第6話 ハーブティー

 駆け抜けて行く。風を切って進み続ける。視界をよぎる木々たちが残像を残しながら手を振っている様を目にしながら走り抜ける。

 その目を覆う黒い霧、深く息苦しい不安にも似たあの姿を振り返ること無く見送るように、陰のある感情から逃げ出すように未来へと向かって進み続ける。

 その手に、褐色の指に挟まれて薄らと輝くスミレは果たして役に立つものだろうか。分からない、しかしながら普通では無い何か。漂ってくる独特で妖艶な香りを覚えて輝きをその目の中に収めて。そうした行為と並んで自宅へと駆けていく。

 まるで地を滑る鳥のような様だった。

 家にたどり着くと共にあの本棚へと足を踏み入れるべく記憶に馴染んだ道を進んですっかりと目に入れる心地を覚えてしまった木の板の如きドアを開く。

 中に蔓延る暗闇に覆われて、入り口脇の手持ちのロウソク台に火を灯しマッチの火がすっかりと消えた事を確認して缶の中へと落とすように放り込む。緩やかなチカラに押されて落ちるマッチの姿は自由を思い望む彼女の在り方のようにすら思えてくる。

 それから壁に掛けられたロウソク台にも火を灯し、準備は全て完了した。電球すらない書斎、部屋全体が辞書のようなモノ、知識を格納した情報の空はそこに広がっていた。電子の海に対して物理の空。0と1が書き上げる文字列などでは無く人々の創り上げた知能や想いを伝えるための能ある芸術。

 果たして現在という時を歩む中で必要な空間なのだろうか。一瞬だけ疑ってはみたものの、この辺鄙な田舎、世界を見つめる太陽でさえも見逃してしまいそうな小さな村に電波が通る日などまだまだ遠い未来の話に感じられた。世界中を駆け巡りながらもここにまでその手が伸びない技術がこの村を訪れるまでの距離はあと何歩だろうか。何メートルで何フィートで何里なのか。どの単位でもどの数字でも表すことが叶わない程の圧倒的な距離感を見ていた。その考えに物理法則という視点など一切意味を成さなかった。

 そんな遠い文明たちから切り離された世界の中に居座っては更に切り離された結界の中に在りし切り離された夢の世界の一部屋の中でヴァレンシアは背の高い本棚とにらめっこをしていた。うつつで調べ終えた本を除いて目を通したのかすら思い出せない本は記憶に刻まれていないのだと潔く諦めつつ一応机へと運び確実に未確認の本はどれかと目を通して確認して。内容からして選び抜かれた二冊を残して他は棚に仕舞い込む。

 その時、傍目にて、意識の半分外の視界の領域に床を見てひとつの違和感を覚えた。

 恐る恐るそこに目を向けたヴァレンシアを迎え入れたものは三段の脚立だった。小さな木のは身体を染めること無く木の色そのもの。全体的に愛情の無い親、娘のことを魔法使いとしての価値でしか計ることを知らない冷たい口の持ち主ではあったものの、娘たちが子どもの頃から勉強に不自由しないようにと作ってくれたものだろうか。

 脳裏の片隅に父が小さなハンマーを手にして釘を何度も打ち付ける仕草を思い出していた。あのリズムの刻みが心地よくて何度も頷くように拍を取っては遊んでいた。

 そんな埃被った記憶を振り払い、空色の目をキラキラと輝かせながら虚空から剣を呼び起こし、その手に握り締めて脚立を切り裂いた。忌々しい思い出の中で生き続ける刺々しい感情を振り払うように、幾度となく斬っては粉々に砕いて。親の顔も尊厳も、ハンマーを手にしていたあの思い出の中の映像でさえも残さないようにと何もかもを踏み潰しその手で砕き、闇に塗れた追憶をも破り捨てては人格に難のある人物の顔に空色のバツ印を刻み込んで。

 しばらくの間渦巻き暴れ続けていた怒りが収まった時など覚えていない。肩で息をしながらいつの間にか全てが沈みきっていたことに気が付いて。

 ヴァレンシアの手から剣は消え去り代わりに本が収まっていた。

 その二冊。いつ失われたのか分からない本たち。

 夢の中では魔法を扱う事が出来た。現実では何故だか見当たらない本が収まっていた。この場所はうつつの世とは異なるものなのだろうか。

 本に目を通すことであの札には塩と火を、案山子の如き簡素な像には同じ色の魔力を通して物理的破壊をもたらすことが解呪の手段なのだと確認した。

 ヴァレンシアは手を見つめた。物理的破壊。そのためには何が必要だろう。器具のひとつも無い状態で打ち壊すことの出来る程度のものなのだろうか。褐色の腕を曲げて確認しては首を傾げて答えを頭の中に呼び起こす。

 これからうつつに戻って行うことは金槌の用意と像の調査。特に魔力はどのような質感と色をしているのか、触り心地と温度と重みは。そういったものを計った上で薬草を煮詰めなければならない。魔力自体は同じ血が流れているヴァレンシアのものを用いれば良いだろう。少量の血を加えることでそれが解決策となり得るはずだった。

 そう思いつつも頭の片隅では別の想像がいつまでも駆けていた。主張を続けていた。虚しい程に確実性の無い考え、明らかにアンナが結界の主、否定など出来る段階では無かった。それでも尚信じ続けたい、愚かな思考だと分かっていても止められない。ヴァレンシアにとってはアンナが敵であるという現実そのものがこの世界に蔓延る何者よりも邪悪なる悪魔に思えて仕方がなかった。

 目を閉じて、うつつを思う。この世界から抜け出す手段など分からないものの、知らないはずだったものの、身体が知識を持ち合わせていた。

 ゆっくりと伏して、意識を沈めてすやすやと寝息を立て始める。

 うつつから眠りを通して夢に入ったことと同じ、夢で眠ることこそがうつつへと戻る方法だった。


 目を開いたそこに広がる景色は暗闇。正面に映るものなど何もなく、ただただ埃っぽさが身体を蝕み軽い息苦しさをもたらす。

 そんな中、手元から澄み渡る薄らとした輝きに目を向けてそのまま見開いた。その目に収まる紫色の輝きとガラス質の儚い花弁。漂ってくる優雅な香りは紙と古びた木の棚の香りに混ざって押し込められてそれでも美しさは感じ取ることが出来た。

「すみれ、持って帰れたんだ」

 手の温度でしなびてしまわないように素早く持ち出して鞄に挿す。眩しい輝きのおなかではほんのりと色づいているようにしか見えなくて、それでも空気の中のほんの一欠片を自分色に染めていることをその目で捉えて蔓延る愛しさに身を寄せていた。

 他にやるべき事はあっただろうか。薄らとぼんやりと、いまいちこの場所に馴染み切れていない頭で、寝ぼけた状態で考えては地に足を着いた思考が戻ってくるまで無駄を踏み続ける。

 考えることすら出来なかった朧の思考。それが少しずつ正常を取り戻し、現実をつかみ始める。

 今やるべき事、それはしっかりと頭の表層に現れた。

「そうだ、今やること」

 ヴァレンシアは家を飛び出して駆ける。全くもって休みを感じられない帰郷の中、せわしさは更なる加速を見せていった。

「結界を調べなきゃ」

 結界の制作者がアンナであるのならばヴァレンシアと同じ香りが漂ってくることだろう。そんな香りが主旋律なのか副旋律なのか、それ次第で分析の難度が変わってくる。

 ヴァレンシアは祈りながら走る。どうか見つめることに慣れた魔力、いつも己が纏っているそれが補助であるように、見分けやすい姿をしていますように。そう願い続けていた。

 大して広いというわけでもないこの結界、開けた景色の向こうには人の見えない畑が広がっていた。この時間、向こうでは人々が耕しているはずだがやはり人という不純物はどこにも見当たらない。そんな畑を駆けて途中で方向を変えて。

 目前に迫る森。次第に大きくなっていく木々、詳細な姿を現し始めた葉。

 突き進んでそのまま大きな緑の中へと、開かれた口、濃く塗られた茶色の歯の隙間から堂々と入り込む。

 森とはいえども迷うほどには広くもなく、ヴァレンシアが幼い頃には子どもたちがいつもはしゃいで木を登って、虫や植物を見つけては周りに見せびらかすという退屈知らずのアスレチックだった。

 しかしながら今は人のいない世界、この世界にふたりきり。社会も何もないそこで果たして何を生み出すことが出来るのだというものだろうか。

 子どもはきっとこの場所に留まることはないだろう。アンナが人口を大幅に削ってしまったのだ。日本と異なり村に住まう人間などそう多くなければ出て行く人物は少なくても入ってくる人物はもっと少ない。この村は放っておいても数百年ともたずに自然へと帰ってしまうことだろう。

 森の深緑、木漏れ日と木陰の織りなす優しい模様を心に染み渡らせながら進んでいく。緑の陰影と茶色の中に混ざる光の欠片が絵画には見られない種の感動をもたらす。

 そこまで落ち着いていなければならない。例え狭い森だとしてもたったひとつの像を見つけることなど難度が高いものだ。

 田舎の入り口にも確かにあった、探せばあとふたつは像が見つかるだろう。しかしながらこれから行うことは調査。探ることが目的である以上、像の側に留まることは必然。アンナの目に入りにくいこの場所で行うことが最善だと判断した。

 出来れば見つからないことが望ましいものの、仮に見つかってしまったならばどのような言い訳を紡ぎ出そうか。事実に気付いていないふりをしながら脱出する手段を探っていたと言うべきだろうか。

 愛する妹に対して嘘をつくと言うこと。例え敵だったとしてもかけがえのないたったひとりのあの子を欺くということ。

 ヴァレンシアの中では大いなる覚悟を必要とすることだった。

そうした覚悟を胸に秘めて、空色の瞳にかかる雲を想いながら、この場所には無い色彩、曇り空という空想の絵画を見つめながらゆっくりと歩く。

 記憶が正しければこの辺り、そう判断を下して探り続けることどれだけの時間が過ぎ去ったか。集中力が一秒という時間さえも引き延ばしている様に触れてヴァレンシアの中では夢や現実や心といったものの不思議が渦巻いて奇妙な模様を創り上げていた。

 こうした景色を、存在するものしないもの、関係ありなしかかわりなく織り交ぜて進む中ではあれどもヴァレンシアはしっかりと現実の景色を見ていた。

 やがて目に入るもの、やがてたどり着いたもの、ヴァレンシアを迎えて立っていたものは、見間違えようも無いあの案山子の如き像。ヤギの頭をした骨を被った禍々しきそれは近寄るだけでも嫌な予感をひしひしと伝えてくる。

 威圧になど負けるな。

 そう言い聞かせて足を進め、像の観察を始めた。

 腰を折り、視線を案山子の像の顔に合わせて見つめる。

 札の提げられた顔、まるで中国の妖怪を思い起こさせる。何ひとつ関係無いものであっても連想させるほどの強烈な特徴と抽象的でも成立する再現性に感心を覚えながらも札をめくって観察を始める。

 そこに見える何か、そこから漂う魔力はあまりにも息苦しい色合いをしていた。

 ヴァレンシアと同質の魔力はほんのわずか、一滴程度の薄いもので、他にはすみれの香りと輝きが見て取れた。更なる雑味が、草の香りが織り交ぜられて心地よさを覚えそうなはずなのに不快。真昼の家で時たま湯気と共に染み渡っていたあのハーブティーの香りにも似ているはずが何故だか全くもって落ち着きを与えてくれない。それどころか満天の不愉快を演奏しては嘲笑う悪魔の顔がしっかりとこちらを覗き込んでいた。

 あまりにも苦しい様に顔をしかめながらすぐさま顔を離して距離を取る。あまりにも不穏、あまりにも気色悪い、今すぐにでもその場を離れたい。そんな欲望が堂々と胸を張り立っていた。

「なにこれ、キモチワルイ」

 あまりの心地の悪さに今すぐ破壊してしまいたくなってしまったものの、そうしてしまえばきっとどのような肩書きや腕前も意味を成さないほどに強くて深い呪いにかかってしまうだろう。

 それならば不快で済む方が何倍もマシ、そう言い聞かせて即座に像の傍を離れる。

 もしかすると壊したくなる衝動そのものが悪魔による仕掛なのかも知れない。欲望という弱みを突いて打ち負けてしまう人物に、状況を読みながらも動いてしまう救いようのない人物に掬いようのない呪いをへばりつかせて終わりにしようという魂胆なのかも知れない。

 夢の中では魔法が使えた。もしもあの魔法で容易に破壊してしまった場合に待ち受ける未来は想像を巡らせるだけで鳥肌が立って仕方がなかった。

「人間のことを甘く見るな」

 睨み付けて声を尖らせる。そうした態度までもが弱みを見せているようで、どうすれば良いのか、どのような姿勢で立ち向かえば良いのか、そうしたことのひとつも見えてこない。

 この世界の暗部は魔法使いだろうと思い込んでいた彼女の中に真の暗部というものを叩き込みにきていた。人間という種族如きが闇の中心だと錯覚するな、そう言いつけに来ているようにも感じられた。

 これ以上は見ていられない。距離は取ったものの付き纏ってくる気配の余韻、それはあまりにも見苦しく、人というものに最も近く思えてくる。

 人と変わりが無い。人というモノが創り上げた陰の塊。それこそが悪魔なのだと直々に教え込まれた。

 知ってしまったからにはもう二度と触れたくないあの感覚、分かっていることだが再び触れなければならないと言う事実。

 今は引き返し、喉を押さえながら走る。立ち向かうための手段は手元に殆ど揃っていることを記憶の中の形無き情報を見返しながら確認することで下品な感覚から目を逸らす。もしかするとあの悪魔と戦う際には向き合わなければならないものなのかも知れない。それでも今は今だけはと背を向ける。そうした弱みには入り込んでいないのかそれとも弱みを見せた結果が何も変わらない今ということだろうか。

 考えるほどに、思考の回数を稼ぐほどに分からなくなる。自己という迷宮の深みに落ちてしまう。まさに悪魔の想いのまま。

 そんな中、弱みや負け惜しみを包み込むある感情が湧いてヴァレンシアの口からひねり出された。

「今に見てろよ」

 感情を持つことすら、悪魔を意識することすらいけないことだと思いつつもその想いだけは手放すことなく走り続ける。

 きっとこれから始まること。ひとりの仲間を出迎えて始まる戦いは邪悪なものだろう。アンナの想いは分からない。妹、最も身近で大切なはずのあの子の心が分からない。

「知りたい。あなたの本音を聞いてみたい」

 それはこの世で最も大切な財産となるだろう。大切な人の曇り無き想い。どれだけ磨かれた宝石よりも輝かしい宝物。例えそれによって傷つくことがあったとしても、構わない。覚悟はとうの昔に出来ていた。アンナのことを想いながら立ち向かうこと、それを忘れさえしなければどこまでも恐ろしい存在にでも立ち向かって行けそうな気がした。

 やがて畑が目に入ってくる。空は未だに明るくて心地よい。

 魔法に関する薬を保管する部屋などはあっただろうか。記憶には全くなくて材料もまた自己解析からの判断。材料もあるのかそれすら分からない。

 嗅覚の記憶が、感覚が組み立てた成分表が失われてしまわない内にメモを取る。家にはどれだけのハーブが残っているだろう。どのように作り上げれば呪いを解く為の薬にすることが出来るだろう。

 考え巡らせ家に残っているはずのハーブティーを探りに行く。全ての解呪は同時でなければならない。燃やす以上、魔封じの呪縛だけでなく結界を張る像にまで影響を与えてしまいかねない。札を燃やすためのマッチも探しておかなければ、金槌は家の脇の納屋の何処に仕舞われているだろうか。

 知らないことだらけ、関心など何ひとつ無かった過去の己に感心しながらも進み続けるその足はやがて身体を家の前にまで運び込んだ。

 始めに何を探そう、何をしよう。選ばなければならない。時間は余裕を与えても心は余裕を与えない。まさに敵地で寝泊まりしているようなもの、敵の陣地で武器を探しているようなもの。本来あるはずの余裕もそうした事実だけで失われてしまうものだった。

 鼓動は早まりますますうるさく響いて頭の中に血が昇っていく感覚を味わいながら進む。

 まず手始めに言えのドアを開けた。

 途端にアンナの残像が見えた。

 残像、残した幻影は幻では無くなり消えゆく。目の前で止まりヴァレンシアの目を見つめながら口を開いた。

「どうしたの、何やってたの」

 まくし立てるような声の荒れと速さを誇る問い詰めは真実を知るヴァレンシアからすれば焦りの表れのようにしか見えなかった。

 アンナの態度が自ら敵だと告げているようにしか見えなかった。

 そんな強者らしさ皆無の威圧を受けながらヴァレンシアはわざとらしく笑いながら答える。

「本当に近隣住民みんないないか探してたの。ほら、帰ってから一度も外出てなかったもの」

 アンナの目がヴァレンシアを陰で包み込む。紅く色づいた輝きは何故だか明るさを一切持たない。

「よかった、森や像にはあまり近付かないこと。そこから出て来る悪魔の手によってみんな肥料に変えられたのだから」

 悪魔は農作に関係する存在なのだろうか。豊作の恵みをもたらす悪魔。人を生け贄にすることによって、文字通り土に返すことで作られた肥料の恩恵を受けたたくましい野菜たち。

 想像を巡らせるだけで限りなく湧いてくる吐き気が猛威を振るってヴァレンシアを充たしていった。

 のぼせ上がるような目は感情を悟らせてしまったのだろうか。アンナの褐色の手がヴァレンシアをつかんで引き入れる。

「そんな顔をしないで。もっと優しい顔をして」

 そんな彼女の言葉はどうしてここまで震えているのだろう。疑問を持っていたものの、解き明かすことなど全くもって叶わない。ドラマや小説に登場するような名探偵のような鋭い観察眼など持ち合わせてはいない。

 人の心は簡単に見透かすことの出来るような単純なものでは無かった。

「ほら、ちゃんと休んで。落ち着けるようにティーでも煎れようか」

 たまたまだろうか。それとも分かっていて口に出したのだろうか。ヴァレンシアの中に湧いてくる疑問は延々と回り続けて余裕を更に奪っていく。

「どうしたの、何かおかしなものでも見たの」

 訊ねてくるアンナ。その顔色からは心配の情など一切見て取ることが出来ない。アンナが奏でる声はどうして余裕を持たないのだろう。ヴァレンシア本人の心情の映し鏡だろうか。ヴァレンシア自身の想いがそのような味付けをしているのだろうか。

「なんでもない。本当に誰もいないんだって、みんな野菜の栄養にされたんだって想うだけで苦しくなって。それだけ」

 これ以上心の内を悟らせるわけには行かなかった。このままでは全てをさらけ出してしまいそうで、今ばかりは素直に出て来てしまう表情を恨んでいた。

 嘘をつくことが下手。それは美徳とも言えるかも知れないが同時に人間社会の中ではあまりにも見苦しい性格だった。

 アンナの手はそこそこの勢いを付けて離れて、それでもヴァレンシアが上がることを目で促す。

「何か出すから上がって」

 心配してくれているようには見えない。少しの冷たさを感じる声は心にまで涼しさを運び込む。日本では感じられないほどの暑さは間違いなく涼しさなど持ってきてはくれないものの、冷房器具すら無いこの環境ではあったものの、今この瞬間だけは涼しくて。

「カモミールでお願い」

 一度だけ頷いてアンナは台所へと向かう。ヴァレンシアもまた、後に続く形で台所の傍の椅子に腰掛ける。

 アンナの手によって注がれる熱々のカモミールティーは仲直りの証となってくれるだろうか。敵対関係、表では一切見えてこないこの関係は優しい香りによって消えてくれないものだろうか。

 澄んだ黄色は優しい香りを湯気に乗せて運び込む。カモミールティーによる落ち着き。魔女がかつて扱っていた魔法という代物はこうした心に作用する雰囲気うやカフェインのような心に作用する成分、今では科学という括りに纏められた現象を用いたものだったのかも知れない。

 熱々の優しさを鼻で舌で身体全体で味わっては笑顔を向けてみせる。そんな表情はアンナに対して意味を成すものだろううか。

 注ぐ情が無ければどのようなものであれども無価値へと成り下がってしまう。

 果たして目の前の中学生はどのようなことを如何なる方向から見ているものだろう。もしかすると未だにヴァレンシアには自分が悪魔の主であることを見抜かれていないと思い込んでいるのかも知れない。

 身内のことを平気で殺してしまうそんな彼女を見ては寒気が走ってしまう。先ほどまで大切に思っていたはずなのに、目一杯の愛を注いでいたはずなのに、今では鳥肌とセットで無ければ目を向けることすら叶わない。

 そうしたことを意識するだけで途端に味が感じられなくなってしまう。香りも本来もたらされる落ち着きさえも何もかもが否定されていく。

 ヴァレンシアの目に曇り空でも広がってしまっていただろうか。アンナはそんな彼女の目を覗き込みながら優しさを擦り込んだ声で訊ねる。

「どうかしら、私が煎れたティーは」

「ええ、美味しいわ。とても」

 どうにか言葉を捻り出す。緊張が走って気が気でない。心臓の鼓動の早まりは状況が状況なだけに魔女の薬の作用を錯覚させた。

「それなら良かった」

 案外落ち着いている、向こうからすれば何もかもが順調だと言うことだろうか。彼女にとっての障壁は今やあの札と結界だけなのかも知れない。

 ヴァレンシアは澄んだ液体を、まだ温もりが大いに残されたティーを啜りながら訊ねる。

「向こうに持って行って良いかしら。これとペパーミントとドライフルーツのクランベリー」

 一息の間が置かれる。その間の短さはまさに瞬くまであったものの、深く虚しい沈黙の色が蔓延っていた。

「それとオレンジのティーも」

 なんとも注文の多いことだろう。それだけの量を持って帰る事が出来るのだろうかと疑われてはいないだろうか。そもそも元の荷物がそれなりに多いという事実が背中に重たくのしかかる。

「欲張りさんね」

 ダメだっただろうか。アンナの顔からは感情が一切見えてこない。元々感情がどの程度表に出る子だっただろうか。出していたとしてもそれが本性だったのだろうか。分からない。悪魔を呼び出した本人と情報ひとつでどこまでも疑心暗鬼に陥ることが出来た。

「お好きなだけどうぞ」

 無事だったらしい。表情ひとつ変わらないのは持って行かれても問題ないからだろうか。それともどのみちこのセカイから踏み出すことを許すまでも無く肥料に変えてしまうからだろうか。

「ありがとう」

 頭を下げて礼を述べて立ち上がる。棚から塩とカモミールとペパーミントにオレンジ、隣の新聞紙が敷かれたかごから干されて乾ききったクランベリーを手に取り自分の鞄へと入らないことを確かめては透明な袋を取り出してそこへと優しく入れ込む。

 これで結界破りの秘薬の材料は全て揃った。あとは父の物置としての役割しか果たせていなかった納屋へ行かなければならない。ハンマーを手に入れなければ破壊は無理だと今でも信じ続けていた。

 同時破壊を行うからには魔法に頼ることも出来なかった。

 そんな中で取ることの出来る唯一の武器のように思えた。瞬時に威力を発揮できる武器と言うからにはヴァレンシアが握り慣れている剣のように扱えそうなノコギリの威力には頼り切れなかった。他には鉈や鍬などが挙げられたものの、それら全てを含んで持ち運びの便利を基準にするならばやはりハンマーの択しか残されていなかった。

 アンナの方を見つめ、声を上げる。

「ごめんなさい、夕飯の準備は頼んでいいかしら」

 額に手を当てる仕草はヴァレンシアの帰郷の疲れを思わせてはくれただろうか。アンナは笑顔でクシャクシャにしながら答えてみせた。

「そうね、その代わり明日はお願い」

「昼食も作るね」

 そうして秘薬の作成までの時間を未来に確保。明日の昼食作りの時間こそがヴァレンシアにとって最大の勝負の時となった。昼食を作る時同時に夕飯の一品を装って秘薬を作るというヒミツのスケジュールが作り上げられた。

 アンナが夕飯の支度を始めるまでその場に座っては何かを行う事もなくただただ休憩の時間とするだけ。

 新聞のひとつもなければテレビもラジオもない。そもそもそう言った娯楽に触れる意味を知らない親が作り上げたと言っても過言ではないような家庭。故に殆ど必要なものしか取り揃えられていなかった。

 日本では日が沈み始めただろうか。時差を考えるならば今爽やかな朝を迎えては憂鬱な社会に足を踏み入れている頃だろうか。詳しく分からなかったものの、そうだと予想しながらもここが日本であったならばそろそろ薄暗くなる頃だろうと想像を巡らせてアンナが台所に立つ瞬間をその目で認めると共に家を抜け出した。

 目的などただひとつ、それを果たすべく納屋へと向かう。

 マッチに火を付け、揺らめく輝きをロウソクへと移して。

 そこですぐさま工具や農具が掛けられている棚を見つけてヴァレンシアはハンマーを取ってジーンズのパンツに柄を差し込み出ようと振り返ろうとしたその時、農耕具の隙間に白い違和感を見た。

 動きを止めること三秒。その間に考えた行動などただの引き寄せ。目は当たり前のように違和感へと向けられ農耕具を除けて白い違和感に触れた。

「紙、どうしてこんなところに」

 手に取って紙に書かれた文字に目を通す。

 そこには愛しい人の行動の痕跡、彼女自身の文字でこう書かれていた。



 この村を訪れた者には三日後の夜


  カウントを終えた悪魔が動き出すだろう。


   その者の命を奪い 肥料 へと変えて畑に撒く。


 二日間、それだけの時をこの土地で過ごして馴染ませること。


  三日目にようやく動き始める。


   その過程を経なければ


    この悪魔は人物の実体を完全には認識できない。


     別の視点のランクに立つ〈山羊の悪魔〉には ――



 紙をめくると共に現れた文字列、その事実の羅列からヴァレンシアは目を離すことが出来なかった。

 そこに記されていたのは他でもないアンナ自身の体験談だったのだから。

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