第4話 夢

 ドアの向こうに何が潜んでいたものか、脅威と呼ぶべきモノは特に何も存在していなかった。

 ヴァレンシアの空が収めた光景、瞳から落ちた景色の先に待っている人物はこの世で最も愛する人物、帰郷の中で最も強い目的の人だった。

「アンナ」

 名前を呼びながら近づいていく。しゃがみ込み、椅子にもたれかかるように腕を掛けた少女のすぐ側へと向けて、優しく歩み寄る。

「アンナ、アンナ。無事でいるの」

 アンナは褐色の身体を薄茶色に塗られた木の椅子に溶かすようにつけたまま動くことなく。

 ヴァレンシアの背筋に大いなる寒気が走り始める。身を支配しようと大きく揺れながら、瑞々しき身体に食らいついて浸食してしまおうと、脳裏を支配しようとその手を伸ばす。

「無事なら顔を上げて、アンナ」

 右手を伸ばし、肩に手を置いて揺らしては無事を確かめるべく温度を診て。

 じわりと伝わる温もりはホンモノ、まだ生きているはず、それを知っただけでも寒気は安心へと成り代わる。涼しい感情が心地よく内側を流れ続ける。

 目の前で椅子にもたれかかっては顔を伏せていた少女は顔を上げ、赤い目を向けてヴァレンシアの空色の瞳と向かい合って弱り果てた気持ちを声にする。

「ヴァレンシア、来てくれたのね」

 信じてた、そう聞こえたような気さえしていた。実際の所、赤い目に宿る感情は読めない。 それほどまでに弱り果てたものなのだろうか。今ここに至ったところの彼女には分からない。

「良かった、無事で良かった」

 ふたりきりの空間の中で、ヴァレンシアの頭の片隅に湧いた疑問には目も向けられないまま時だけが流れ、否、時と共に愛が流れ、純粋な心持ちが形作られていった。


 やがて時は時計の針を動かす。二本しか備え付けられていない針は危機の中では頼りなくて愛想笑いを返すことしか出来なかった。

 ようやく再びまみえる事の出来たふたりは瞳を交わらせ、ヴァレンシアはアンナの言葉に塗れていった。

「ここには悪魔がいる」

 それは殺人鬼やヒトのモノとは思えない業を平気な顔で背負う魔法使いの事なのだろうか、それとも実際に悪魔を目にしたのだろうか。どちらも充分にあり得るがために今のヴァレンシアは頷くことしか出来ない、素直に声を聞くことだけが彼女に出来ること。

「それはヤギの姿をしていたわ。手始めにお父さん、救いに行ったお母さんのふたりが食べられてしまったよう」

 話によればその時の父の悲鳴はどこまでも悲痛で、どこまでも自分中心で身勝手な音を響かせていたのだという。

「気が付いたときには遅かったわ。それからもここにいる人々を食い荒らして回ったみたい」

「遺体は出てないの」

 訊ねられると共にアンナは窓の向こうへと指を向ける。このような状況であるというにもかかわらず、指を運ぶその仕草に思わず見蕩れてしまっていた。

 アンナの赤い瞳もまた、指の向けられた方へと動き、それらが示す先にあるのは大量の野菜が不自然に実る畑だった。

「きっとこの下。ヤギの悪魔は作物を育てているみたい」

 それを聞いてはヴァレンシアの瞳は歪み、曇りきった響きの言葉を、不明瞭な色をした感情を声にして伝えていった。

「まるで農業の手伝いをするために呼んだみたいね」

 もしかすると悪魔をこの世に誘った人物には悪気は無かったのかも知れない。

「そこで悪魔に頼るということが最大の過ち。頼るべきは農具と自分の腕か機械だというのに」

 悪魔というモノはそうした人の弱みにつけ込んでははしゃいで、願望を歪んだカタチで叶えてはやりましたという顔を浮かべるか単純にだまして得を勝ち取ろうとする。決して安易な気持ちで頼っていい存在などではなかった。

「もしかすると呼び出した人すら生きていないのかも」

 召喚を行う際にしっかりと魔法陣を張っていなかったのだろうか、それとも契約の際にだまされてしまったのだろううか。どのような経緯であれどもあまり想像を巡らせたくない光景が待ち受けていた。

「そうね」

 赤い瞳、アンナの目の色そのものが変わってしまったのはどうしてだろう。悪魔に狙われているのだろうか。

「灰色の目が真っ赤に燃えている。もしかして次のターゲットにされてるかも」

 悪魔に目を付けられた人物の体調に異変が起こることはしばしばあったものの、目の色が変わり果ててしまうということが起こりえるのだろうか。案外あることかも知れない、そう言いつけて納得させて話を進める。

「そうね、マーキングというものかしら」

 向かい合う顔は両親でさえ区別を付けることに悩んだ程のそっくり模様。それ故に魔法の才能を持つ者から見れば澄んだ空色に輝いて見えるその目が顕れ始めたときには両親共にさぞほっとしたことだろう。

 今ここで向き合うふたりの瞳は正反対の輝きを薄らと放っていて、どこまでも薄くどれほどまでもと言わんばかりに力強い。

 そんな瞳の輝きをヴァレンシアはどこか愛おしく想っていた。

「狙われた証なら早く元に戻さなきゃ」

 不謹慎なことなど分かっていた。それでも尚、想うことをやめられない。そんな自分が嫌になり、同時に好きでいることをやめられない。

 そんな想いを抱きながら、表に出て来るモノ、湧き上がる熱を隠し通しては仕舞い込み、ふたり歩き始める。アンナの目に映る感情は完全に無。いつも見つめ続けてきた景色に今更抱く新たな情など無いのだろう。分かり切った話ではあった。

「日本に渡って様々な事を学んだわ。例えば礼儀がどうとかそうしたことを重んじる国だっていうこと」

 歩き見渡す景色に何を見るか。アンナの中にありもしない景色はどのように浮かび上がって来るものだろうか。

「あと、色々とみんなウワサしてたサムライだったり日本庭園だったり、そんなもの残っていなかった」

「そうね、この国でも未だに騎士が通ったりなんてしてるかな」

 言われてみれば納得する他なかった。ヴァレンシアは周囲を見渡しつつ、警戒をその目の表面に流しつつ、それでも尚話を紡ぎ続ける。

「お土産くらいは日本気分っていうことで買ってきてたけど」

「そうね、それどころじゃ無い」

 この田舎を見渡してもふたりきり、歩いてみてもふたりきり。

 そんな中でヴァレンシアは例の結界の境界線に置かれたヤギの頭を被った案山子のような像をその目で触れる。

「これがこの異常の境目かもしれない、出られるかしら」

 アンナは立ち止まったまま、首を左右に振って答える。

「無理。そこから先には行けない」

「いつから狙われてるの」

 それについて沈黙が敷かれ、ひたすら貫かれていった。

「親共々油断していた、もしくは過信していた」

「ごめんなさい」

 きまりが悪そうに謝罪の言葉を口にする姿は縮こまっているように窺えた。声は沈み、その手は震えてすらいた。

 大好きな妹にそのような感情や仕草を抱かせてしまった彼女にまできまりの悪さは感染し、田舎の雰囲気そのものまでもがジメジメとした日本を想わせる姿のように映って仕方がなかった。

「そうね、大層な名前を背負った親だもの、誇りが勝ってもおかしな話ではない」

 そんな言葉のひとつでさえ安心の種にしてしまうものだろううか。アンナの顔は既に晴れ晴れとしていて、ヴァレンシアは惚れ惚れとしていた。

 ヴァレンシアはアンナというひとりの女性にどこまでも深い想いを寄せてしまっていた。彼女のことを、大切な妹以上のことを考えずにはいられなかった。

「大切なアンナを護るためにも手は尽くさなきゃ」

「頼りになるわ」

 それからヴァレンシアは方向を変えて歩き、目を見張って探し始める。

「あの結界が他にもあるかも知れない」

 アンナはヴァレンシアの腕を手で包みながらついて行く。田舎という道、見慣れたはずのその場所で見慣れない感覚を抱いているようにも思えて仕方がなくて。

「まるで」

 ついついひとり言葉をこぼしてしまっていた。

「ふたりだけの秘密の世界みたい」

 アンナはどのような想いを秘めているのか分からない、見通すことも叶わない。しかしながらヴァレンシアはひとつの確信を持っていた。

 家族ならばやはり大切に想い合っているに違いない。

 やがて踏み出す足は動きを止め、森の中に居座る異物をその目にした。

「見つけた」

 ヤギの頭を被った案山子の像はそこにも在り、ヴァレンシアの推測は今ここで述べられる。

「きっとこれは範囲を決めていくつか置かれている。最低でも四つ」

「最低でも。なら最大は」

 アンナの挟んだ口に一度頷いて己の推測を口にし直した。

「最低四つ最悪無限と言ったところね」

 アンナの指が優しく絡められた腕を、愛おしい輪の中から引き抜いて、境界線の向こう側へと歩き始めた。

「ねえさん」

「どこに出られるのか見てくる」

 名残惜しい気持ちは蔓延って、ありもしない霧を形作る。そんな想いに塗れた桐を己の印象に無理矢理に重ねながら歩み続ける。

 この森は深く見えるもののけっしてそのようなことは無い。歩き続ければほんの二十分程度で反対側の道路に出ることが叶うだろう。

 かつては深く威厳があったはずの森を、歩く度に向かい来る木々たちを過去へ後ろへと流しながら進み続ける。

 確かにかつては深みを持った大きな存在だっただろう。道路や更なる田畑を挟んだ山に繋がっていただろう。そんな自然の創り上げた空高く誇り高い山の中にはかつてこの世界に住み着いていた人々の病気を治す薬草があったことだろう。幼い頃に村の誰もが聞いたことのある話を思い出していた。森の方に住まう男女がいた。彼らはとても仲が良く、しかしながら傍目には恋愛的な熱い情など持ち合わせてはいない関係、あるいは男の方だけが一方的に女を想っていたというもの。


 それぞれの一家が意図することなくなんとなくの暇潰しで継いでいった口伝にはばらつきが見られたものの、そんな民話のあらすじに変更は見られなかった。


 見るからい恋愛からは程遠い関係にあるふたり、その内の女の方には男装癖があったのだとかなかったのだとか。そう言ったことは受け流して、今思い起こしているのは男が病に伏した時のこと。女は親と共に山へと向かって薬草を探していたものの、途中でオオカミに襲われてしまう。

 親との繋がりを切り捨ててまで下山した彼女だったものの、結局男のことを救うには至らずおまけにオオカミまでもが降りてきて悲惨な最期を遂げたのだという。

 救いの無い話が御噺などでは無かった頃、この辺りで起こったことなのだろう。

 きっとこの森はそうした歴史の残骸、夢の跡などと呼ぶにはあまりにもむなしい出来事の後の景色。

 ヴァレンシアはそうした想像を巡らせ続け、ただただ歩いている。

 それからどれだけの時間が経ってしまっただろう。ヴァレンシアの腕には時間を刻む円盤など居座ったことが無い。身体に刻まれる鼓動はあまりにも不規則で参考になど出来そうもない。

 辺りを見回しては時の流れがあまりにも不明瞭だと思い知らされた。時間の経過も緑の景色の先に控えているはずの砂色の道路と脇道に控えめ程度という度合いに抑えられた雑草も、なにひとつ見えては来ない。

 それから更に進んでも出られない見えてこない。

「おかしい、まっすぐ進んでいるはずなのに」

 ヴァレンシアは己の内に鎮めきっていたあの感覚を呼び起こす。その手を伸ばして剣を呼び出そうと瞳を閉じ、ようやく気が付いた。

「あれだけ歩いたのに、案山子は向こうじゃなかったの」

 思わずひとり訊ねていた。空虚な空気感を漂わせて沈黙の色に塗れてしまったこの森は返事をすることもなくただただ沈黙を貫いていた。

 一陣の風が吹く。

 途端にヴァレンシアは今立っているこの場所が、永遠の沈黙の世界が異常な空間なのだと気付かされた。

「揺れない草木。吹いたはず、風が、なのに」

 思わず日本語が出て来てしまうほどに染みついてしまったのだろうか。そこに感じるべき想いの香りも味も堪能している暇では無かった。

 風は吹き、次第に激しさを増していって。

 なにひとつ揺れないという違和感の塊を背負い込んだこの景色に背を向けてヴァレンシアは咄嗟に駆け出す。

 逃げるのが正解か立ち向かって無理やり抜け出すことが正しいのか、ヴァレンシアに真実を見抜くチカラなど備わってはいなかった。その薄らとした輝きを纏って空色の色合いを奏でる瞳に映るものは、本音で捉えるものは人と景色と自由だけ。

 荒んだ都会、薄汚れたベッドタウン、なにも得られないままぶら下がる地位に怠惰を覗かせニヤける学生たち、どこの国にいてもそれぞれの美しさを堪能出来る自然。

 彼女にとってなにもかもが愛おしく感じられた。自由は欲望を手に取り不自由は身体を握り締めては現状を、幻想の焼失を今ここで披露する。消失してしまったその行動、空色の軌跡による感情のペイントなどここでは許してはもらえない。

 駆けて走って足をひたすら動かして。

 森に潜り込んだ時からは想像も付かない程の早さで案山子という目印を、隣に行儀良く並んでは行儀など知らないと言わんばかりに人差し指と中指だけを伸ばしては閉じて開いてカニの真似を披露し続けるアンナがいた。

 次第に大きくなっていく景色、ヴァレンシアは進むと共に向かってくるように流れ来る案山子を通り過ぎ、隣に立っているアンナを抱き締めた。

「おかえり、ヴァレンシア」

「ただいま」

 身体に絡みつく腕のチカラは増していって強く確かな温もりを、ヴァレンシアの弱音をアンナの身体に染み込ませる。

「どうしたの、怖い物でも見たのかな、コウモリの翼の生えたヤギとか」

 具体的に述べられる特徴、それこそがヴァレンシアが討つ敵の持つ姿なのだろうか。

「寂しかった、怖かった」

 日本では決して明かすことの出来ない本音、帰っても現状に目を向けて目を逸らされていた感情が滲み出て、やがては溢れ出して。

 比較的表情を変えないことが美徳とされる日本と異常に飲み込まれて甘い情をさらけ出している場合ではないこの地。ふたつの我慢は互いを潰し合って割ってしまった。詰め込まれた空気、それこそが彼女の本質。

「寂しがり屋さん、甘えんぼさん」

 アンナは分かっていた。ヴァレンシアがよくアンナを抱き締めて来るのは甘えん坊だからだと言うことと、他の色も混ぜ合わせられたものだということを。

 あの情の味は、隠し味へと成り切ることなど叶わなかった。

 アンナは小さくため息をついて、同じ顔、殆ど同じ体型をした女の背中に手を置いて。

4歳も年上なのにそうは見えない。

 想いのままにため息を再びついてはヴァレンシアの濃い黄色の髪を、そこに包まれた頭を見つめ続けるだけだった。


 やがて引き返してふたり向き合い状況を整理し始めた。

「私も抜け出せなかった。どこまで行っても森からは抜けられなくて風が吹いても揺れない葉っぱに違和感を見て帰ってきた」

 アンナは一度頷く。ただそれだけのことでアンナも同じ状態だったのだろうと想像を描きながら話を進める。

「あの案山子を壊せば脱出出来ると思うけど」

 ヴァレンシアはあの案山子の姿をを想い浮かべながら話を進める。

「壊そうとすればきっと」

 それではきっと呪われてしまうだろう。案山子の時点で術式は出来上がっているはずだった。札からは全く異なる禍々しさが見えて仕方がなかったのだから。

「じゃあどうするの、ヴァレンシアにも対処できないなんて」

 アンナの言うとおり、このままでは手の打ちようもない、そう思えた一瞬ののちにアンナの顔をまっすぐ見つめては提案を奏でる。

「魔法について一緒に調べよう。そこに打開策が眠っているはず」

 恐らくここに在る中では最も頼りになる解決方法、残された最後の希望。〈西の魔導士〉としての名が集結させた書物に頼ること。

 これが破れてしまえば敗れてしまう。ふたりがこの世界を抜け出す為に取れる最後の手助け、親の遺産がここぞとばかりに輝いて見えた。

 そうと決まればすぐさま歩き始める。辺りは未だに昼間、日差しは激しく射し込んでいるというにもかかわらず空には影がかかっているように見受けられた。

「どうしても抜け出したい。ふたりで笑って過ごしたいから」

 ヴァレンシアの言葉にアンナは表情を変えることなくただ空を見つめ続けては手を引かれるままに歩き続ける。

 家まで続く見慣れたはずの道が、お馴染みのはずのそこがヴァレンシアにとっては不安渦巻く沈黙の道路と化していた。そこにある感情が日本での生活で築き上げてきた空白の時間よりも遙かに強い影響をもたらしていて、物も言えないそんな状態にまで落とし込んでいた。

 ボロボロのドアを開いて中へと身を入れ込んで今までヴァレンシアが一度も入ったことの無い部屋へ、書斎へと入っていく。

 一方でアンナは入り浸っていたのだろう、特に表情も変えないままついて行く。

 手元のろうそくに火を灯し、辺りを照らしながら壁に掛けられたろうそくたちに火を灯す。突然与えられた輝きに身を光らせる金属の身体、ろうそくを支えて壁に手をめり込ませる器具に積もった埃を見つめ、環境の悪さにため息をつきながら気合いを入れる。

「学校でもあまり真面目に勉強してなかった私がここでたくさんの本を開くことになるなんて」

 これまでの真面目とも不真面目とも言い切れない己の態度に呆れを覚えて多大に後れを取った反省を叩き込む。これから行うことからは決して逃れることが出来ず、立ち向かう他ない。ヴァレンシアの短い人生の中で最も大きな勉強のようなものだった。

 書斎に収まる本の数は知れず。語学数学科学歴史に美術史。色とりどりのジャンルが取りそろえられた本棚。そこに寄贈した人々がホントウに魔法使いなのか、疑いの重さに耐えかねてついつい首を傾げてしまう。

 そんな重苦しい本の群衆の中に空色の瞳はある物を見てしまった。

「刹菜ったらこんなところにまで」

 数十枚に及ぶ紙の束、そこに積まれたものはきっと様々な出来事の報告書を物語として書き留めたものだろう。一番上に書かれていること、それはきっと刹菜本人が体験した事なのだろう。そこには『精霊と話す者』と書かれていた。

「魔法に関する出来事は様々だけどね、そのままのカタチで何度も見返すのは心折れちゃうな」

 そこにはいない者の声が響いていた。それはきっとヴァレンシアが思い返す過去のもの。思い出を再生するレコードプレイヤーとなっていた。

「私が筆を折らない限りは全部書き綴って色んな魔法使いのとこに送りつけてやる」

 そう語っていたの時間にたどり着くまでにどれだけの遡っただろう。一年半にも満たないはずの時はどうにもそれ以上の深みを持っているように思えた。

「私たちだけしか知らない秘密の歴史書」

 そんな甘美な響きで奏でられた言葉は気が付いたその時に断ち切られて現実へと引き戻される。

 現実へと戻った意識が始めに取った情報は視界いっぱいに広がるアンナの顔。褐色の肌に果実を想わせる黄色の髪。そんな顔に宿る紅の瞳が美しく感じられて堪らなかった。

「ヴァレンシア、大丈夫かな」

 訊ねられて、周囲からは似ていると評判の低くてネコを思わせる響きを持つ声に惚れきっていた。

 今にも夢の中にまで手を引かれてしまいそう。

 覚束無い、脚さえガクガクと震えきっているように錯覚してしまう。夢なのかうつつなのか、既に幻の中の住民なのか。そもそもこの結界の中そのものが幻で目を開けば実はバスか飛行機の中なのではないだろうか。そんな考えが頭の表面近くを撫でていた。

「移動で疲れたのでしょう」

「休んでる場合じゃないわ、大丈夫だから」

 そう言って本を手に取り椅子に腰掛ける。

 休んでなどいられなかった。のうのうと休んだ結果が今夜にでも訪れてしまうかも知れない。アンナの命の終焉がドアをノックして、返事を待つことなく忍び込んできてしまうかも知れない。そうなればどれだけ悔いてみせたところで悲劇でも同情の演劇でもないただの怠惰な者となってしまうだろう。好きな人がいつ消えてしまうか分からない。いなくなった後に訪れるだろう暗闇、もう二度とその手を触れられなくなってしまうかもしれないという事実。

どこまでも恐ろしく、どこまでも冷血。そんな人物になるつもりなど毛頭無かった。

「絶対に助かろう」

 ヴァレンシアの言葉はどのように響いたのか、アンナが浮かべる心地よい表情から読み取ることなど叶わない。もしかするとアンナもまた、なんとも言えない情に揺れているのかも知れなかった。

 それから魔法のジャンルの本が収められた棚に目を通し手当たり次第手に取って捲っては欲しい情報を手に入れられないままため息と共に次の本へとその手を伸ばす。

絶対に違うと分かっている項目を捲って流して次は書いてあるだろうか、いないのだろうか、調べ続けて内側から押し寄せる疲労と戦って。

 気が付いた時には紙を指で挟んでは捲る作業と化してしまっていた。目で内容を大まかに追って違うと判断して捲ってはまたしても違うのだと判断して。

 そこに感情は宿らない。瞳は情報を見るための器具、指はページを捲って次の情報を呼び出すためだけの道具。気合い充分だったかつての面影はなく、時と共に更に感情は流れ去って今では気の遠くなる作業を帰郷してまで行っている自分に落胆を抱いていた。

「本当ならアンナと仲良く落ち着いて暮らしてたはずなのに」

 彼女の中に宿る印象によれば少なくとも里帰りと呼ばれるものはここまで虚しいものではなかった。

 そうして疲れや気怠さに身を圧されながら次の本を手にして捲って。

 頭の中を羊が駆け巡っていることにも気が付かないまま自然と意識は沈み込んでいって、やがて夢の中へと滑り込んでしまっていた。

 書斎で文字の塊を枕に変えて眠りをむさぼることがどれだけ心地の良いことだったのか、今こうして思い知らされていた。

 眠ったそこでヴァレンシアは駆けていた。アンナと共にはしゃいで楽しそうに。胸の重みもなければ景色の一つ一つまでもが大きく感じられて。どこまでも美しいものをその目にしていた。

 広がる青空に縫い付けられた白い綿の雲、色褪せて緑を失ってしまった草原、そんな平凡で平穏な世界を跳ね回り走って可愛らしい声を上げるヴァレンシアは己の姿が子どもとなっていることに気が付いた。気が付いても尚うまく身体を操ることが出来ない。脳の底に溜まったなけなしの知性の澱は夢だと分かって揺れているにもかかわらず、内容を書き換えるには至ってくれなくて。

 走り回る幼い姉妹は森の中へと駆けていった。多少の時間、子どもの遊びとしては優秀な時間潰し。その先に待っている景色は森から分断された道路のはずだった。不自然の塊であるはずだった。

 しかしどれだけの距離を足で稼いでみても、進み続けてみせても、森は森のまま、出口が一向に見つからない。

 やがて森に風が吹く。木々はざわめくことすら忘れてしまったのだろうか、いつまでも沈黙を貫き続ける。

 風が運び込んだのだろうか、気が付けば辺りは黒い霧に覆われていた。その質感は湿り気も重みも何もなく、ただそこに居座っているだけ。

 そんな虚無の霧の中に得体の知れない重みが、在るはずの無いものがのしかかってきては妙な感覚に身体を揺らめかせる。

 虚無はひたすら虚無、そんな中に在る有とは如何なるものか。

 何もないはずの所に声が流れ込んできた。

「囚われるな」

 聞くからに大人。声の響きと太さに重圧を感じて大人のモノだろうと推測を立てながら耳を傾け続ける。

「このセカイの中に、囚われるな、結界に入ることが叶いし者」

「あなたは入れなかったの」

 ヴァレンシアは己の声の響きに驚かされた。ようやく自由に動く事が叶った身が鳴らした鈴のように細く力のない声はどうにも慣れない響き、かつては自分の喉から出ていた、忘れ去ってしまった夢の跡。

「ああ、俺は〈悪魔憑きの掃除屋〉なものでな、悪魔の縄張りに入れなかった」

 男が語ることは本当なのだろうか。男の言葉が真実だったとして、悪魔が憑いているという事実には変わりない。嘘だったとすればこの男そのものが悪魔である可能性すらあった。

「いいか、ヴァレンシア」

「名前、分かるの」

 それこそまさに悪魔の存在の証明ではないだろうか。初対面の人物に、ましてや子どもの姿の自分のことを見抜いてくる何物かは怪しさしか残さない。

 男は相変わらず姿を現すこともなくただ言葉をひねり出すのみだった。

「妻の真昼が教えてくれた。かわいい嬢さんだってな」

 この男は果たして何者なのだろうか。真昼の名まで持ち出すのは本当の関係者なのか記憶を覗く悪魔の所業なのか、判断すら付かせない。

「そうだな、夢の時間には無いが現実の時間にはあるだろう」

 沈黙の霧の中で一息おいて男の声が再び響いた。

「刹菜の報告小説、そこに書かれてるはずだ。〈悪魔憑きの掃除屋〉の名と立ち位置が」

 完全なる沈黙の後に見られる音は身を震わせた。続いてヴァレンシアはあの紙の束を思い出していた。この世界の中で何が役に立つのかそれすら分からない。とは言うもののこのようなカタチで思いもよらないものが役に立つとなればやはり驚きが大きく跳ねてしまう。

「ここから去れ、そして目を覚ました次に紙を手に取れ」

 ヴァレンシアの身体は反対側を向き、来た道をそのまま辿るように戻り始める。濃くて何も見通すことの出来ない霧は晴れ、気が付けば夢に戻っていた。



 それから身の赴くままに、映像の流れのままに過ごして待ち続けることどれ程か。やることが出来ないもどかしさと並んで走り続けた時間の末にようやく開かれた空色の瞳で捉えた紙の束をその手に取って彼の言っていたことが本当なのだと確かめた。

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