Chapter 2 結界
第3話 違和感
空を滑るように進むそれが小さな揺れを何度でも引き起こし、人々の揺りかごとなる。スヤスヤと眠り向こうの世界で夢を見る者もいれば、大きな志を乗せて幻想の雲と蒼一色の空に夢を描く者もいる。
ヴァレンシアは壁の向こうの色に今にも溶け出してしまいそうな色の瞳を広げて機内の空となる。
ヴァレンシアは知らなかった、褐色肌と金髪によく似合うその目は魔法使いの素質を持つ者しかその目にかかることはないのだと言うことを。大半の人間からすればヴァレンシアの目は灰色なのだという。
機内の通路を時たま通り人々の様子を観察する女の制服姿はあまりにも堅苦しくて窮屈に想えていた。その堅苦しさは日本人の真面目というひとつの気質の象徴ではあったものの、どうにもヴァレンシアは慣れることもないようで。
日本にいた時に世話になっていた真昼の事を思い出す。しっかりとスーツを着込んだ女だったものの、何故だか彼女にはそれがとてもよく似合ったものだ。それなりに、と言うよりは日本人としてはとても綺麗に整えられたスタイルによく似合っていてどこか色気を感じさせる女だった。あそこまで制服を違和感なく着こなすことが出来る人物はそうそういないだろう。女優や役者でも似合うには似合うと言えたものの、小道具や衣装という側面を当てはめてようやく似合うという言葉を送ることが出来る。
つまるところヴァレンシア本人がいつも着ていた学校指定の制服もまた、窮屈で苦手で仕方がなかった。サイズとしては窮屈なはずの刹菜の服の方が開放的にさえ見えてくる。
そんな小さな服では覆うことの叶わない腹を見つめて微笑む。刹菜が似合うと言ってくれた、ただそれだけのことがどこまでも嬉しく感じられる。
褐色の肌は小さな窓から射し込む光の照りつけを受けては本来よりも薄く鮮やかに輝いていて愛おしい。座席に腰掛けることで皮がたまってだらしなく見える腹も背筋を伸ばして姿勢を整えるだけですっきりとした姿へと変わり果てる。こうして整えられた姿勢、しなやかに伸びる腹に居座るヘソに目を当てては露出度の高さにある種の快感を得ながら機内を覆う冷房の寒気に身を震わせて念のためにと持たされたブランケットで包んで隠す。
日本に再び帰った時にはもう少し開放感の快感を得られる可愛らしい服を探してみよう、そう想えてくるほどのものだった。
やがて月は地球を幾度回ったものだろう、飛行機による急激な移動は時差を感じさせずに感覚を惑わす罪無き迷惑と成り果てる。
そうして一晩に感じられる時間を過ごし、座っているだけの移動に退屈を感じ始めたヴァレンシアは一刻も早く着くようにと念じながら時を過ごす。何も出来ないままに解けていく時に対して手に取るもどかしさはヴァレンシアの中に深く強く刻まれていた。
空を見ていることしか出来ない、アンナの顔を早く拝んで愛したい。あの子への土産としての話を聞かせてアンナが過ごしてきた時間も知って共有したい。あの灰色の目を、綺麗で幻想的なヴェール模様のかかった瞳に吸い込まれたい。ヴァレンシアよりも少しだけ柔らかさを感じさせる身体を、百点満点のスタイルを満天の気持ちで抱き締めて温もりを共有したい。
ヴァレンシアはどこまでも妹を深く愛していた。
それは姉妹としての愛情なのかそれとも色の情によって作り上げられた嫌らしいものなのか、本人には分からない。分かる日が来るのだろうか。来たとしても遠い未来なのだろうか。
分からない。
知らない。
解らない。
識らない。
判らない。
彼女はあまりにも若すぎた。それはいいことだと述べる人物も多く見られるものの、ヴァレンシアとしては少しでも理解を得たいが為に幼いことは許せない。
若いということは未熟であり、まだまだ人に認められるには足りない。
それがヴァレンシア・ウェストの価値観だった。
飛行機はやがて身を下ろしていく。あまりの早さに頭や鼓膜の痛みが伴って。見えない何かに押さえつけられるような感覚を得るこの時こそが彼女の苦手な瞬間そのものだった。学校の先生や自称頭のいい男子生徒ならば気圧がどうとか加速度が何だとかそうした説明を挟みながら己の知識を無闇に披露して聞かせるのだろう。
理解に苦しむ。
人の状態を考えもしない妙な思考は例え大人のものだったとしても未熟に感じられる。そう、それこそが幼さの証だとヴァレンシアは断定していた。
形の無い重みに思わず身を縮めてしまいそうになりながら、降下するという事実を噛み締めながら、窓の外を見つめる。
その場に広がる景色は濃くて深い青、闇色の始まりだった。
故郷の姿は未だ見られずそこへと向かうには、愛おしさと顔を合わせるにはもう一晩かかってしまそうなものだった。
やがて黒々と色を沈め続ける空を滑っていた鉄の塊が地面をつかむ。鎮めていた音は地という不安定な安定をつかんでごろごろと音を立てている。
これまでの妙な不安定が安定へと変わり果てる。
ヴァレンシアの帰郷はようやく実感へと姿を変えた。
やがて機体が止まり、アナウンスが声で外へと人々を導く様を味わってようやく一息ついて立ち上がり、辺りを見回しながら足を動かす。
地面を踏みしめる感覚に揺れがついてきて、よろめく姿のなんと頼りないこと。長らく大きな空の上を滑り走る航空機の独特な感覚をつかんでしまっては地面へ再び踏み出す第一歩でさえも異界のもののように感じられた。懐かしさや望んでいた環境への愛しさすらあの速度にはついて行けなかったようで、今はどこの海の上を漂っているのだろうか。
空港を背に大きな鞄を肩にかけて歩く。黄色の鞄の革によく似た見て呉れのそれは実際に触れてみればホンモノのソレと比べて遙かに見劣りしてしまう。目にしたその時にはお高いものに思えても手触りひとつで見た目にすら安っぽさが走ってしまう。
「もう少し肌触りを上手く出来なかったかな、これじゃまるでビニールを貼り付けたものみたい」
母国語を久々に扱ってみる。発音は滑らかだろうか、イントネーションは日本語の癖に引き摺られてはいないだろうか。これまでの一年間、日本語に対応するためにも出来る限り逃げないよう甘えてしまわないように喉の奥に閉じ込め続けてきた母国の音。時たまアンナ宛てに手紙を書いていたが為に文字には鈍りどころか陰りのひとつさえ見当たらなかったものの、言葉に関しては殆ど扱っていない。奏でてみて発音の歪みを見て取って大きなため息をつく。
案の定、心配は音に現れていた。
「昔の日本の職人技を芸術のような美しい品物だとするなら」
振り返り、航空機を見つめる。あれもまた日本の技術が多少なりとも加えられたもの。そこからこれまでの生活で触れてきた手触りの記憶を探ってみては今もなお触れ続けている鞄の安っぽさにも目を向けて力を抜いて息を吸う。
「今の日本の作り手は技術と引き換えに拘りを捨てた利便性の楽園ね」
その感心は呆れの表れ。関心は今の日本の事など見てはいなかった。外の国より訪れた者としてはそれほどまでに日本という国への神秘と浪漫を持っていたということ。
かつて人々が描いていた幻想は現実に塗りつぶされて、礼儀を重んじる心は常識を重んじる心へと転換されている。もしかすると昔からあったモノの内、大きな袈裟を着た物事が斬られぬままに一人歩きしているだけかも知れなかったものの、それでもやはり其処に在る夢を、過去の痕跡を捨て去る事が出来ずにいた。
ヴァレンシアは暗闇に怯えて早足に近場のモーテルへと駆け込んだ。
日本の夜とはどれだけ安全が保証されたものだろう。警官や政府といった頭の大きな組織が積み上げてきた印象と実績はまさに日本国という大地に描かれた歴史という名の白いハト。
いかに故郷が一番とはいえども安心感だけで言えば日本に勝る場所は存在しなかった。
四季の顔や自然そのものという人の手ではどうにも対処できないことも他国と比べて忙しく感じられた挙げ句、周囲が冷静にも程があるように感じられたものの、それもまた思想や人々の努力が創り上げた結果なのだろう。
「人の災いか天の災いか」
どちらにしても恐ろしいことには叶わない。しかしながらそれでも日本人の的確に整備された安全という環境が恋しくて仕方がなかった。
シャワーを浴びて眠りに就く。固くて古びた心地を持ったベッドセット、薄っぺらくて干からびて実体には無いかび臭さを印象付けるブランケット。壁にも所々亀裂が見て取れて、懐かしき貧しさに包まれながら眠る。次に太陽が昇れば明るみの中を、土や石に塗れた道を揺れながら走るバスに飲み込まれることだろう。
安心感というものをいつまでも得られずに浅い眠りと現実を行き来しながら夢とも現実ともつかないそこで実感していた。この一年に渡る日本での生活で随分と平和に慣れてしまったもの。一度あの雰囲気を飲んでしまっては今身を置いている場所の頼りない設備に対して不満と不安があふれ出てしまう。
気が気でない。
それが今のヴァレンシアが抱いた感想だった。
自由に飛ぶための身体は鎖に縛られて法律や政策に社会の制度という鳥かごに閉じ込められた。そんな人が人であることを失ったようにも見える姿を鏡に映しては滑稽だとため息をつくことだろう。あまり美しくなど映らないだろう。どうか妹のアンナだけには現実を知らせないまま、幻想の夢物語をそのままの色で見ていて欲しい、そう願っては止まらない。
いかに建物の中とは言えども不安がよぎっては安眠を得られないまま。
寝ているのかいないのかさえよく分からない眠りの浅瀬を漂い続けて幾星霜。
そんな浅い眠りでさえ今ここで断ち切られてしまった。
壁を叩く音は大きく響いて、ひび割れたモルタルなど今にも崩してしまいそうな凄みを持った音。跳ねるように起き上がっては時計の針に目を向ける。
午前四時半へ届かない、そんな長針の進みの遅さを目の当たりにしつつ、音の発信源の方向を睨み付ける。
もう一度大きな音は響いていく。
「迷惑」
ひと言だけを部屋の中に置き去りにしてドアノブに手をかけると共にまたしても届く音に苛立ちを募らせる。安物のモーテルとは言え客の質までもが安っぽくて低俗。
しずくを思わせる塗りむらがシミのように残された廊下の壁を横目に歩いては隣の部屋のドアをノックのひとつも無しに開きながら口を開く。
「こんな夜中に何やってるの」
騒音の奏者は茶色の何かを片手に壁を幾度となく殴りつけていた。ひたすら壁を殴りつける人物、影が射し込み全体的に絶望色に染め上げられた世界の暗部。しかしながらその表情はどこか生き生きしていた。白目を剥きながら壁を殴り続けるその騒音を応援するための茶色のメガホン。それを口に当てると共に心地よさを流し込んでは離すと共に息を吐く。
「ビールに溺れたのね、哀れな人」
ヴァレンシアの言葉が気に障ったのだろうか。声が届くと共に男は振り返りその目に鋭い感情を、怒りという名の凶器を宿らせ叫び散らす。
「誰が哀れだこのクソガキ、俺は好きなことを好きなだけやってるだけだ」
ビールの快楽、魔性の喉ごしと手放すことを許さない誘惑の呼び声の響きについて熱く語り始めるこの男の魂は幾ら聞いたところでヴァレンシアの心には響くことも無い。
想像力なのか経験なのか、どちらを問われても首を縦に振ることなど出来ない。飲酒も喫煙も、生活の管理すらロクに出来ない人物が入り浸る魔窟に過ぎないのだから。
「それはお好きなように」
一歩下がり、ドアを閉じようと褐色の手をノブにかけて関係を閉じようとしたその隙間に最後の言葉を挟み込んだ。
「ただ、そこの壁を叩いたらそのクソガキがまた起きてやってくるから御用心」
ドアを閉じ、ため息をつきながら言葉を落とす。
「あの男の方が子どもみたいじゃない、大人って子どもになっても許される権利ってことか」
きっとそうではないだろう。信じる心は大人という責任ある地位から墜落して年を取った子どもへと堕落した人物への軽蔑だけを残してあの男のことなど忘却の水底へ、夜明け手前の空の彼方へと追放してしまった。
それからしばらくの時間を、空が優しく色づくまでの時をベッドの上で無為に過ごす。眠りを得られないまま、疲れを早めの時間に夕暮れ頃にまで引き寄せてしまっただろう。
特に出来ることも無いまま迎えた朝、ここには用は無い為にヴァレンシアはシャワーと着替えだけを済ませて即座にモーテルを後にした。
少し窮屈さを感じる服と収まりきれずに露出した腹部に走るひんやりとした温度感の差に慣れてきたのだろうか。軽い心地よさを抱きながら足を向けた方、そこに構えていた店でレタスとトマトにベーコンを挟んだホットサンドの注文を口にして、受け取ったそれを口にする。口に入れた途端に広がる辛みと独特な香りはマスタードのもので、混ざり合う味わいはマヨネーズ。レタスのみずみずしさと端の焦げたベーコンの香ばしさに瑞々しいトマト。どれもこれもが愛おしくて美味しくて。
ヴァレンシアは底に溜まった眠気を抑えてあくびをしながらバス停へと向かった。
深い緑色の看板は自然に似ていながらもどこかなじめない様子が見て取れた。
整備されていない土の道路、自然の中に少しの手を加えましたとでも言うものだろうか。
ヴァレンシアが日本で見渡した道路では一切見なかった景色。懐かしさ蔓延る不便は愛らしさがありながらも憎らしさを覗かせていた。
待つこと何十分か、ヴァレンシアは腕時計を持っていないために詳しい時間など知る術を持っていなかった。目を離した隙を突いてバスが訪れたとして通り過ぎてしまったら次は何時間待てば良いだろうか。それだけは避けなければならない。それが恐ろしくて動くことも出来ない。時間という秤を得てしまった人物たち、ニンゲンという生き物には人々の想像する生物たちの自由など既に持ち合わせてはいなかった。
退屈を持て余す。本の一冊すら持たなかった自分自身を睨み付けながら過ごす沈黙の中、疲れを感じ始めた。
そんな負担がのしかかった頃にようやく大きな鉄の塊が到着してきた。
人々を運び働き手の人生を運ぶ導き手に乗り込んで、行き先を告げる。
「そんな田舎にいくのか」
「故郷だから」
そのひとことで運転手は黙り、席を顎で指して座らせてドアを閉じて己も乗り込む。雑談はそこで途切れて沈黙の空気を閉じ込めながらバスは走り始める。日本にいる間、手動のドアのバスなど見かけなかった。もしかすると現在というテクノロジーの圧力によって背を押されて飛ぶように進む時代にわざわざ手動ドアを採用する国など貧しき地域か気候の都合にでも合わせない限りはそうそう残されていないかもしれない。
ヴァレンシアには分からなかった、そう深い知識があるわけでもない彼女の目には日本含む先進国が優れて便利なだけのようにしか映らなかった。
やがてバスストップの文字を見かけては人がいないことを確認して速度を保ったまま通り過ぎるバスの行いを目で流しつつ、静寂を外からつついて揺らす道路に小突かれながら待ち続ける。
一年以上味わうことの無かった感覚、という以前に故郷でも数えるほどにしか重ねなかった経験。歩いたり荷車を引くだけでは分からなかったものの、激しい揺れは日本の平らな道路と比べれば分かりやすい悪路だった。
そんな激しく揺れる道は、日本の外側の常識を守るためには実に都合がよかった。日本であればとっくの昔に眠りに就いていたところ、他の国に於いてはどのような人物が乗り込むのかすら想像つかない環境。寝ている内に事件に巻き込まれてしまえば起きてすぐの悪夢。
しかしながらヴァレンシアは今、最も眠りに適した退屈と孤独の静寂を手にしていた。
どうにか眠ること無く、恐怖を叩き付けて過ごした一時間と少し。安心すら運び込んでくれないままに身を運ぶバスがたどり着いたバスストップ。深緑が近づいてくると共にヴァレンシアは天井からぶら下がる紐を引いた。
それと共にバスは減速を始めて深緑のバス停を少し通り過ぎたくらいのところで無事に進みを中断した。
降りる際に一枚の紙幣を運転手の手に乗せて、重しの如く小銭をひとつふたつみっつと乗せていく。流れるように行われる仕草は手慣れたもので、やはりどこの国でも変わらないことなのだと、そういった事もあるのだと実感させられた。
人と金を食って生きる箱は進み始める。あれこそがヴァレンシアを故郷へと導いたものの正体。あまりにも飾りっ気のないそれは極々普通の車と変わりない灰のような銀色をしていて、大きさだけがその名称を告げているという有り様だった。
「ようやく着いた」
かつて住んでいた村、数年後には再び住むはずの村。そこにたどり着いては辺りを見回してヴァレンシアはほっと息をつく。たかだか一年半も経たない程度では景色が変わり果てることも無かった。安心の道、その目が幾度となく捉えた道を歩みながらあぜ道を見渡した。
この時間であれば普通に農作業を行っている人々を目にすることが出来た。一旦足を止めて久々に顔を合わせる農作業中の老人に手を振ってみせたものの、返事がこちらにまで届くことなどなく、虚しさ全開で再び歩き出す。
顔見知りのはずが全くもって感情のひとつも込めて返すものがない。あまりの無礼にヴァレンシアは心底呆れかえっていた。
更に通るところ向かってくる人々に声をかけてはみたものの、誰ひとりとして返事をしない。
いつからこの村は無礼者の住まう村に成り果ててしまったのだろう。農作を経ておかしな感情でも芽生えてしまったのだろうか。
背筋に走る妙な寒気と周りからの無色透明の反応、この村の殆どの人物からは灰色に見えているはずの空色の瞳が捉えたものは、周囲から切り離されて得た孤独。未だにバスに乗っていただろうか、そんな錯覚に逃避してしまうような有り様だった。
「誰も私なんかいなくていいってことかしら、人としてどうなの」
思わずこぼしてしまうくすんだ言葉もそれを響かせる低くありながらもネコのような甘さを持った声もただ孤独を拾い上げるのみ。この場所はもはや居心地の良い故郷などでは無かった。同じ姿をした別の場所、そのようにしか映らなかった。
「だったら家族に会って数日で帰るだけ」
今の彼女の中に蔓延る感情は故郷を離れるときの何倍も何十倍も暗い気持ちで、それがよく晴れた昼空に照らされて色濃く根付いて。
ただただ寂しくて悲しくて仕方がなかった。
それから少し歩いたところ、そこで妙な変化をその目にした。故郷の懐かしさの中に居座り始めた新たな入居者、それはなんとも言葉にしようと思えない、不気味さの中にぽっかりと空いた虚無の感情を出現させる、謎の印象を与えてくる木と藁の像。無機を思わせる色合いの石をはめ込まれた胸には空白の感情が飾られて、顔はスケアクロウ、こけおどしのハリボテのよう。そんな顔の半分を覆い隠すものは仮面なのだろうか。顔の上に被せられたものはヤギの顔の形を持っていた。
思わず顔を押さえて目を大きく広げて、感情を抑え込もうと必死の心がけを被せてはいたものの、ついにその情はこぼれ落ちてしまう。
「なにこれ、キモチワルイ」
そんな妙なカタチを持つモノ、手が三本にヤギの足を象った木の脚を持つ存在が見つめている像を目にしては横切ることをためらう。
しかしながらここを通り抜けなければ自分を育ててくれた両親に、愛する妹に会うことは叶わない。
心を覗かぬように、竦む足の大きな違和感に気づかないふりを決め込みながら木と藁の像が睨み付ける道を通り抜けては進む。
あの悪趣味なものは家族が用意したものだろうか、ヴァレンシアの中で想像が広がり続けていく。もしもそうならば周囲の反応にも納得できる。おかしくなってしまった人物の子、正気を失った者の娘になど触れたくはないだろう。例え本人に罪が無かったとしてもおかしな人物の世話になどなりたくなかった。
寂しさを覚えながら、息苦しさを見つめながら歩いたところで足取りの重さに気がついた。気の成せる業だろうか、人の不思議だろうか。それとも像の向こう側は結界が張られた域だったのだろうか。
そこに気がついて一瞬もそれ以上も遅れながら引き延ばしながらも気づきに至った、逃れられなかった。
ヴァレンシアの身体の中に宿るひとつのチカラが沈みきっている。
魔法が使えない状態に陥っていた。
その事実に焦りが走り始める。ヴァレンシアは事態の重さに身を焦がし、思わず目を細める。この結界なのか術式なのか、如何なる信仰かどのような属性なのか。分からないもののそれは少なくとも味方が張ったものではないことだけは見通して。
褐色の手を見つめては覚悟を飲んで息を吸う。その手に空色の剣を握ることなど叶わないのだから。
見えている脅威、すぐそこに魔法具があるとは言えど、それを破壊しておしまいというわけにも行かなかった。見えている、分かっているからこそ容易に手を出してはならないということ。魔法の世界においては道具や魔法の種類は非常に重要かつ危険なものであり、軽々しい気持ちで壊してしまえば魔法具の影響、あるいは魔法具を護るためにかけられた別の呪文などが作用して身を蝕んでしまうかも知れない。
ヴァレンシアは危険の第一段階としてそれを強く意識していた。両親は無事なのだろうか、アンナは元気にしているだろうか。気が気では無かった。
家族の無事を確認した後でこの地にかけられた術式に目を通そう。そう誓って静寂の道の中を進み続ける。
その行動の中でもまた、ヴァレンシアの中に浅黒い違和感の幼子が芽生えていた。
「おかしい、誰もいない」
どうして誰も見当たらないのだろうか。この時間であれば人通りはここまで少なくなど無いはず、入り口付近のように人々は生活を営んでいるはず。狭くて人の少ない地域なりにも動きや生き様は刻まれるはず。少なくとも〈西の魔導士〉を信仰したたえる小さな村では他の宗教が深く根を張ることも無く、特別な様式の日も無かったはず。
そこでもまたひとつの違和感を思い出した。
入り口付近での住民たちの態度、あれは信仰の欠片さえ感じさせなかった。それどころかいないものとして扱っていた。あの目にはもう、ヴァレンシアが住民には見えていないのだろう。
暑いはずのここで寒気が走る。身体中を走るゾワゾワとした心地悪さ、この村を色付ける空気感。彼女は遅れながらに張り詰めた心情を抱いては空色の瞳で周囲を見渡し、警戒を強めながら歩く。
こうした心がけの成果は何ひとつ変わりない景色の中の異物を目に収めることとなる。
すぐそこに建てられた貧相な家の隣に居座るこぢんまりとした木のテーブル、家の住民の手造りと思しきそれに乗せられた三つのティーカップとサンドイッチを目にしてヴァレンシアは首を傾げた。
「セットだけあって人がいない」
気のせいかも知れない、実際にはちょっとした気分で少し席を外しているのかも知れない。しかしながら気になって仕方のない彼女はすぐさまテーブルに近寄り乗せられているものたちの姿を観察し始めた。
直感は当たったのだろうか、見た目にも違和感を見て取ることができた。ティーカップから湯気は出ておらず、ヴァレンシアは息を飲みながらその手で白き器に、日本人の好む美白の如きその身体にそっと手を添えてみる。
「冷め切っている」
それだけでは無かった。サンドイッチの真ん中に微かな黒ずみを見て、緊張を強く走らせながらうるさく激しい鼓動に身を委ねながらサンドイッチのパンを剥がして確認する。
乾ききった手触りの身の裏に根付いているそれは異臭を放っていた。
「黒カビ」
怪しさはついに頂点へと達した。血は昇りきっているように感じられ、いてもたってもいられない。
駆け出しながら先ほどの確認で得た違和感の爆発の素材を確認する。
冷め切った紅茶の注がれたティーカップ、カビが生えてかつ乾ききっているサンドイッチ、しなびたレタスは故郷での安眠をも許さないという意思の表れにも感じられた。
駆け抜けて、ただただ進む。
身内の心配が止まらない。心はガタガタと震えて止まらない。出産を経て魔法使いとしては弱り果てた母とその母の威厳を纏って威張り散らすだけで大した魔法すら扱えない父、護身としての軽い術式だけを授けられ、魔法の外の分野の勉強に身を打ち込んでいた妹。考えては想っては、その度に強く蔓延る不安感。
「そう、〈西の魔導士〉が、私が席を外してる間の犯行なんて」
随分と意気地の無い魔法使い。思いはするものの、口に出すことすら出来ない。事態を重く受け止めるあまりに無駄な言葉のために開くことが出来ないでいた。
相手は何を考えているのだろう、何が目的なのだろう。わざわざ四方の魔法使いのひとりである〈西の魔導士〉を狙う事に何の意味があるのだろうか。
考えてもキリが無い、家族が無事ならそれでいい。その想いを頭に叩き付けて走る。風の抵抗のひとつですら忌々しい、息を吸うことすらためらわせる堆肥の臭いが邪魔で仕方がない。家々を横目に流し、飾りや壁に掛けられた農具が目を取り抜ける度に嫌な想像が走り抜ける。
そんな想いと共に駆け抜けた先にヴァレンシアを育てた家は相も変わらぬ姿で迎え入れた。なにひとつ変わりのない風貌は却って不気味さを増す。
今までの家に大した変化が無かったという当然すら考える余裕も残っていない頭に空気を入れる。膝に手をつき肩で息を吸い、ようやく姿勢を整えてドアに手をかける。
緊張は鳴り響いて止まらない。空虚に反射して異質を極める。
まっすぐ見つめながら数えることもなく過ぎ去る三秒を経て、ようやくドアを開いた。
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