敵わない恋、届く思い~教育実習生は生徒との間でささやかな傷跡を残す~

国見 紀行

恋を教わったあなたへ




 まだ5月だというのに初夏の照り返しが厳しいある日の朝、俺は登校して間もなく校舎裏に呼び出され、半年関係が続いた彼女から別れを告げられた。

 彼女いわく、『透哉とうやくんとは付き合ってるかどうかわからない』らしい。

 告白してきたのはあっちの方なのに、別れるときも向こうからという理不尽さにイライラしつつも、キスどころか手もつながないうちに別れたのはちょっともったいなかったんじゃないか、とすら思った。


「おかえり透哉。彼女さん何だった?」

「別れてくれってさ」


 教室に戻ると、親友の森川正成まさなりが声をかけてきた。中学校からの付き合いだが、なにかと頼りになる存在だ。


「はぁ? やっぱりな。クリぼっち予備軍の告白なんか受けるからだよ」

「そういう正成はいいよな、もう四年目だっけ?」

「へへ。幼馴染ってだけじゃあ男女は続かないぜ?」


 正成は近所に住む幼馴染の女の子に自分から告白してOKをもらい、中学の頃から交際を始めたそうだ。

 羨ましい。


「とはいってもさ、付き合うって何するんだよ。趣味も知らないし金もない。帰る方向も違うし何も分かんねぇよ」

「お前な、俺たち高校生だろ? もうちょっとあるだろ」


 そう言いながら正成は手で卑猥な動きをしてみせる。


「そういうお前は幼馴染とどうなんだよ」

「高校生は、それだけじゃないんだぜ……」


 今度は何かを書く仕草をしてみせた。どうやら『その先』の事をよく話し合ったようで、学力の心配をされているらしい。

 こいつは高校も野球部の部活優待で入ったようなもので、勉強の方はあまりよろしくない。幼馴染との関係が進んだのも、その部活のマネージャーとして一緒に居る時間が多いからだといっていたが、やはり同じ時間を過ごすというのはとても大切なんだろう。


「しかしさ、朝っぱらからこんなヘビィなメンタルで授業なんか受けてらんないぞ」


 時間はもうじきショートホームルームが始まる直前になっていた。

 その時、廊下から『偵察屋』とのあだ名を持つクラスメイトの棚崎が大声を上げながら入ってきた。


「おい! なんかウチのクラスに教育実習生が来るらしいぞ! しかもめっちゃかわいい女の人!」


 クラスがザワつく。


「マジか!」「えー、こんな時期に?」「どんな人だ?」「かわいい、って誰目線?」「おいおいおいおいこれは調査がいるんじゃないか?」「へぇ」


「教育実習ってこんな時期にやるんだっけ?」

「いや、小学校の頃は秋ごろとかだったような……」


「おーし、席に着け! 棚崎から聞いてるだろ!? 早く終わらせてくれよ!」


 担任の山口が女の人を連れて教室に入ってきた。ザワついていた教室がピタッと静かになる。


「うん、それじゃあショート始めるか。あ、もう知ってると思うが今日から三週間、教育実習でウチの副担補佐をしてもらう大東おおひがし先生だ。仲良くするように」


 紹介された大東先生は、すらっとした体型に紺色のパンツとスーツがよく似あう人で、長い髪をポニーテールにしていた。化粧っ気もなくうっすらと唇に紅がささっている程度で、いかにも就活中という雰囲気を醸し出していた。


「大東先生! 彼氏はいますか!?」


 棚崎が大東先生の自己紹介を待たずにブッ込む。どっと笑いが弾ける中、大東先生は大きく息を吸い込んだ。


「はい! 大東美智流みちるって言います! 担当は現代文、古文です! 彼氏はこの間別れました!! みんなの中で先生目指している人、三年後には『こう』してるかもしれないから、しっかり観察してね!!」


 教室中に響く大声。

 思わず教室に拍手が起こった。


「はあ…… まあ、妙な転がり方しなかったからいいか。ショートは以上! 明日からの現代文が大東先生と前からいる栄先生と一緒に授業されるから、茶々入れるなよ!」


 五十代手前のおっさん先生が、唾を飛ばしながら俺たちに注意を促す。あの山口先生も面白くて人気があるんだが、面倒ごとをひっかけられると途端に機嫌が悪くなるのが悪いところだ。


「あの先生も彼氏と別れたってよ」

「あー、はいはい。傷心の俺に言うなよ」


 俺はただ、別れたばかりだというのにこんなところで堂々と実習ができる度胸に少し驚かされた。




     〇




 本来俺たちの現代文で教鞭をとる栄先生は非常勤講師として学校が雇っている先生で、年齢はもう七十を軽く超えている。

 

 それでもシャキシャキと話すわ動くわ怒るわ笑うわ、まだまだしっかり働けるところを見ると『この年齢になっても働ける職業である教師』はすごいんだなと思う。


 それほどまでにすごい先生を涙目にさせながらも、大東先生は日々実習をこなしていく。

 だが、残念ながらいい意味ではない。


「大東先生、それは一体……?」

「授業で使う方眼紙です! 問題を繰り返し使うので黒板に貼って使うつもりです!」

「なにか書いてありますけど、そのサイズでは後ろの席まで見えませんね……」


「栄先生! 授業で使うプリント作ってきました!」

「……大東先生、私ですらワープロソフト使えるんで、パソコンの練習しましょうか」


 初日の勢いが一週間も経たないうちに消えていったある日の放課後、部活に行く途中廊下で大東先生とすれ違った。


「あ、実習の大東先生。お疲れっす」

「え、と中道透哉くんだっけ? ありがとう」

「もう名前覚えたんすか?」

「中道くんは授業中に当ててもちゃんと答え返ってくるからね。でもまだ全員覚られてなくて」


 よく見ると、目の下にクマのような跡がある。

 初日にはなかったやつだ。


「寝れてないんですか?」

「あ、栄先生にも言われた! そんなにひどいかな、私の顔」


 ぐしぐしと顔を無造作に擦る。ファンデーションのような肌色の粉が微かに横に広がったのを見て、口にしようか迷った。


「……ふふ。空回りしてるのはわかるんだ」


 俺は部活後に使うために持ち歩いている汗拭きマットを一つ取り出して、彼女に渡した。


「あの、手、よかったら」

「え? あ! ごめん、ありがとうー」


 手に付いたファンデーションをふき取ると、それを大事そうにポケットにしまった。


「あ、捨てときますよ。これから部活行くんで」

「いいのいいの。私もこれから職員室に戻ってレポート書くから」

「……大変なんスね。先生になるって」


 俺は、まだ将来のことなんかまったく考えてない。

 自分の将来設計なんて、あってもなくても変わらないと思っている節があるからだ。なるようにしかならない、と。


「そうかな? 私にとって先生になることって、通過点みたいなものだからね」

「その先に目的があるとか?」

「へへ。不純だけど、同じ先生になって会いたい人がいるの」

「あ、好きな先生だったとか?」


 だが、答えは意外なものだった。


「逆。めちゃくちゃ嫌い。殺したいくらい嫌い」

「聖職者がそれ言うのダメなやつ」


 大東先生はニコッと笑って、しかし声のトーンがいくらか下がった。


「殺したくて殺したくて、大学行ってるときもイライラしてたんだけどね」


 そこでスッと元の声に戻る。


「クビになったの。そいつ。散々私たちの事バカにしておいてさ」

「え?」

「『お前は人を導く教職なんて、出来るわけないだろ!』って言っておいて、自分は生徒に手を出したのがバレたらしいの。ほんと、クソ」


 確かに去年、理由不明でやめた中年の教員がいたのは知ってる。だが、気のせいだろうかその声には、どこか懐かしさとか愛情が籠っているように聞こえた。


「あんたが嫌った生徒が、あんたがなれないって言った先生になったぞ、って言ってやりたかったのにさ」


 その時、放課後のチャイムが鳴り響いた。


「あ、っべ! 部活遅れる!」

「ああああごめん! 引きとめちゃった! 頑張ってきてね!」


 大東先生はそう叫びながら職員室へと向かった。


 俺はその後部活に参加するが、遅刻のペナルティで校庭を追加で十周走らされた。

 でもその間はずっと頭の中で大東先生のことがぐるぐるとまわっていた。




     〇




「……私は、この『作者の気持ち』って言うのがよく分かんなくて、でも解き方は」


 あれからさらに一週間。

 大東先生はいつもと変わらない雰囲気のまま実習を続けていた。


 俺は正直、先生というものをナメていた。

 自分が生徒を育成してると思い上がり、ただ命令し、勝手に生徒の評価付をして、理由ワケのわからない問題で区分けをし、好みで成績や自分の欲望をぶつけられる仕事。


 でも、大東先生は違う。


 ある意味で真っ直ぐなのだが、それが生徒に対しても、自分に対しても真っすぐなのだ。

 くだらないことも、大事なことも、まるっと大東先生は汲み取って答えてくれた。


 ――まるで自分のことのように。


 今日の授業も、栄先生に茶々なのか指導なのか微妙なラインのツッコミをされながら何とか終わった。


 放課後、部活の最中に元カノと視線があった。


 彼女はテニス部、俺はハンドボール部。コートが隣同士なので顔を向ければいやでも目に入る距離だ。


 だが今日は珍しく、彼女の方から近づいてきて声をかけてきた。付き合ってるときはそんなことしなかったのに。


「珍しいじゃん。部活中にこっち見てるなんて」

「そっちこそ。部活中に話しかけてくるのって初めてじゃね?」

「ふふふ。かもね」


 彼女が笑う。多分、初めて見る笑顔。


「そういえば、見たよ。実習の先生」

「あ、そうか。そっちも栄先生だっけ、現代文」

「透哉君が好きそうな先生だね」

「え?」


 意外な一言だった。


「だって、わたしたちの授業で教科書の読み上げ当てるときに『今日は二十三日だから、出席番号二十三番の中道君! て、違うクラス見てた!』なんて言ってさ」

「別に関係なくない? たまたまウチのクラスの出席簿見てたんじゃないか」

「どうかなぁ」


 そんなことを言われては練習にも身が入らず、やっぱりペナルティの校庭五週を走り終えると、空はすっかり真っ赤に染まっていた。


「あーあ、もう誰も残ってないな」

「……ぐっ、ずっ」


 俺は部室棟を出て校門に向かう途中、奇妙な声を耳にした。


「? ……職員室の隣、生徒指導室か」


 普段は遅刻した生徒の指導という名目で反省文を書かせたり、改造制服などの校則違反をした生徒の指導などで服を着替えさせたりする部屋だ。


 つまり放課後使うことはまずない。


 だがよく見ると窓は開いてるし、明かりも少し漏れていた。


「もしかして」


 外からはあまり良く見えないが、窓が開いてるなら少しは見えるだろう。足音に気をつけながら近づくと、見覚えのあるポニーテールがぴょこぴょこ跳ねていた。


 俺は気になって校舎に戻って偶然を装いながら部屋に近づいた。意外にも入口も隙間が開いており、すすり泣く声が漏れ聞こえていた。


「誰か、います?」

「!! ……なかみち、くん?」


 やはり。大東先生だった。


「どうしたんです!?」

「ああっ、違うの、なんでもないの!」


 俺は指導室に入ると扉を閉め、先生に駆け寄った。


「ごめんね、すぐに止まるから」


 手元には書きかけのレポートがあった。書いてる途中で何かがトリガーになって感情爆発したのだろう。


「……この間言った先生のこと覚えてる?」

「ああ、あの『生徒に手を出した』っていう?」

「ほんとはね、私もその先生のことが好きだった」

「――やっぱ、そうだったんスね」

「でも、在学中に『お前は先生になれない』って言われたのもほんと。なんなら、もっとひどいこと言われた」


 俺はその『ひどいこと』がどんな言葉か、怖くて聞けなかった。

 何となく、想像通りだったらすごく嫌だったから。


「あんたが傷物にした生徒があんたよりデキる先生になってやったぞ! って言いたかった」

「大東先生は、頑張ってますって」

「学年主任のオバサンにも言われた。『あなたもどうせ、諏訪先生に憧れてこっちに来たんでしょ?』って」


 きっとその時聞いたんだろう。憧れと怒りの矛先になった先生の末路を。

 被害者が自分だけでないのを。

 そうなるまいと心を奮い立たせて、でもその心も今折れようとしてる。


「あと一週間、頑張りましょうよ」


 俺はつい、彼女のそばに立って肩を叩いた。


「……中道君」


 すると彼女はその手を取って、自身の両手の中にそっとしまい込んだ。


「せ、先生?」

「勇気、くれる?」


 そのままぐいっと俺の体を引き寄せると、頬を伝う涙をそっと俺の頬に押し付けた。


「!?」


 ただ触れ合うだけ、それだけなのに周囲の時間が止まった気がした。

 心臓の鼓動が聞こえる。強くも弱々しくも、しかししっかりとした脈動が耳を掴んで離さない。


 一秒か一時間か、離れた大東先生の頬は、もう何も流れてなかった。


「……ごめんね。ありがとう」

「いえ、その……こちらこそ」

「あっ! もうこんな時間! レポートは明日にしよう。中道君も早く帰りなさい!」


 大急ぎで机のレポートをしまいながら、先生はそそくさとその場を後にした。


「……柔らか、かった」




     〇




 その翌週から、大東先生の服装が少し変わった。

 パンツがスカートになったり、顔立ちがはっきり分かるメイクになってたりと、主に男子生徒が喜ぶ方へ見た目が変わった。


 授業スタイルにも変化があった。

 どちらかというと大人しくなり、こちらはわかりやすくなったと女子生徒の中で話題になった。栄先生曰く『憑き物が落ちた』とのことなのだが、俺としては少し味気なくなったと言えなくもない。


「なあ、大東先生ってよく透哉見てるよな?」

「そうかな? 覚えやすい顔なんだろ」


 しかし俺の目から見ても、彼女と目が合うことが増えた。かく言う俺もあんな事をされて意識しないわけにもいかない。

 教師というフィルタが薄くなり、代わりに女性というラベルが強く見えるようになってしまった俺は、気にならなくても彼女の『女性らしさ』を見つけては気にしてしまうようになってしまったようだ。


 あれからまた会えないかと何度か指導室を覗いてみたが、本人はいるものの普通にレポートを書いているだけで声もかけづらい。


「おい中道、最近練習に身が入ってないぞ!」

「あっ、サーセンッス」


 部活の先輩にも怒られる始末だ。そりゃ、部活の最中も指導室をチラ見してりゃ注意もされる。


「珍しいな。いくらサボりがちなお前でも先輩に怒られるまで気が付かないなんて」


 あまりに俺の様子がおかしく見えたのか、同じ部活のメンバーからも茶々が入った。


「……まあな」

「女か?」

「はぁ?」

「いやさ、お前がそんなに変わったの今まで見たことないからさ」

「んなわけねえって。たまたまだよ」


 そう、たまたまだ。

 初めてできた彼女の扱いが分からず、いつの間にか別れたタイミングでやってきた教育実習生が、同じく失恋の中にあった。それだけの共通点だ。


 不意にこちらの唇を奪っただけの、小さな存在。


 だけど、そんな彼女が俺の心に小さな綻びを作ったのかもしれない。

 それが日を追うごとに、心が揺れるたびに綻びが広がり、些細な行動で揺れ動き、目で追い、足が向き、心が動かされていった。


 ……嘘だろ?


 俺が、大東先生の事を好きになってきている?

 にわかには信じられないが、もしかしたら、そうなのかもしれない。


 でも、好きだからってどうすればいいんだ。

 相手は大学生。たまたまこの学校で実習しているだけ。終わればもう会うことはないだろう。

 いる間に連絡先を聞くのか? 生徒が? 教育実習生に? 事案だろ!?


 だが時間だけは無情にも過ぎ去り、あっというまに三週間が過ぎてしまった。


「皆さん、今までありがとうございました!」


 帰りのショートホームルームで、大東先生はお礼を述べた。

 どこにでもある、テンプレめいたお別れの言葉。

 ふわついた頭ではその意味すら曖昧で、どこで必死になっていいか分からない。

 

 もうちょっと話したい。

 もうちょっと、あなたを知りたい。


「……あれ? ここ」


 気がついたら、俺は生徒指導室の前に来ていた。


「なんで俺、ここに?」

「あら、中道君?」


 突然背後から声が聞こえてきた。


「おっ、大東先生!?」

「わざわざ、お別れを言いに来てくれたの?」


 先生は笑顔で俺に話しかけてきてくれた。

 手には何冊かの参考書と大きな花束が握られていた。これから帰るところなのだろう。


「よかったら、話ししていく?」


 先生は、かつて自分がレポートをまとめるために使っていた部屋を指差す。


「え、ええ」

「……じゃあ、どうぞ」


 てっきり断るものと思っていたのか、素直な俺の答えにキョトンとした先生は指導室へ俺を伴って入った。


 彼女が使っていた机はもう片付けられており、いつも通りの殺風景な小部屋に戻っていた。


「いやー、長かった。けど終わってみたら一瞬だったわ」

「その、お世話になりました」

「ふふっ。どういたしまして。中道君にはいろいろ助けてもらったしね」


 パイプ椅子を向かい合わせに並べて、俺達は座った。くりくりとした目を間近でじっくり見たのは、これが初めてだ。


「俺は、何もしてないッス」

「そんなコトないって。他のクラスで授業したときも色んな人から君のこと聞いたよ? 結構人気者なんだね」

「……元カノが、ちょっと有名なだけでッス」

「あーそれも聞いた。テニス部で次期部長さんなんですって? 向こうが告白したのに向こうから別れを切り出されたって。……大変だったね」

「は、ハハ…… まあ、そうッスね」


 俺は息を吸い込んだ。


「……人を好きになるって、わかんないッス」

「そんなの、みんなそうよ」

「俺は、元カノと付き合ってたときはどうすればいいかわかんなくて、けど変なことして嫌われたくなくて、でも、結局、嫌われました」


 突然、胸が苦しくなった。

 今まで特に考えなかった感情が、頭の中を支配する。悲しい、つらい、悔しい―― 寂しい。

 恐らく俺は今、初めて彼女と別れたことに向き合っている。行き場のなかった、奥底に押し込められた感情が何故か今ごろ堰を切って流れ出したに違いない。


「だ、から、先生が、いなくなるのも、さみ、しいです」

「あ、ちょっ、中道君!?」


 熱いものが溢れる。自分でも止めることが出来ない想いがただただ流れ出た。


「……落ち着いて、ね?」


 ふわりと、俺は暖かいものに包まれた。

 甘い匂いと柔らかな暖かさが、冷たいと自覚したばかりの俺の心を包んで暖めた。


 ひとしきり感情を爆発させた俺は、ふと自分の状況を考えて冷静になった。


「……あの、先生?」


 その言葉が先生の耳に入ると同時に、放課後を告げるチャイムが鳴った。


「あーあ、もう先生じゃなくなっちゃった」

「え」


 見上げる俺。

 そんな俺を優しい眼差しで見下ろす大東先生。


「ふふ。まだ寂しそうな顔、してるね」

「あ、ああの、これは」

「……じゃあ、この部屋を出るまでは、君だけの先生ってことでどうかな」


 子供じみた提案。

 いたずらっぽく笑う彼女は、ちょっとずるい大人の顔になった。

 そして今度は俺の頬に流れていた想いを、俺から彼女の頬に重ねた。


 しょっぱい、けど甘い。

 隙間から漏れ出る生暖かい吐息が首筋をかすめていく。触れるだけの、求めあい。


 俺は少しずつ先生に体を預けていく。立ち上がってその細い体を抱きしめると体を密着させるようにして後ろに下がらせ、背後の机に押し付けた。


「……はぁ」

「んっ、く」


 つう、と淫らな糸が伸びる。だけど、それすら二人とも気にせず見つめ合った。


 どくん、どくんと心臓の音が聞こえる。

 息が荒くなっているのが分かる。自分の息すらうるさく聞こえるほどの静かな部屋の中では、相手の鼓動すら聞こえそうだ。


「私、今すごくドキドキしてる」


 先生はそっと俺の右手を両手で掴み、自分の心臓にあてがった。


「ほら、聞こえる?」

「う…… うん。すごい、ドキドキしてます」


 俺は心臓とは別の感触に身を震わせた。少し湿度も感じるその場所は、柔らかな双丘に挟まれた神秘的な場所だった。

 恍惚の表情を浮かべた俺を見た彼女は、自分の手を俺の心臓とはまた別の場所へ手を這わせ、そっと感触を確かめた。


「ふふ。君もすごく熱くなってる」

「あ、これは、その……」

「オトコノコ、なんだね」


 顔が異常に熱くなる。きっと真っ赤になっているに違いない。

 だけど先生はそんな俺を見てくすくす笑い、そっと自分の同じ場所を俺に触るよう促した。


「ぅお……」

「君だけじゃないよ。私も…… 熱くなってる」


 心臓よりも熱く、脈打つような温もり。


「あらら、苦しそうだね。ちょっと緩めてあげなきゃ」


 先生はそう言って、俺の服を緩めだした。体温よりも熱を持った箇所が空気に触れ、汗に似たむせ返る匂いが辺りに広がった。


「私も、ちょっと暑いかな」


 先生も微かに服を緩める。女性らしい、美しい曲線があらわになるにつれて、周囲の温度が上がっていくような気がした。

 彼女からほのかに香る石鹸と汗の匂いが混ざりあい、鼻腔を刺激して頭がクラクラしてくる。


「ほら、触ってみて」


 言われるまま俺は熱が最もこもる場所に指を這わせた。

 あまりの熱さからか、既にしっとりと湿ったその場所からはますます水気が溢れてきていた。


「あっ、溢れてくる」


 たし、たしと木製の床に水滴が滴る。すくい上げようと手を必死に動かしたが、止まる様子がない。


「君だって、ほら」

「んっ!?」


 今度は先生が俺の熱源へ指を這わす。外の空気に触れたというのに、そこだけはますます熱くなっているような感覚に脳が支配されていく。下手に気をやると、それこそ力が入らなくなりそうだ。


「先生……」


 俺は再度先生を見つめた。

 そんな俺の顔を見て微かに笑ったあと、先生は俺の首に腕を絡め、キスをしてきた。


 どちらから、でもない。哀れみや、寂しさを紛らわせるものじゃない。


 初めて、お互いがお互いを求めるキス。


 愛しさがこみ上げる。と同時に、むくむくと深い雄の欲望が脳を支配していく。この人を自分のものにしたい。むちゃくちゃにしたい。誰にも渡したくない。


「先生、俺」

「うん。いいよ」


 その答えに、間はなかった。先生も同じ気持ちだったのだろうか。

 だけど俺の思考は彼女のことを考えるのではなく、ただ己の欲求が満たされる喜びで溢れかえった。彼女を抱きしめ、本能のまま自身を差し出した。


「んっ…!」

「は、あ……」


 ちょっとずつ体重を預けていく。

 

 俺の体は、少しずつ彼女の温もりに包まれていく。温かくも熱くも、それが愛おしい人のものだと思うともっと貪りたくなる。


 だが。


「あっ!」


 今まで体感したことのない心地よさに、思わず緊張の糸が切れてしまった。


「……中道くん?」

「あっ、その、……ごめんなさい」


 しかし先生はニコっと笑うと、優しく頭をなでてくれた。


「ううん。私を感じてくれたのなら嬉しいよ。でも」


 先生は、まだ緊張している熱いままの頭をそっと包みこんだ。


「もっと私を感じてくれたら、もっと嬉しいな」


 その言葉に、俺は先程よりも強く先生を抱きしめた。


「んふっぁっ!?」

「せ、先生! 先生っ!」


 自分の欲望のまま抱きしめる。それに答えるように、先生もまた俺の欲望を受け止める。


 床にできる水滴は机が軋む音と比例して徐々に広がり、いつの間にかピンク色に濁り始めた。


 ただただお互いを貪り合う。キスして、抱きしめて、思いのたけをぶつけ合う。

 そうして何度も重ねた思いがあふれ、床のピンクの水たまりが白っぽくなった頃、外はもう真っ暗になっていた。




     〇




「あの、先生」


 俺はスマホを取り出して先生に声をかけた。


「れ、連絡先教えて下さい」

「そうだね、えっ…… と」


 先生は自分のスマホを取り出し、だが何かを考えて手を止めた。


「私、S大の教育学部に通ってるんだけど」

「え?」

「運命って、一度の衝撃的な出会いじゃなくて、二度目の運命的な出会いじゃないかって思ってるの」


 俺はちょっと嫌な予感がした。


「でも、先生は三回生でしょ? 俺が今から受けたって」

「それに、今回私の想い人に会えなかったから院に行こうと思ってるの」


 先生がいたずらっぽく笑う。


「彼氏と一緒にキャンパスを歩くのって、いいと思わない?」

「ぐぐ…… でもS大って結構偏差値高くないですか?」

「私がこの学校から入ったんだから、中道君も行けるって。それとも」


 彼女は俺の手を取って、そっと自分のお腹に添えた。


「私を『キズモノ』にした責任、取らないつもりなんだ」

「んなことしない!」


 俺は彼女を引き寄せようと手を引っ張ったが、彼女がそれを手放した。


「じゃあ、……待ってるね」


 そう言って大東先生は、自転車を押しながら俺の眼の前から消えていった。


 俺は、先程まで彼女の温もりの中にあった手を、ただただ見つめることしかできなかった。




     〇




「おい、今日教育実習の先生来るってよ!」

「はぁ? 男? 女?」

「残念、男だってよ」

「はーい解散解散ー」

「ねえ、イケメン?」

「んー、男の俺から見て、普通」

「はいはーい女子も解散ー」

「こらぁー! 騒がしいぞ、座れ! 今日から教育実習にきた中道先生だー! 俺の元教え子だから、遠慮はいらんぞ!」


 懐かしの元担任に促され、俺はめいっぱい息を吸い込んだ。


「初めまして! 私は中道透哉って言います! 仲良くしてください!」

「中道先生! 彼女いますか?」


 俺は『待ってました』と言わんばかりに、笑顔で質問を返した。




       完



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敵わない恋、届く思い~教育実習生は生徒との間でささやかな傷跡を残す~ 国見 紀行 @nori_kunimi

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