Chapter 3 正体

第5話 スミレ

 昼ごはんのひとつも入れないままに過ごしたあの昼、睡眠だけを少しだけ貪ったあの昼。それはもう過去の景色。辺りは暗く見るからに外に出るのは危ない時間だった。この森の中に殺人鬼あるいは悪魔が潜んでいるということ。どちらにしても人としての心など持ち合わせていない。何がどうであれども悪魔のようなモノでしかない。

 帰郷してから初めての晩ごはんは小麦を練って蒸したパンにも似た代物に野菜スープ。

 インフラが生存していると言うことに感謝を込めつつパンのひとつさえ買いに行くことの出来ない現状を睨み付けては受け入れる。

 これから待ち受けている出来事を想像しては身を震わせる他なかった。

 結界の中、空に降りた帳の下で悪魔とともに過ごす夜。この領地の主は今どのような表情をしているものだろうか。

 考えても仕方がない。

 分かってはいても警戒と緊張は解けること無く、ヴァレンシアの舌はロクに料理の味を楽しむ余裕を残さない。

「考えても仕方ない、自分が狙われてるならそう思ったのに」

 思わずこぼしてしまった言葉を拾い上げてアンナは食事に与えられた笑顔を掻き消して言の葉を撒いた。

「そんなこと言わないで」

 アンナが今狙われているはずだろう。そうであるにもかかわらず彼女は余裕の笑みすら浮かべていた。この余裕の謎が知りたい。一体何を思っているのだろう。彼女の抱える強さの秘訣が知りたい、彼女の強さに抱かれて彼女と同じ強さを抱えていたい、そんな欲望の渦に飲み込まれていた。

「アンナって強いのね」

「違うわ」

 アンナはヴァレンシアをしっかりと見つめ、言の葉の続きを紡ぎ出す。

「私は見てきたから。あのヤギの姿をした悪魔が人々を肥料に変える姿を」

 肥料に変えると言うこと、その意味がヴァレンシアには理解が出来なかった。

「随分と綺麗な魔法ね」

「とても残酷よ」

 肥料とはどのような意味を込めて放った言葉なのだろうか。人を殺してそれを使って造るのだろうか。だとすればあまりにも恐ろしい。想像しただけでヴァレンシアの心の底を這いずる感情を埋め込んだ。

「そう、つまり殺人悪魔ということかしら」

 遅れて理解しながら、味わう事の出来ない料理をただただ口へと運び続ける。ここまで味わうことの出来ない食事とともに歩む人生。苦しい感情と共に過ごすその日々はあまりにも不幸の極み。

 結界の外は幸せの空気が集っているかも知れない。隣の街まで戻ることで幸せの味は濃くなるかも知れない。

 今の状況はあまりにも惨めで貧しい。

 心まで貧しい今、ヴァレンシアは幸せとは言い切れないこの状況の味を見つつアンナと共に過ごすことが出来るという幸せだけを噛み締めている。

 空は暗く黒く、星たちはこの分厚い空のカーテンをすり抜けてきた微かな光となって、それでも地上を照らすには至らないという事を確かめ今の想いと重ね合わせ背中合わせ。

「アンナ」

 ヴァレンシアの声はいつもより震えていた。大切なあの子を失ってしまうかも知れないということがあまりにも怖くて。

「どうしたの」

 アンナの返事を受け取ると共にヴァレンシアは告げる。明日にまで受け継がせる考えを述べてみせる。

「明日も本を捲る。私は絶対に負けないから」

それは告白のような味をしていた。ドキドキと胸を握り締める感情は温かくて強い。

「そう、頑張って」

 アンナの声はどこまでも大きな励みになった。日本の学校制度で言えば中学生のアンナ。彼女のことを見つめる度にヴァレンシアのときめきは止まらない。居心地の良い銭湯のような熱を持った感情を抱きながらアンナの額に額を付け、脚同士を絡め合いながらふたりの温もりを混ぜ合わせていった。

 それからヴァレンシアはシャワーを浴びてパジャマを纏って薄いブランケットだけを身にかけて眠りに就く。

 夜には行動を起こすことすら叶わない。今のまま時間だけが無為に過ぎていくのを眺めるだけ。月はいつも浮いているだけのように見えたものの、どのような心境で人々を見つめているものだろうか。全くもって想像も付かない。

 そうして誰にも伝えられない想いを抱き締め己の感情と添い寝をしていたその時のこと。ヴァレンシアは頭に向かってくる感情の気配を肌で見た。

 そこに居座る感情、相手が秘めている情は明らかに息苦しいほどの憎しみ。そんな感情を抱えながら生きる何者かに対して皮肉めいた敬意を捧げてみせる。

 目を開けて気配のする方へ、禍々しさの根源へと顔を向ける。睡眠の妨げになる脅威の排除はしておきたかったものの、襲ってこないことを考えると単純に触れられない相手として扱うことがどうにも正しく思えて仕方がなかった。

 目を向けた先に見た景色はただの景色。何かがいるわけでも蠢いてはヴァレンシアに襲いかかろうとしているわけでも無く、ただただ何も見えない暗闇が待っているだけ。

 そんな景色の在り方に、敵の存在に身を震わせ、正体も思惑も分からないことに怯えながら意識の外にその情を追い出し意識の内にこもって無理やり眠ってやり過ごすだけだった。


 夢の世界に行ったのだろうか行かなかったのだろうか。それすらつかめないまま気が付けば窓から射し込む朝の日差しに心地よさを得ていた。

 明るいところでも悪魔は存在できるはず、しかしながらそこにあの存在はない。それどころかハトが飛び交うこの場所は平和に満ちた閑静な田舎のように思えた。

 大きなあくびを交ぜながら身を起こして、刹菜にもらった服に着替えては窮屈なサイズ感にも慣れるものだと感心してみせる。

いつも通りに押さえ付けられた胸元が少し歪な見せ方をしながら丈が足りずにヘソが丸見えで。

 そんな格好をして部屋に訪れた彼女を見つめてアンナは数秒の沈黙を含んだ妙な空気感を漂わせながらも訊ねた。

「向こうでは服持ってなかったのかな」

「お金がなくて。あとかわいいでしょ」

 ヴァレンシアの気に入り様を耳にして表情を目に入れてはため息をつきながら紅い目を細め逸らしながら答えてみせるのだった。

「そうね、私たちスタイルはいいものね」

「アンナはかわいいわ、同じ格好で」

「いやだ、露出はともかくサイズを合わせて」

 窮屈な衣にも慣れてしまっているヴァレンシアはどれだけ貧乏な生活を送ってきたものだろうか。ヴァレンシアは笑顔で表情を上塗りしていて想像も付かせない。

 朝ごはんにヴァレンシアからのお土産を出し、会話を持ち込んでみせる。

 日本とはどのような国なのか、国民たちはどのような生活を送っているのか、そもそもどのような感情を持って動いているのか。聞けば聞くほどに分からなくなっていったものの、途中で聞いた建前や愛想笑いの異様な多さを耳にすることでそういった思想を持つ人が多いのだと悟っていた。

「もう親もいないし、アンナもおいで」

 ヴァレンシアの提案はきっと好きな人であるが故のものだろう。彼女はアンナに対しての優しさだけは輝くほどに磨きが掛けられていて今回も例に漏れないはず。

 アンナはヴァレンシアの顔が近づいて来る様を、癖を抑えられた髪が同じように癖を抑え付けた髪に触れて額同士が重なるその瞬間を、表情のひとつも変えないままに受け入れる。

「あまえんぼさん」

「好きなの。日本の知り合いがあなたは無性愛って言ってた」

 暴露の声と共に唇を重ねてしっかりと抱き締めて。映し鏡のように似ているふたり、違いなどあまり見える人のいない目の輝きの違い程度のもの。髪型を変えることで、髪のケアしか行わずに前髪を伸ばして放っておいているヴァレンシアに対してアンナは左から流すことで額をみせることで区別を付けていた。

 ここまで似ている人物を愛することが出来るのだろうか。訊ねたところで既に分かり切っていた。今この場で取っている行動こそが綺麗な回答だったのだから。

「女の子、それも妹が好きだなんて」

 続きは語られない。アンナの中に渦巻く暗い想いはあれども、薄い影となって伸びてはいいたものの、それを語ることなど到底出来なかった。

「ええ、おかしいことなんて分かってる」

 声色を読んでいたのだろうか。それとも常識という物差しを日本で買ったのだろうか。アンナの本音をしっかりと汲み取った上での答えをその手にしっかりと握り締めていた。

「どうしようもない人ね」

 分かった上での開き直りほどタチの悪いものはない。親の態度を思い返してはそんな想いを心の表層にちらつかせつつもアンナの口はそんな感情を奏でる言の葉を拾い上げずに覆い隠していた。本来ならばどうしようもないだけで済まされるような話ではない。当事者であり被害者でしかない。そんな彼女だった。

 気が付けば和菓子の甘さを、上品でありながらも甘みを強調するだけのそれを味わう朝ごはんとなっていた。口の中に広がる小豆や餅の香りも食感でさえも甘みを強める効果をもたらしていて全てが一体化していた。それはまさにヴァレンシアがアンナに対して抱いている気持ちと同じ色。それを読み取った上でアンナは顔を向ける。蒸気のように舞い上がっているに違いない相手の感情は表情からほんのりとあふれ出ていた。

 これ以上はもたない。そう判断して話題を現状の視点へと持ち込む。

「で、これからどうやって脱出するつもり」

 ヴァレンシアはアンナの身体に巻き付いた白い布を、他所の民族を思わせる衣装を見つめつつ覆われていない鎖骨やしなやかに伸びる右腕を見つめながらニヤついて、一息つくことでよやく答えてみせた。

「まずは本を調べてみる。昨日漁った分が全てじゃないでしょう」

 自分の腹を撫でながら答える彼女の指がアンナのものより少しばかり綺麗で、穏やかではない嫉妬を抱きながらも恋心へと昇華することだけは分からないまま。

せっかく進む話題を再び逸らす意味も見つからないため触れることなく会話を繋ぎ続けた。

「そうね、まだ四分の一くらいは残っているわ」

 それだけ残っている。しかしそれだけしか残さない程の冊数に目を通してみても見つからない。そんな事実にヴァレンシアの想いに埃が手を伸ばしていた。時間を奪う鎖が絡みついて離さなかった。

 それから日が昇るまでの間、それだけの時間で全ての魔法の書に目を通す。恐ろしいまでの速度は見落としでも呼んでしまったのだろうか。結果としてそこに望んだ成果を引き寄せることはなかった。アンナも協力はした上での結末、二重チェックの末に導かれた結果。見落としを疑うにはあまりにも条件が悪かった。やはりそこに手がかりは眠っていないのだろう。

「こうなってしまった、これが結末」

「ええ、このままじゃなにも変わらない、どうしよう」

 希望は失われた。数十年にも渡って集められた本の中にさえ手がかりが無いとなればそこに待ち受けるものなど絶望以外の何者もいない。

 ヴァレンシアは途中で見つけた『契約に失敗して権利の強くなった悪魔を束縛して抑える』という項目の載った本を指して目を細めて述べる。

「こんな簡単な話だったらよかったのに」

 ただし、その場合はアンナ自身が悪ということ。ヴァレンシアが嫌う流れのひとつでしかなかった。彼女に悪人であって欲しくない。それこそがヴァレンシア最大の望み、彼女の希望だった。

「アンナ、このままだとあなたが野菜に変えられてしまうかも知れない、土に返されてしまうかも知れない」

「そうね、例外はない。全ては例の内」

 何事にも例外はある、どこの道端で聞いたのだろうか。耳が拾った覚えのある言葉を引っ張り出してきていた。

 しかしそれを振り払ってヴァレンシアの空色の輝きは地に沈んでいった。無駄なもの、現実離れした考えなど持ってはならないのだ、そんな想いを胸に焼き付けて昼ご飯を貪る。絶望と共に流し込むパンの味は最悪と呼ぶほか無かった。味がなにひとつ理解しないまま飲み込んで、アンナが浮かべる余裕混じりの笑みに違和感を抱きながらも食料を口へと運ぶ手は止めること無く。生きるためだと割り切って行われた食事は人生の中でも最大限の最低級のものとなってしまった。

「帰ってきてこの仕打ちだなんて」

 嘆くことしか許されない。もはや意見は意味を成さない。これまでひねり出した思考が何ひとつ生きることが無かった。この時点で中身を求めた会話など必要性を失ってしまっていた。

 このままでは何も変わらない。しかしながら変えなければならない。そんなヴァレンシアにのしかかる責任はただひたすら重みを増していく。

「ご馳走様でした」

 コップ一杯の水は妙な臭みを運び込む。固くて違和感を引き起こす。感情の突っかかりが生み出すそれはあまりにも大きくて見逃すことが出来なくて。

「日本の水はもっと美味しかった。インフラ設備って言うのかしら。それが優秀」

 今の状態でも分かってしまう程の違いに悩みは無為に大きくなるばかり。何も出来ないもどかしさは一体どのように解消してみせようか。それさえ浮かばない。実力行使で無闇に壊してしまおうか。気が付けば危険を顧みない行動に出てしまいそうになるほどに追い詰められていた。

「ヴァレンシアったら、日本のこと好きなのね」

 アンナは先ほどの会話に乗っかる。助かることなどとうに諦めてしまったのだろうか。

「帰ってきてから語ることが日本でのことばっかり。よっぽど便利な国なんだねって思い知らされたわ」

 紅く色づいた瞳、薄らとした輝きを持つその目はヴァレンシアをまっすぐ打ち抜いていた。一方でヴァレンシアの目はどこか淀んでいた。

「昨日だけじゃ疲れが取れてないのでしょう」

 そんな様子まで見抜かれてしまっては己が情けなく感じてしまって仕方がなかった。

「ゆっくりお休み。大丈夫、私も少しくらいなら魔法を使えるしヴァレンシアのことはちゃんと起こすわ」

 それを聞いて安心は堂々とやってきた。抑えきれない眠気に身を任せてヴァレンシアはアンナの手を取り寝転がって目を閉じる。

「私も一緒に寝なきゃいけないなんて、まったく」

 甘えんぼさん、そう続けられてアンナの口もまた沈黙を選ぶ。衣服がぴっちりと張り付いてしっかりと線を主張しているヴァレンシアの身体が空気を取り入れては規則正しく膨らみへこむ様を見つめて、顔に目を向け睡眠を確認してその手を離す。

「二日後が決着の場」

 ヴァレンシアという新しい存在が結界の内に入り込んで変わり果てた状況、空気感を見つめる。三日程度で準備は済んでしまうことだろう。伸ばされた三本の指はひとつの夜が過ぎ去ると共に一本折られた後。

 悪魔が動き出すまでの間、何ひとつ為す術を持たないヴァレンシアが何を思い何をするのか、もはやそこが気になって仕方がなかった。



 そこはまたしても過去の中。夢の中だと分かっていた。同じ場所、同じ条件。しかしながら昨日との違いはヴァレンシアの中で大きく膨れ上がっていった。

 昨日は幼子だったものの、今日ここにたつ自分の姿はどう見積もっても大きくなっていた。そう分かるほどに視線の高さが変わっていた。

 景色は変わらない。夢の外のことも思い返していたものの、その景色すら変わりない。これだけの時間を経たにもかかわらず変化の見られない景色に呆れるべきか心を潤すべきか。昨日の夢と大きく異なる点と言えば身長などもそうではあるのだが最も異なる点は始点から自由を得ていると言うことだった。昨日よりも夢の中の身が今に近づいたからだろうか。考えては見たものの分かることも叶わずただそこで思考は止められる。

 結果として向かう場所などただひとつ。昨日と同じように走ってあの森の中へと向かう。中へと入って一直線。その先にあるもの、先で待っている人物に顔を合わせるべく全速力で駆け抜けて。

 森はやがて黒い霧に覆われ薄暗さと禍々しさを演出し始める。それを確認することでようやく目の力を抜いて空色の輝きに安らぎの色を注すことが出来た。

 ヴァレンシアは既に今と同じ声をあげてあの名前を呼んでみせた。

「満明、ここまで来たよ」

 現地の言葉など伝わるはずが無い。今でこそそう思うものの、昨日は何も意識すること無く話していた。もしかするとこの世界の中では言語の種類など関係ないのかも知れない。

 返事を待つこと数秒間。空気の淀みを肌で感じつつ、地面に咲き誇るスミレの花を、この世に在らざる微かな輝きとともに澄んだ紫に色づいたそれを目にして変化を悟った。

「どうして咲いて」

 種はどこから持ち込んだものだろう。誰が水をあげて育てたものだろう。今は明らかに夏。日本と気候は異なるものの、季節に大きな違いはなかったはず。分からない。全くもってこの世に明かすことが出来ない。三月から五月に咲いているはずの花が今この場にあるのは夢であるが為に成せることなのだろうか。

 ただ満明からの返事が来る前にそれを引き抜いて、観察する。

 不自然なガラス質のスミレ。本来のものよりも儚くあり、固そうな見た目をしていた。しかしながら触れてみれば間違いなく本物そのものの触り心地をしていてどこか恐ろしく感じられた。現実世界を冒涜しているようにすら感じ取れた。

 そうして少しの時を経て聞き覚えのある声が芯の強さの加えられた響きが届いてきた。

「何年ぶりだろうな、知らない間にアヤメか何かが立派に育ってるじゃないか」

「スミレよ、アヤメと似ているのはショウブやカキツバタ」

 それまで穏やかだったはずの声に少しのこわばりが見えてきた。

「嫌な花だな、俺の腕に宿るのは山羊頭の闇だが」

「そうね、刹菜のレポートの中にあったわ。〈山羊頭の魔神〉という名を付けられたそれが」

 そう、あの中に書き込まれたものは小説でありながらも、多少の脚色はあり得たものの、確実に彼らの人生の軌跡を取り入れたものだった。

「ああ、だからこそ嫌なのだ。確かに山羊と羊は異なるが」

「羊飼いの婚約者が神からの求愛を断った結果スミレに変えられる。ギリシャの神話だったかしら」

 それを耳にして声は一層震え上がる。

「真昼が」

「真昼は日本よ、安心して」

 冷静でいるのは明らかにヴァレンシアの方。戦場慣れしているはずの男でも年単位にも感じられる不自由の檻の中での生活に適うことなく正気ではいられないということだろうか。

 満明は間を置いて瘴気に満ちあふれたそこに再び言葉を撒き始める。

「そうだったな、俺もおかしくなり始めていた」

「何年もの幽閉だもの」

 学校ですら幽閉に感じてしまうヴァレンシアには耐えることが出来ない。そんな持つ必要すら無い確信を持っていた。

「輝くスミレ、何かに使えないかしら」

 ヴァレンシアの思考について行くことは出来るだろうか、心配で仕方がない。彼はそれだけの時間を孤独で過ごしてしまったのだから。

 きっとボロボロで壊れかけの彼の目にすら映せない姿を目にして訊ねる。

「ここに他の人は来なかったかしら」

 沈黙、しかし肯定と取ることは出来なかった。ヴァレンシアの脳裏にはあの状況がありありと思い浮かんできた。

 きっと満明の首が左右に振られて否定の意を示しているのだろうということ。

「そう、ならいいわ」

 そこにいるのはふたりきり。それ以上にこの世界を共有する者が現れないことを祈るばかりだった。

「ここにいると時間の流れがきっと違うの。現実世界の何年もの時がここに流れてる」

 そう、つまりは今という時間は現実で言うところの数秒にも満たないと言うこと。アンナを救うための手段を考える為の協力者もいるここにいる今、現実に戻る手は考えられなかった。

「時間なんて今は私たちふたりの手のひらにあるもの。有効に使わない手は無い」

「ああ、間違いないな」

 これまでの会話を経て孤独から解放されたのだろうか。満明の声には少しの余裕が宿っていた。

「スミレを現実に持ち帰りたい、何か役に立つかも知れないもの」

 果たして何の役に立つというのだろう。見通しすら立たなかったものの、現実に無い景色とここにいる者たち、幻想に触れ、現実にいながらも一歩隣と常に背中合わせ。

 そうした生活こそが夢にあるものを持ち帰るという発想にたどり着かせた。実行可能かどうか。現実の身では魔法は扱えなくとも夢の世界では使うことが出来るのではないだろうか。 出来ることを願うばかりだった。

「大丈夫だ、俺だって現実から夢に話しかけてる。もしかしたら現実に立ってすらいないかも知れないがな」

 そう言っては豪快な笑い声をあげる。気が付けば彼の余裕など初めから無かったかのように消えて無くなっていた。綺麗なカタチで帰ってきていた。

 その能天気っぷりに圧倒されて開いた口が閉じなくて。内心では男という生き物に対するある種の感心が渦巻いて止まらなかった。

「よく笑えるわ」

「よく笑ったものだろ。日本の諺にもあるものだぜ、笑う門には福来たるってな」

 彼には何が見えているのだろうか。現実は見えているものだろうか。現状が理解できないほどに脳の能が落ちてしまっているのかも知れない。

 全くもって彼の余裕が理解できなかった。

「ヴァレ嬢さんよ、結界破り自体は俺には分からねえけど、そんな単純な術、魔法使いの基礎たる結界の切り貼りが載ってないはずがねえんだ」

「でも、全部の本を調べたわ」

 そう、部屋にある魔法の書物は全て調べた。その結果、そこに結界に関係する書物など何ひとつ無いという言葉を用いてこの物語は完結したはずだった。

「あの狭い世界にはなかった。そんな基礎なんて収めている余裕なかったの」

 強まってしまう言葉、滑らかでありながらも強く刻まれる言葉の中に何を見たのだろう。満明は姿を見せることなくただ笑っていた。陽気を心という容器の中に容易に収めて、用意など容易い、そう言いたそうな雰囲気で。妖異な森の中で高貴なスミレをも揺らして響いて行った。

「そうだなあ、あれは確かに基礎だが、それが多岐に渡る。日本建築に於ける帳や鳥居から西洋の魔法陣に魔法や妖術の類いで広げられるもの。なんなら今俺をここに留めているモノも」

 そう、だからこそ如何なる術式を用いているのか一切分かることが出来ない。そもそもこのような術を張った存在が顔を出してくれない。臆病な敵は果たしてどこに身を隠しているのだろうか。

 表情は見えているのだろうか、全て綺麗さっぱりに見抜かれてしまっているのだろうか。満明は話を繋いで紡いでひとつの意味合いを奏で始めた。

「なあ、そろそろ気付かないか。確かに信じたくないのは分かるが」

「何が言いたい」

 ついつい声を強めてしまっていた。強い感情がむき出しの音色、それこそが分かっている事に他ならないのではないだろうか。

「ツラいかもしれない、だが受け入れろ。言わなきゃダメか恐ろしいか」

「ダメ」

 ヴァレンシアは最も遠くへと追いやっていた答えを今も尚拒否している。怯え、負の感情、悪魔の大好物。ヴァレンシアにとって最悪の状態が繰り広げられているということが男の言葉によって明かされてしまう。ヴァレンシアの行動そのものが正義に対する敵対行為なのだと暴かれてしまう。

「あの狭い世界、たかだか数十人規模の田舎で彼女ひとりがいつまでも生きてるのって、不自然じゃないか。他は骨すら残さず消えちまってるってのに」

 これは何よりも残酷な事実。結界を張った者は、村人を一人残さず畑の土に変えてしまったのは、ヴァレンシアを迎え入れて閉じ込めている紅い瞳の持ち主は。

「いやだ違う彼女は、アンナは悪い子なんかじゃない」

「いいや、ニンゲンサマなんてみんな悪い子だ。誰しもが善と共に悪を飼っている。悪魔の如き悪趣味な現実というものをな」

 受け入れ無ければならない、進まなければならない。この深く黒い霧の中に迷い込んでしまっているのは満明なのかヴァレンシアなのか、分からなくなってしまっていた。

「大丈夫、安心しろ。純粋な善で無いからこそ飼い慣らせる悪魔もいる。悪を認識できない善はな、純白の悪だ、正義の名の下に悪と名付けたモノを無差別に排斥する独裁者だ」

 進んでいけるようにと手を差し伸べようと言葉を吐いているのは分かる。しかしながら乗り越えるべき壁はあまりにも大きすぎた。愛している妹を疑い敵に回して糾弾しなければならないということ。妹が正義と定める感情は確かに純白の悪、善だけを視る全盲の独裁者でしかなかった。

「進めよ、妹さんはきっとずっと先にいるぜ」

「でも手がかりは」

「焼き払ってるかもな」

 本というものは火などという基礎にすら弱い。西洋魔術に於ける四つの基本属性、科学の中、それどころか日常生活の中ですら純粋に重要なモノ。そんな簡単なものにまで負けてしまう。知識は力業に容易くねじ伏せられてしまっていた。

「でもな、ここにはあるんじゃないか」

 満明が指すそこ、その正体はヴァレンシアにも分かっていた。身をもって味わっている体験の世界、この場所に他ならない。

「夢ならまだ時間に追いついていないってことかしら」

「そうだ、ここならまだ妹が本を燃やした時間に追いついてないはずだ」

 身体は揺れ、心は震える。薄らとした空色の輝きに滲む涙の味はこれまで味わったどの料理よりもどの世界よりも苦くて噛み締める度に痛みを叫んでいる。

「行け、ヴァレ嬢の手で救うんだ。大切な妹のことを」

 止められない運命、加速する鼓動。受け入れなければならない事実、分かっていながら遠ざけていた事。

 偽りの楽園は、いまここで崩壊した。

 ヴァレンシアはスミレを摘んで振り返り、想いを振り切って人生の今の先へと闇雲に駆けだした。

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