければ思考の果てにある事実を追うこともしなければ謎という名の霧に片腕を突っ込む事すらしないであろう。そもそも白く上品なドレスを身に纏うこの少女から漂ってくる雰囲気は朝日を浴びてあくび混じりに伸びをしてクラッカーにパテを塗り食べた後には温かな紅茶を堪能しているような育ちの良いお嬢様、と言ったものであろう。

 そんな世間知らずならば私にとっては都合がいい。計画を容易く実行出来そうだ。その少女には悪いが表面上だけでも私はやらなければならないのだから。


   ☆


 闇に閉ざされたこの世界の中、空には星々を散りばめられていて、大きな月の輝きが空を微かに明るく彩っていた。

 灯りを包んだこの建物の中、チキンの香草焼きの香りに鼻腔をくすぐられながら魔女たちはハムエッグトーストを食べながら談笑していた。香草焼きはあの少女専用らしい。そんな少女はチキンの香草焼きを頬張りながらスープを飲んでいた。

 その光景を眺めて私は外へと飛び出す。レタスとハムとトマトを挟んだサンドイッチを口に入れながら闇の中へと溶け込んで行く。きっと今の世界で最も明るい月でさえも私の姿を照らす事など出来ない。例の儀式が執り行われる場所へと足を運ぶ。そこに描かれた魔法陣や供物に細工を施すのだ。不細工なままでは美しきヴァレンシアに似た私とは到底釣り合わないのだから。私は予め用意していた松明に火をつけ、地上に輝く星を作る。両親が希望する名状し難い黒山羊など文学の中の存在に過ぎない。故に私は別の山羊、バフォメットを私が主となるようにこの地に呼び出す事に決めていた。バフォメットの権能には諸説ある。仮に豊穣の神性で無かったとしても。

「強力な悪魔を連れ帰っただけでも何かしらの得はあるだろう。徳はなくなるだろうけど」

 などとヴァレンシアがいつの日かの手紙の中にイタズラな笑みを浮かべながら綴ったであろう日本語の文法を真似して呟きながら私は魔法陣を台無しにしてしまわないように、かつ私に悪魔が服従するように、慎重に図形を描き換えていく。

 描きながら見てみると魔法陣とは宇宙のようにも見えてくるものだ。触媒は宇宙の中で生き続ける星であろうか、その星たちを動かし物によっては取り替えていく。ここまで変わってしまった宇宙は最早私の物でしかなかった。

 成し遂げたことに、出来上がったそれを目にして想いに浸りながら最後の触媒を手にしていると多くの足音が不規則なメロディを奏でているのが聞こえた。私は急いで最後の触媒を置いてその場から立ち去る。


 時を待て、まずは気付かれないように、ただの遅刻者のフリをして後から加わるのだ。


 それが過ぎれば証拠は何も何処にも残らない。


 暗い夜道の中、大勢の魔女たちが集まっていた。

――遅刻のフリをするまでもない

 私、アンナ・ウェストは儀式の開始前に魔女たちの群衆を掻き分けて自身にとって最も都合の良い場所に立ち、息をつく。

 そして始まった儀式を眺める。世間知らずな少女の美しき舞いと歌声は心を夜のように落ち着かせる。少女の差した指の先の向こうを見て気が付いてしまった。最後の触媒の向きが誤っている事に。少なくとも陣の描き込みからしてここから予定通りに動けば餌食になる事はないが、何が呼び出されるのか、何も呼び出されないのか、それすらも分からなくなってしまった。

 そんなアンナ、こんな私の思考など誰にも知られる事なく儀式は進んで行った。

 どれだけ時間が経ったであろうか。

 舞いが終わった。その瞬間の事、私は陣の中へと飛び込み少女を突き飛ばして追い出した。そして即座に陣に手を着く。私より流れ出た血のような赤い魔力は陣を伝って全てを満たしていく。何よりも誰よりも光よりも速く。

 するとどうだろう。大気に漂う闇が蠢いて陣の外にいる魔女たちを次から次へと食いちぎり飲み込み溶かして行く。そして現れた存在、それはコウモリの翼の生えた一頭の山羊。それは私の知る限り私の想像どころか親が頼んでいた存在とも異なる悪魔。その山羊の濁ったガラス玉のような瞳が私を捉える。何も言わずとも私には分かった。何ひとつ努力も交渉も必要とはせずに契約は成立していた。恐らくは名もなき低級の悪魔だったのだろう。しかし魔女たちを飲み込んだ事で明らかに力が底上げされていた。


 タチが悪い。


 現状を受け入れる事しか私に為す術がなくて、それもまた実にタチの悪い事であった。


   ☆


 一寸先の光すらも見い出せないような闇の中、私は畑に肥料を撒いた。愛も無く娘を育て続けて来たふたり。かつて動いて考えて言葉を話していた肥料たち。

 それはつまり私に自由をもたらした事を示していた。

 私は静かな闇の中呟く。


 ヴァレンシアが帰って来たら何を話そう。


 そう言いつつも既に話す事は決めていた。現在と言う清浄なる文明の時代の中に大いなる穢れを背負いし罪人の誕生を綴った偉大なる自伝、私の歩んで来たこの物語。


 あぁ、ヴァレンシア!


 あなたが帰って来るのが非常に楽しみ。


 この話を、この熱が冷めてしまわない内に話してしまいたい。


 この私、〈山羊の魔女〉の物語を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る