千里を走る

茅花

 

 まずいことになったのではないか。また貴子さんを怒らせてしまったのは確かだ。

 夏にも一度怒らせてしまったことがある。あの時は、私の前では終始無表情で一言も話さず過ごすようになった。指一本でも動かせば怒号を浴びせられるのではないかと気が気でなくなり、自分の席に座っていられないほど恐ろしい時間を過ごしていた。貴子さんはヘラヘラしてるからバカにしていたのに、あの圧は何なんだ。怖すぎる。元ヤンかよ。取り巻きのババア達もバイトのくせに生意気なんだ。

 最初は同じ課に入った新卒の女を皆がチヤホヤするのが面白くなかった。それほど美人でもないくせに、有名な大学を出ているから「才色兼備」などと周囲が甘やかす。調子に乗らないように釘を刺したら今度は皆で庇ったのも許せなかった。ムシャクシャしていたから、バイトの貴子さんに荷物を運ばせている時に「係長がもう貴子さんのことは要らないと言っていた」「来年の更新はない」と嘘を教えた。マウントが取れれば誰でも良かった。貴子さんがとても悲しそうな顔をしたことで少しは気が晴れた。

 総務課に異動してきたばかりの頃はバイトの貴子さんとは口も聞いてやらなかった。でも彼女は長年居座っているせいで顔が広く、職員からも上司からも信頼されている。使えそうだから少し話してやるようになったら、犬みたいに私の機嫌を取ってくるようになった。今では私の言いなりで毎日帰りの電車で席を取らせるのが日課だった。

 ところが、その日の帰りに貴子さんの隣に座ろうとすると無視をされた。「お疲れ様です」と声をかけた私が人違いでもしたみたいな空気が車両内に立ち込める。まるで他人のようにこっちを見ようともしないのだ。他に左右に余裕を持って空いている席は無いし、知らない人の真横に座るのは感染症の観点から憚られた。何か言われでもしたら面倒くさい。他の乗客の視線が気になってしまい車両を移動するしかなくなった。その日以来帰りの電車で席が確保できないのが不便で仕方ない。貴子さんは車両か、あるいは電車の時間を変えたようだった。むこうが本を読むふりをしていてもイヤホンをしていても座れれば良かったのにそれもできなくなった。

 ムカついたから貴子さんの椅子にゴミ箱から拾った、誰が食べたかわからない昨日の昼食のゴミを置いておいた。また私の機嫌を取りにくるに違いない。ある男性社員からは「そういうことすんのやめた方がいいよ」と注意された。目立たないくせに偉そうに。しそれでも貴子さんが嫌われているということを周りに知らしめる目的もあったから見られたのは失敗だとは思っていない。あいつのせいで余計腹が立ったから冷蔵庫の中の、貴子さんがペットボトルに付けている目印を外して投げ捨てた。猫の形をした漫画の付録か何かのチェーンホルダーだ。男性職員の誰かが猫グッズを貴子さんにあげていたのを見たことがあるから猫が好きなんだろう。あんな生き物のどこが良いのか。警戒心ばかり強くて懐かないし不気味で好きになれなかった。

 それからすぐに貴子さんが出勤してきた。またあの悲しい顔をして見せてほしい。彼女の隣の席の男性職員も私がゴミを置くのを見ていたから、貴子さんが来たことに気付いてマズい顔をする。貴子さんが椅子を引こうとしたのを見てニヤニヤするのが止められなかった。

「っざけんなよ!おい、ブス!」

 貴子さんが声をあげると何人かの視線が彼女に集まる。いつものおどけた表情だ。一瞬の沈黙の後で笑い声も聞こえた。私は恐怖で凍り付いていた。貴子さんは口が悪い時がある。砕けた親しみやすさと受け取られていたが、この時ばかりは敵意に満ちているのが明らかだった。そしてそれを向けられているのは私だ。また何か言われるのではないかとヒヤヒヤしていると、その不安がすぐに的中してしまう。

「永野さん、これ捨てて!」

 貴子さんがとびっきりの笑顔で遠くから話しかけてきた。大きな声なので皆が私を見る。

「さっさと片づけて、早く早く!ほら早く!」

 いつもと変わらない明るい口調で貴子さんが言う。執務室にいる職員は皆目を逸らし、誰も助けてくれない。恐怖のあまり思わず謝ってしまった。あの時はそうする外なかった。

「あ、はい。すいませんでした」

 貴子さんがすれ違いで冷蔵庫の方へ歩いて行く。やばい、元に戻しておけば良かった。貴子さんはすぐに席に戻って来て、目印のマスコットをウエットティッシュで拭き始めた。

「いい加減にして~?」

 明るい口調からは底知れぬ冷徹さを感じる。ぶふっ、と誰かが吹き出した。貴子さんは真顔で、私は向かいの席に座っていられずにその日は早退した。翌日、お弁当をしまっておこうと思い冷蔵庫を開けると異様な光景を目にした。中に置いてある飲み物やヨーグルトほぼ全てに所有者の名前が書かれている。誰のものかわからないものは遠慮なく頂いていたが、そんなこと今まで誰も気にしたことはなかったのに。

「開封したものは入れておかない方が良いよ」なんて声も聞こえてくる。きっと貴子さんが変な風に言い触らしたのだ。

 それからは少し機嫌を取ってやることにした。一か月もした頃、以前よりも多少の距離は感じるが貴子さんとの仲は元通りになっていた。納涼の飲み会では相変わらず新卒の女を皆がチヤホヤして居心地は最悪だった。帰りの電車でも皆あの女にばかり話しかけて胸糞が悪い。

「じゃあ皆、気を付けて帰るように」

 駅前で解散すると係長と貴子さんが同じ車に乗り込んでゆく。運転しているのは契約課の川島係長のようだ。何故。

「知らなかったの?貴子さんの旦那さんと係長、同期なんだよ。家も目の前なんだって」

「そうなんですか」

 貴子さんの旦那さんが川島係長だということも知らなかった。そういえば貴子さんはあまり自分の話をしない。迂闊だった。これからは少し気を遣ってやることにしようと思ったが、それもすぐにつまらなくなった。貴子さんはつけあがって雑用を断るようになったし、あの女は相変わらず鼻につく。見張っていて「若いからって許されないよ」「常識が無いんじゃない?」とことあるごとに注意するのは少しだけ憂さ晴らしになる。倉庫の鍵を借りに来るパートのおばさん達を怒らせるのも楽しかった。その度に貴子さんが文句を言われるのも良い気味だった。執務室の外に連れて行かれてネチネチ言われているようだ。

 ただ、年末が近づいてきてまた飲み会があることで気が重くなる。気分転換に男性バイトの健康診断を受けられなくしてやった。婦人科検診の案内も回覧しなかったのに、貴子さんが直々に職員課へ話をしたらしく実施されたようだった。当日は女性の職員がいなくて私は忙しかった。ますます腹が立った。

 だからといって貴子さんをあまり怒らせるのは良くない。御用納めの日に「今年もお世話になりました」とLINEを送ることにした。かなり減り降へりくだってやったから機嫌も直るだろう。そう思っていた。それなのに一向に既読はつかない。この私が媚びてやったというのに。飲みにでも行っているのかもしれない。いつもみたいに既読すればすぐに「こちらこそ~」と返信がくるはずだ。

 しかし結局その日に既読されることはなかった。次の日も、その次の日も。そのまま年が明けてしまった。気付いていないということは多分ない。年始の挨拶を送ってみようか。それともブロックされたと騒いでやろうか。被害者として振る舞えば貴子さんの恐ろしさが皆にも知れ渡るだろう。そう考えているうちに、やっと既読がついた。返信はいつまで待っても来なかった。


 そのまま三が日も明けてしまったから、私は年始の朝一に課長に退職したい旨を告げることにした。

「どうしたの?もったいない」

「貴子さんに嫌われているみたいで」

 課長は驚いた顔をした。しめた。もっと詳しく聞いてもらえれば、上手くすると貴子さんを辞めさせられるかもしれない。休日の間ずっと考えていたことだ。

「貴子さんを。それは怒らせてはいけない相手だったね」

「え」

 それだけ?向かいの席に貴子さんがいると思うと怖くて自分の席に座っても居られない。どうしたら良いかわからないと相談がてら言いつけるつもりだったのに。

「退職届の前に退職願を出してね。職員課には私から話しておくから」

 そこからは目まぐるしい速さで手続きが行われ、その日の内に退職届まで提出させられてしまった。書類を渡しに来た職員課のバイトも「お疲れ様でした」というだけだった。「本当に良いの?」とでも聞いてくれば、やっぱり辞めたくないと言えるのに。使えない。どいつもこいつもクソ過ぎる。有給休暇を残さず取ってやると決めたのはこの時だ。そのせいで貴子さんは休めていないらしい。ざまあみろ。私が出勤する日にも必ず無表情で向かいの席にいた。他の人から話しかけられれば笑顔で冗談を言い合っている。こっちを絶対に見ようとしないのは後ろめたい部分もあるんだろう。

「俺明日休み取るからな!」

「ふざけんな、俺が取る」

「ダメだ!じゃんけんだ!」

 引継ぎの為に嫌々ながら出勤すると男性職員たちが休みの取り合いをしていた。担当している恒例行事の準備もあるので私も何日か続けて出勤しなければならない。いつも貴子さんに押し付けていたのに、配布物の折り込みも梱包も頼めず残業して一人でやらなければならない。こんなに時間のかかる作業だっただろうか。「手伝おうか」「やっぱり辞めないでほしい」といった言葉を誰もかけてこない。無能どもめ。有給を消化することに関して、休みの日に上司から電話で注意されたのも気に食わない。当然の権利だというのに、周囲に迷惑がかかったから何だというんだ。引継ぎなんて知るか、私を引き留めなかったことをせいぜい皆で後悔すれば良い。

 

 今日は最後の出勤日だった。大きな鉢植えをもらってしまったから捨てて帰らなければならない。薬局で買ったお菓子を貴子さんと新卒の女以外の全員に配った。さぞかし悔しかったことだろう。通常は午前中の退職式が終われば退職者は午後は休みを取るが、私はそれをしなかった。家に早く帰るのは避けたい。辞めることを両親に話したことを早まったと後悔している。猛反対されて説得されて、つい「辞めない」と言ってしまった。終業まで滞在してから少し遠回りして帰るしかない。私だってせっかくなった公務員を辞めたくなんてなかった。明日から出勤するふりをして何処でどうやって時間を潰せばいいのだろうか。有休の間も家に居られなかったのに。

 とにかく鉢植えを捨てようと思い山間部へ向かうと、昨日までの雨で道がぬかるんでいる。明日は洗車という用事ができたので良しとしよう。これからのことはゆっくり考えれば良い。結婚して横浜に引っ越すと嘘をついた点では良いこともあった。課からお祝いが貰えて儲かったし、退職金もあるからしばらくは生活には困らない。ただ近隣でバイトを探すようなわけにはいかなくなってしまった。引っ越しをするにしてもお金がかかる。まずは指輪を出品してしまおう。どうせ千円で買ったものだ。届いてみれば薄汚れているし小さくて舌打ちが出た。薬指が痛くて壊死するかと思ったけれど誰にも気付かれていないから、きっと上手く騙せて10倍くらいで売れるはずだ。

 鉢植えは袋ごと山の上にある運動公園に捨てた。花なんて貰っても迷惑なだけなのに。現金で渡してくれればいいのに、しかも鉢植えなんて悪意があるとしか思えない。また舌打ちが出る。

 ムシャクシャしたので水たまりの上を通って人に水をかけながら山を下りていた。上手く水しぶきが上がるだけでも楽しいのに、それが通行人に命中したとなれば爽快だった。ちょうど部活帰りの学生や父兄で人通りが多い。相手が怒ってもナンバーを見られても、家の近くではないのだから関係ない。どうせ追いかけてくるわけがない。今日は泥が多いからかけがいがある。せっかくだから楽しまなければ。

 ふと、袋からメッセージカードを抜いてくるのを忘れたことに気が付いた。フルネームが書かれていたと記憶しているが、引き返そうとも思わなかった。運動公園も市で運営しているから課に連絡がいくかもしれない。鉢植えなんて貰って迷惑だったことが伝わるならばその方が良い。私の機嫌を損ねたことを全員反省するべきだ。

 曲がり角から背服姿の女子高生が歩いてくる。顔は見えないが、ライトに照らされた長い髪が茶色に艶めいている。私が受験もさせてもらえなかった高校の制服だった。あの進学校で髪を染めているなんて忌々しい。私だってあの高校にさえ入っていれば、新卒のあの女よりも良い大学に進んだに決まっている。ハンドルを握る手に力が入る。ちょうどよく水たまりがある。できるだけ左に寄せてスピードを上げた。頭から盛大にぶっかけてやろう。車を寄せたのに気が付いたのか、女子高生の足取りが慎重になった。勘のいいガキは私も嫌いだよ。女子高生が水たまりに差し掛かる前で立ち止まった。舌打ちが出る。だったら正面からぶっかけてやる。夢中でアクセルを踏み込み思い切り左に寄せた。対向車のクラクションで我に返る。もう距離が無いと気が付いた時、目の前で身動きが取れずにいる女子高生と目が合った。

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